166. 謎の少年
「高津くん、ちょっといい?」
「えっ? あ、はい……」
放課後、日直の仕事を終えて部活に向かおうとしていた俺は、辻野先生に呼び止められて足を止めた。
……いつの間に背後に立ってたんだろう。
「今日、仮入部の日よね? さっき岡田先生にも確認したけど」
長めの前髪を耳にかけながら言う先生に、「はい」と応えて頷く。今日は1年生が部活を見学しに来る日だ。なぜ辻野先生がバスケ部の話をしているのかというと、辻野先生が今年からバスケ部の副顧問になったからだった。
今思えば、あのテキトー教師ひとりでよく2年も続いたものだ。きっとこーちゃんと坂上先輩が部をまとめてくれたおかげだろう。
「それでこれ、希望者のリストなんだけど。一応あなたにも渡しておくわね。じゃあ」
早口で言い切り、数枚のプリントを俺に押し付けるような形で持たせると、先生は颯爽と廊下を歩いて行ってしまった。その背中がどんどん小さくなる。歩くの早いな……。
改めて、あの人は全ての行動がキビキビしているなぁと思う。どこかの誰かさんとは大違いだ。
そんなことを思いながら、渡されたプリントに目を落とす。
クラス、名前、バスケ歴が書かれたリストは驚くほど見やすかった。軽く目を通していくと、バスケ歴は0か3がほとんどだった。バスケ歴3年と書いた人は、恐らく中学でバスケ部だったのだろう。俺と同じだ。
その時、“13”という数字が目に入り、俺は思わず二度見していた。10年以上……!?
今年入ってきた1年ってことは、俺の2個下だから15で……。2歳か3歳くらいからバスケしてるってことか……?
軽く混乱しながら名前を確認しようとした時、「茜!」と大声で俺を呼ぶ声がした。
「何してんだよ、こんなとこで」
そう言って顔をしかめたのはジャージ姿の鷹だった。
階段を駆け上がって来たのか、肩で息をしている。
「今日仮入部だろ。部長がいなくてどーすんだよ」
キッと鋭い目で睨まれ、慌てて「悪い」と謝る。鷹は呆れたように息を吐いて「早く行くぞ」と歩き出した。
手元のプリントを確認しようかとも思ったが、どうせすぐ会うんだしいいか、と思い直し、俺はプリントを鞄にしまった。離れて行く背中に追いつき、隣に並ぶと、鷹は僅かに歩調を緩めた。
「そっちのクラスどう?」
それとなく尋ねると、鷹は「普通だよ」とつまらなそうな顔をした。
鷹のクラスは3年B組。岡田っちが担任のクラスだ。
隣ではあるが、俺たちとはクラスが離れてしまった。思えば、同じ学校なのに違うクラス、というのは初めてのことかも知れない。
クラス発表の時B組も良い人ばかりだと確認したので大丈夫だとは思うが……。俺は正直、鷹のことが心配だった。
そんな俺の心情を察したのか、鷹は「気にすんなよ」と呆れたように笑った。
「こんなの慣れてるし、ひとりでいるのもけっこー好きだし。……それに、バスケ部のやつも何人かいるし」
そう言って悪戯な笑みを向けてきた鷹に、俺も「そうだな」と答えて笑った。どうやら心配する必要はなかったみたいだ。
最後の段を下り、体育館のドアが視界に入った時、「あの」という声が俺と鷹の足を止めた。
振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。細く垂れた一重の目。長い睫毛、高く通った鼻。目の下のホクロが印象的な、よく整った顔だった。
「入部届出したいんすけど」
その声でハッと我に帰り、「あ、あぁ」と曖昧に答えながら差し出されたプリントを受け取る。そこに書かれた文字を見て、俺は思わず首を傾げた。ん……? 入部届……?
「まだ仮入部期間だから出さなくてもいいよ?」
プリントを返しながら言うと、少年は不思議そうな顔をした。
「出しちゃだめなんすか?」
「いや、駄目ではないんだけど……。1回体験してからの方が良いんじゃない?」
もちろん入部してくれるのは嬉しいのだが、後になって“想像と違った”なんてことになっても困る。一度体験してみないとわからないことも多いだろうし……。
「や、仮入部はするんすけど。関係ないっつぅか……。バスケやるって、決めてるんで」
その言葉と共に、曇りない少年の目がまっすぐに俺を見つめる。環境やチームメイトに関わらず、“バスケ”だけを見つめたその瞳からは、どこか他人を寄せ付けない雰囲気が感じられた。
ふと隣に目を向けると、案の定鷹は気に食わなそうな顔をしていた。その口が開く前に、慌てて笑顔を作り声を出す。
「そっか、じゃあ預かるよ。仮入部するんだよね? もうすぐ始まるから行こうか。えっと……」
そういえば、まだ名前を聞いていなかった。
すらすらと言葉を繋いでいた口が急に止まり、2人は不思議そうに首を傾げる。やがて、「あぁ」と納得したような声が聞こえて、少年が言った。
「麻木 俊介です。1年B組」
「あぁ、よろしく。俺は部長の高津 茜。こっちはマネージャーの黒沢 鷹」
軽く自己紹介をすると、麻木は小さく頷くように頭を下げた。分かっているのかいないのか……。その態度はなんとなく里宮を連想させた。
「じゃあ行くか」
軽く声をかけて歩き出すと、麻木は素直に俺たちの後を着いて来た。何を話すまでもなく辿り着いた体育館では、早くも里宮がシュートの練習をしていた。高い位置でひとつに結ばれた長髪がさらさらと背中で踊る。
その名前を呼ぶより先に、後ろから「やっぱりいた」という声が発せられた。
入口近くにいた部員たちと里宮の視線が一気に麻木に集中する。訳が分からずにいると、いつもの気だるそうな目を大きく見開いている里宮に気付く。
「久しぶりっすね、レンセンパイ」
そう言った麻木に、里宮は目をしばたたかせて「アサギ?」と、半開きの口から小さくその名前を溢していた。