160. 愛しい欠如 後編
『初めから決まってたようなもんだったんだよ。”不良の弟は不良“ってな』
静かに話し始めたトラの表情は今までに見たこともないくらい険しくて、喉の奥が締め付けられるような感じがした。
「……悔しくて、腹が立って、気が変になりそうだった。俺がどんだけあいつを嫌ってると思ってんだ。……でも、そこでキレたらあいつらの思うツボじゃねぇか。俺は本当にあいつと同じになっちまう。……そう思って、耐えた。何言われても、何されても、ぜってぇやり返さなかった。普通になろうとした。……それで、どうなったと思う」
顔を上げたトラが俺の目を見つめる。首を横に振ると、トラはふっと自虐的な笑みを漏らした。その目が寂しげに細められる。
「何も変わんなかったよ。馬鹿みてぇだろ。散々まともなフリして生きてきたっつうのに、全部無駄だったんだよ」
「トラ……」
“無駄”という言葉を口にしたトラが、どこまでも虚しくて。そんなことない、と言ってやりたかった。だって、トラは何も悪いことなんてしていないのに。周りの勝手な決めつけのせいで、トラの努力が無駄になるなんて。
……そんなの、辛すぎる。
「……なんで竜一がそんな顔すんだよ」
そう言って笑ったトラの笑顔は優しくて。ごめん、と呟きながらも、俺は涙を堪えるのに必死だった。
「……まぁ、だからって全部あいつのせいだとは言わねぇよ」
そう言ったトラに、思わず「なんでだよ」と噛みつく。そんなの全部、トラの兄ちゃんのせいじゃんか。
……俺は、会ったことないけど。
「……いや」
どこか歯切れの悪い声が聞こえて顔を上げると、トラは気まずそうな顔をしていた。
「中1までは、そうだったよ。……それからは、なんつーか、何したって無駄なら俺には“そう”なる以外に道なんてねぇんだって思って……なんかもう、どーでもよくなっちまって……その……」
言いづらそうに目を泳がせるトラに、ピンとくるものがあって俺は思わず「グレたの?」と口にしていた。聞いてしまってから、ド直球すぎたかな、と思い直すが今更だ。
一方トラは図星だったようで言葉に詰まっていた。しばらくして、「まぁ……」と曖昧に肯定したトラに、俺は思わず笑っていた。
「なんで笑うんだよ」
「ごめんごめん! だって、そんな話初めて聞いたから」
面白くて、ちょっとズレてて、誤解されやすいけど優しいやつ。そんな風に思っていたトラにも、そんな時期があったなんて。驚きはしたが、俺はどこか安心していた。
「……軽蔑しねぇのか」
呟くように小さな声が聞こえて、「え?」と首を傾げる。
「理由があったって、許されないことをしたって事実は消えねぇ。……黙ってて悪かった。俺は、竜一が思ってるようなやつじゃねぇよ」
なんだか暗い顔をしているトラに、俺は「そうだな」と頷いた。今トラが話してくれたことは、俺が今まで知らなかったことだ。当然、俺が勝手に思い描いていたトラとは違う。
ふと、トラが目を丸くしているのに気づく。どうしたんだろう、と思いながらも、俺は言葉を続けた。
「トラにそんな時期があったなんて知らなかったなぁ。もっと早く教えてくれればよかったのに」
「……いや、だから。俺は竜一と友達でいていいようなやつじゃねぇんだって」
そんなことを言うトラに、俺は思わず「へ?」と間抜けな声を出していた。
「なんで?」
訳が分からずにいると、トラは信じられない、とでもいうような目で俺を見てきた。……そんな目で見ないで。
「俺は今まで、その……“悪いこと”も、数え切れないほどしてきてんだよ。だから、れっきとした“不良”なんだ。……“悪いやつ”なんだよ」
「それの何が悪いんだよ」
思ったことをそのまま言うと、トラはまた目を丸くした。
