162. 視界不良の約束 後編
繋いだ手の温かさを感じながら、小さく寝息を立てる香澄をぼんやりと眺める。
『ずっと、一緒にいてね』
数分前の香澄の声が再び頭の中で響く。
これから3年になって、大学生になって、大人になって。俺たちはどうなるだろうか。
静かな部屋に秒針の音だけが規則正しく響いている。
優しく、緩やかな時間が流れていく。ベッドの淵で頬杖をつき、眠っている香澄の顔を見つめる。そういえば、やだって言われたのに結局見てるな。そんなことを考え、1人で小さく笑う。
この先の未来を、まだ見えない“これから”を、俺の方が望んでいる。叶うならこの優しい時間のまま、ずっと香澄の隣にいたい。
来年もクラスは違うだろうか。大学は違うだろうか。大人になったら、こうして会う時間もなくなってしまうだろうか。
……そんなことはないと、信じていたい。でもきっと、現実は想像よりずっと厳しい。もしかしたら、喧嘩したりする日も来るのかも知れない。
そんな未来を想像して、それでも、香澄とならそんな未来さえ楽しめる気がした。
ふと大事なことを思い出して、香澄と繋いでいない方の手を伸ばしてバッグを引き寄せる。少し迷ったが、香澄を起こさないように手を離し、バッグの中の小さな箱を手に取る。
今日は香澄の17歳の誕生日だ。
本当は予約していたカフェでサプライズケーキを用意してもらい、プレゼントもその時に渡すつもりだった。でも今、他の良い方法を思いついた。その上サプライズのことはバレていないし、この計画は来年実行することにしよう。
綺麗に結ばれたリボンを解き、小さな箱を開ける。そこには陽光を受けて輝くピンクゴールドの指輪が入っていた。
先程まで繋いでいた香澄の手を取り、細い指にゆっくりと指輪を通す。小さな花達が集まって咲いたデザインは繊細で可愛らしく、香澄の雰囲気によく似合っていた。
* * *
スマホで調べた英単語を暗記していた俺は、ベッドが揺れたのに気づいて顔を上げた。振り返ると、寝癖をつけた香澄が目元を擦りながら体を起こした所だった。
「私、寝てた……?」
ぼんやりと呟く香澄に、「うん」と頷く。
「1時間くらいかな。体調どう?」
スマホを置いて尋ねると、香澄は機嫌良さそうに笑った。
「結構よくなったみたい。ありが……」
言いかけて、香澄の言葉が止まる。
香澄は大きな目を丸くして、自分の指に目を落としていた。それを見て、俺は思わず笑ってしまった。
「……え? え? なにこれ!?」
慌てたような声をあげ、もしかして、という風に俺を見てくる香澄に、大きく頷く。
「誕生日おめでとう、香澄」
噛み締めるように言うと、香澄は信じられない、とでも言うように首を振り、「えぇぇぇ……」と感嘆の声を零していた。
「全然気付かなかった……すごい、かわいい……ありがとう……!」
指輪を着けた手を抱きしめるようにして言う香澄に、「気に入ってくれて良かった」と微笑む。本当に体調も良くなったようで、顔色もいつも通りだった。嬉しそうに細められた目が、次第に潤んでいく。
「泣かないでよ」
笑いながら言うと、香澄は涙声で「ちがうの」と小さく言って目元を拭った。
「私、こんなに幸せでいいのかなぁ」
“幸せ”。その言葉を香澄の口から聞けたことが嬉しくて、じんわりと胸の中心が温かくなる。やがて両手で顔を覆った香澄が小さく言った。
「幸せすぎて、怖いくらい。いつか、全部なくなっちゃったら……健治くんがいなくなっちゃったら、私……」
あまりに切ない声が胸を締め付ける。
……俺は進学先をまだ決めていなかった。香澄もまだ考え中だと言っていたが、実家を出ることはないらしい。
……でも俺は、今考えている大学のどれを選んでも、家を出ることにはなると思う。両親もそれを了承してくれている。
……まだ、離れると決まった訳じゃない。
でも、あと1年もすれば、学校で毎日のように会える生活は終わってしまう。それは、長いように思えてあまりにも短い時間だった。
「……大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように、俺はそう言った。
声が震えないよう、細く息を吐いて喉に力を込める。
「……絶対、香澄を独りにしないから」
香澄の手を握って言うと、「本当?」というか細い声が聞こえて、俺は大きく頷いた。
「……私も、健治くんを独りに、しない」
小さくも、力強い声で言った香澄は、涙を拭って顔を上げた。2人の視線が重なって、どちらからともなく笑みを零す。
「……約束」
小指を差し出してきた香澄に、俺も応える。まだ少し熱を持った指が触れる。香澄は照れたように頬を赤らめて笑った。
絡めた小指から、言葉以上の想いが伝わってくるような気がした。