170. 爆弾
「レンセンパイ」
未だに、その声色の変化に違和感を覚えてしまう。
振り返って、自然と深いため息が漏れる。そこにはアサギが立っていた。
「なんだよ」
「相手してくれませんか」
片手にボールを持ったアサギは、悪びれもせずそう言った。私がイラついているのに気が付いていないのだろうか。どうやらこいつが鈍いのはバスケだけではないらしい。
これ見よがしにため息を吐き、「あっちとやればいいだろ」と隣のコートを指す。
私が示した先のコートでは、1年たちが数人で自主練をしていた。その技術はまだまだだが、これからぐんと成長する見込みはある。
アサギは私の声が聞こえなかったかのようにそのコートには目もくれず、切れ長の目を大きく見開いていた。
大方、私が断ったことに困惑しているのだろう。ミニバス時代は数え切れないほどアサギと1 on 1の練習を重ねてきた。頼まれれば必ず相手をしたし、私からアサギを誘うこともあった。
けれどもう、あの頃とは訳が違う。
「俺、強くなりましたよ」
眉根を寄せ、どこか縋るような色さえ見える瞳で、アサギが言う。こんなことを本気で言っているのだから、もう呆れるしかない。
「今のお前に強いも弱いもねぇよ」
吐き捨てるように言うと、アサギは更に大きく目を見開いた。
「どういう……」
アサギの呆けた声を掻き消すように、黒沢の笛の音が体育館に響き渡る。休憩終了の合図だ。貴重な自主練の時間が潰され、無意識に舌を鳴らす。込み上げてくる怒りをなんとか堪え、代わりに大きなため息を吐いた。
今はとにかく練習だ。ここでアサギを叱れば関係のない部員たちの時間まで奪ってしまう。こいつひとりのためだけに使ってやる時間なんて1秒もない。
「ほら、練習再開だ。あっち行け」
しっしと虫を払うように手を振って歩き出す。背後でアサギがどんな顔をしているのか、一瞬だけ考えた。
「センパイ」
……やっぱり、こいつは鈍いし空気が読めない。
「だから、練習戻れって……」
勢いよく振り返って、思わず言葉が止まった。
アサギは、先ほどの呆けた表情を引っ込め、まるで信じられないものでも見たような顔をしていた。けれどそこに浮かんでいるのは驚きじゃない。信じられない、それ以上に信じたくない。痛いほどにそれを感じるような、失望の表情だった。どこか軽蔑するような色さえ見える瞳が、一瞬で私を射抜く。
「あの頃のセンパイはどこにいるんですか」
心臓と共に、大きく全身が震えたのが自分でもわかった。
私は今、なんとも情けない顔をしているのだろう。本当なら、こんなことを唐突に言われて動揺する方が可笑しいのだ。眉根を寄せて文句のひとつでも言ってやるのが普通の反応だろう。
けれど私は、嫌でもその言葉の真意に気が付いてしまった。
『こんなの、私のバスケじゃない』
忘れかけていた痛みがチクリと胸を刺す。
こいつは、私の変化に気が付いていたのだ。悔しいが、未だスランプから抜け出せていないのは事実だ。“スランプ”なんて言葉も、バスケから逃げるための言い訳にすら思える。
もう二度と戻らないかも知れない。これ以上変わることなんて出来ないかも知れない。
だけど私は、もし本当にそうだったとしても、バスケが好きなことは変わらない。このチームが、仲間が大切なのは変わらない。
“あの頃”に拘っていた自分を、今なら嘲笑ってやれる。
私だって“あの頃の私”がどこにいるのかなんて分からなかったよ。……今までは。
大きく息を吸い込んで、まっすぐにアサギの目を見て、言う。
「“あの頃の私”は、“あの頃”にしかいねぇよ」
“あの頃”はどうしたって“あの頃”で、“今”はどうしたって“今”だ。今の私は今にしかいない。変わっていくことは当たり前なんだ。だからこそ今がある。
……今しかないんだ。
睨みつけるような形で数秒固まっていると、目を丸くしていたアサギはふっと頬を緩めた。
「レンセンパイ、バスケ部に好きな奴いるっしょ」
「はぁ?」
いつもの真顔に戻ってそんな質問をぶつけてきたアサギに、耐えきれず声を荒げる。いきなり何言ってんだこいつは。
……まぁ、こいつも私のことがムカつくんだろう。私を困らせたかったのかも知れないが、この程度じゃ私は揺らがない。第一、練習中に仕掛けてくる時点でアウトだ。
そういう所が、お前の甘さだよ。
「練習中にくだらない話するな」
怒鳴りたい衝動を押し込め、もう一度アサギを睨みつけてから吐き捨てる。随分と時間を浪費してしまった。ただでさえ少ない練習時間は1分1秒でも貴重な時間だというのに。
そう思えば思うほど大きなため息が漏れた。
……もういい。切り替えよう。そう思って、顔を上げた時だった。
「センパイ」
癪に障る声と同時に手首を掴まれたのは。
振り返るより先に、私が声を荒げるより早く、アサギはその口から悪意ある爆弾を投下した。
「好きなんすけど。付き合ってくれません?」
思考と同様に、その場の空気も凍りつく。部員全員の視線が私たちに向けられていた。
「「ええええええ!?」」
やや遅れ気味に響いた部員たちの絶叫も、目の前で顔色ひとつ変えずに立っているアサギのことも、今は心底どうでもいい。初めから何度も、何度も何度も押し込めてきた怒りが全身を駆け巡る。
私の自主練の時間を潰した上に、練習が再開しても尚話を続け、果てには部員全員の集中力を切らすときた。
そもそも、私はアサギのことが気に食わない。初めから、お前と話すことなんて何もないんだよ。
グッと拳を握りしめると同時に、頭の中でブチンと大きな音が鳴った気がした。
「……練習中にふざけたこと言ってんじゃねぇぞ」
確かに私の口から発せられた声は自分でも驚くほど低く、冷酷な声だった。手首を掴む大きな手を力任せに振り払い、立てた親指で体育館の外を指す。
栓を抜いたように溢れ出した激情が、ひとつの怒号となって放たれた。
「今すぐ外周10周してこい!」