「確かに、やったこと全部赦されるなんてことはないかも知んないけど、反省してんならもうそれで良いだろ。少なくとも俺は、今の話聞いてトラを軽蔑したりしねぇよ。むしろ、なんか嬉しかったし」
言うと、トラは「嬉しかった……?」と不思議そうに俺の言葉を反芻した。そんなトラに、「うん」と応えて大きく頷く。
「トラは、その時辛かったんだろ。そういうのって、思い出すだけで辛いじゃん。でも、俺に話してくれてさ。……それこそ、軽蔑されるかもって思ったのに、それでも話してくれたんだろ? それって、俺のこと信じてくれてるってことじゃん」
口に出すと一層嬉しくて、俺は歯を見せて笑った。トラの表情が、微かに緩む。
「それに」
一度言葉を切って、俺は悪戯な笑みを浮かべた。
「ちょっと欠けてるとこがあった方がさ、人間らしくて良いじゃん」
言うと、トラは丸くしていた目を細めて、「なんだそれ」と笑った。……やっぱり、トラには笑った顔が似合う。
「なんか、ありがとな」
照れくさそうに言ったトラに、「本心だからな!」と笑う。
「それに俺だって、充がトラの兄ちゃんみたいのだったらグレてたかも知んねぇし!」
上機嫌に言って、「充?」と不思議そうなトラの声を聞いてハッとする。
「あぁ、充は俺の兄ちゃん! ……ほらこれ!」
スマホで画像を開いてトラに見せると、トラは数秒黙り込んで「大人?」と聞いてきた。
「うん! 23歳! もうすぐ赤ちゃん産まれるんだよ〜!」
ハイテンションに言うと、トラは目を見開いて「赤、ちゃん!?」と雷が落ちたような顔をしていた。
「あはははは、変な顔!」
「いやそりゃ変な顔にもなるだろ!」
相変わらず目をまん丸くしたトラを見て、俺は声をあげて笑っていた。
* * *
「お邪魔しましたー!」
大きな声で挨拶をすると、お客さんもまばらになった店内でテーブルを拭いていたトラの父がゆっくりと振り返った。
「おう、帰んのか」
そう言って近づいてきたトラの父に、「はい!」と元気よく答える。トラの父は無表情のまま俺の顔を数秒見つめ、「お前、なんつぅんだ」と言った。一瞬何を言われたのか分からず首を傾げると、「名前」という声が飛んできて「あぁ!」と手を叩く。
「長野竜一です! トラとは違うクラスです!」
「ちげぇのかよ」
すかさずツッコミを入れられて、俺は思わず笑った。隣に立っているトラも可笑しそうに笑っている。
「なんか、あれだな。虎と竜か。似てんな、お前ら」
そう言ったトラの父は、鋭い目を細めて笑った。その笑い方はトラにそっくりだった。俺とトラは自然と目を見合わせ、小さく吹き出して笑う。
新しいトラのことも知れたし、トラの父にも会えたし、今日はすごく良い日だったな。
「ありがとうございましたー!」
お礼を言ってから店の出入り口に向かうと、「竜一!」という低い声に呼び止められる。その迫力に、「はい!?」と飛び跳ねて振り返ると、トラの父はニッと口角を上げて言った。
「また来いよ」
その言葉に、胸が熱くなっていく。俺は大声で「はい!」と応えて今度こそ外へ出た。店の前まで一緒に出てきてくれたトラが「今日はありがとな」と微笑む。
「おう! 俺もめっちゃ楽しかった!」
満面の笑みで答えると、トラも頷いた。
「竜一、冬期講習も受けるんだろ? 頑張れよ。……応援してるからな」
そう言って、握った拳を俺の方に向けたトラに、「ありがと!」と笑って、俺はそこに自分の拳をぶつけた。
……よし!
駅までの道を歩きながら、軽く頬を張って気合いを入れる。トラともたくさん話せたし、あとの冬休みは目の前にあることに立ち向かうだけだ。
まだ、自分の未来なんてわからないけど。俺には、夢を応援してくれる友達がいる。
ぐっと拳を握り締め、月の輝く夜空を見上げる。
俺の人生は、まだ始まったばかりだ。