156. 笑っていたい場所
小さな子どものように手を引かれて歩く。
前を歩く里宮の方がずっと小さいのに、その背はピンと伸びて堂々としていた。特に会話をすることもなく、ふたりで静かな廊下を進んでいく。今続いている試合も休憩に入っているのか、ドリブルの音や声援が聞こえてくることもなかった。
数分後、人気のない階段付近までやってくると、里宮は足を止めて振り返った。
「ごめん。どうしても今聞きたくて」
そう前置きし、里宮は一度大きく息を吸って口を開いた。
「さっきの試合、どうだった?」
まっすぐに俺を見つめる里宮の目は真剣で、微かな緊張が伝わってくる。白校と戦った時のコートを思い浮かべると、見事にシュートを決めた里宮の姿が脳裏を過ぎった。
「……良かったよ。負けたのは悔しいけど、色々収穫はあった。ミーティングで出た反省を生かして練習すれば、皆もっと上達出来ると思う。……里宮も」
一度言葉を切ると、里宮が不安そうな目をしているのに気付く。俺はそれを解くように優しく微笑んだ。
「よく、頑張ったな」
ゆっくりと、噛み締めるようにそう言った。
なんだか上から目線な言い方になってしまった気もするが、里宮は特に気にしていないようだった。小さく、ほっとしたように息を吐いた里宮の目元が、キラリと光る。
「ほんと?」
か細い声と共に、とうとう里宮の目から涙が零れ落ちた。
それを見ても、俺はもう驚かなかった。
「本当だよ。いっぱい動いて、シュートも入れてさ。俺の方が全然役に立ててなかったよ。1年の時を思い出すくらい」
苦笑しながら言うと、里宮は頬を伝う涙をそのままに何度も首を横に振った。その姿がなんだか可愛くて、思わず笑ってしまう。
「そんなこと、ない。高津が、いなかったら、私は……」
それ以上の言葉は続かず、里宮は両手で顔を覆ってしまった。そんなに泣いたら、また目が赤くなるんじゃないか?
「なんだよ、今日は泣いてばっかだな」
小さな頭に手を置いて悪戯に笑うと、里宮は怒るでも強がるでもなく「だって」と小さく呟いた。
本当に、里宮は何も隠さなくなった。不安も、悩みも、笑顔も、涙も。沢山見せてくれるようになった。
それだけ、俺のことを信頼してくれてるって、思っても良いんだろうか。
「高津」
涙声で名前を呼ばれ、案の定赤くなってしまった里宮の目を見つめる。
「ありがと」
鼻をすすり、僅かに口角を上げて言った里宮は、なんだか清々しい顔をしていた。その表情に、自然と肩の力が抜けていく。「こちらこそ」と返し、ほぼ無意識に目を細める。
しっかりと涙を拭いて「帰るか」と言う里宮を見て俺は、きっともう里宮は大丈夫だ、と強く感じていた。
* * *
控え室の前に戻ると、部員たちはもう帰る準備を済ませていた。里宮と共に遅れたことを謝っていると、戻ってきていた鷹が「里宮また泣いてただろ」と悪戯な笑みを浮かべた。
案の定里宮は全力で顔をしかめる。
「うるさい。うざい」
「聞こえねぇなぁ〜」
いつになく楽しげな鷹の肩に手を置き、「やめとけって」と呆れ笑いを浮かべる。このまま里宮が不機嫌になったらどうしてくれんだ。そんなことを思っていると、「お前また里宮泣かしたのかよ」という声が飛んできた。振り返ると、五十嵐がニヤニヤした顔で俺を見ていた。
「泣かしてねぇよ! てか“また”ってなんだよ!?」
慌てて声を荒げると、五十嵐は相変わらず意地の悪い笑みを浮かべながら「寺島戦の時も泣かしてたじゃん〜」と揶揄うように言った。
寺島戦……?
『ありがとうっ!』
涙を浮かべた里宮の笑顔が脳裏に弾け、俺は思わず「え!?」と声を上げて飛び上がった。
あれって俺が泣かしてたのか!?
「いや、違うだろ! 普通に嬉し泣きで……。え、俺が泣かしたのか!? 違うよな!? 里宮!」
後ろを歩いていた里宮を勢いよく振り返ると、里宮は俯いたまま細い肩をわなわなと震わせていた。その耳がじわじわと赤く染まっていく。
「うるさい! 泣いた泣いた言うな! 全員忘れろ!」
大声でそう言い放った里宮の顔は驚くほど紅潮していた。
赤い頬のままキッと睨みつけてくるが、いつもの迫力がまるでない。そんなレアすぎる里宮の姿に、皆が笑いを堪えられるはずもなかった。
「「あはははは!」」
その場にいた全員の笑い声が大きく響く。
長野は「忘れられるわけねぇわ〜!」と腹を抱えて笑い、川谷は「里宮顔赤すぎ……!」と抑え気味にも肩を震わせて笑っていた。五十嵐はというと、珍しく爆笑していた。里宮のことを揶揄ってる時はなんか幼く見えるんだよな……。
そんなことを思っていると、こうちゃんまで「里宮ちゃんが照れてる〜!」と笑っていることに気付く。相変わらず、試合中とのギャップが半端じゃない。
ふと後ろを振り返ると、後輩たちは口元を押さえて必死に笑いを堪えていた。それを見て、思わず俺の方が声を上げて笑ってしまう。
なんかいいな、こういうの。
部員たちの笑い声を聞きながら、ふとそんなことを思った。
後輩や仲間の笑顔を見ると、坂上先輩たちが守ってくれたバスケ部を俺も作れているんだと思えて、なんとも言えない達成感と充足感が胸に広がる。
このままずっと、ここで笑っていたい。心からそう思える場所になったバスケ部が、皆にとってもそうだといいな、と思う。
やがて俺の隣に並んだ里宮が、「高津のせいだからな」と鋭い目つきで睨みつけてくる。その頬はまだほんのりと赤く、怒っているというより拗ねているように見えた。
「結局俺のせいかよ」と笑うと、里宮は小さく吹き出して頬を緩め、「そうだよ」と呆れたように笑った。
冷たい風に釣られて顔を上げると、暗くなりかけた空に焼けるような夕日が落ちていくのが見えた。その色はあまりにも綺麗で、今日という日の最後を飾るには充分すぎるくらいだった。
皆の笑顔を眺めながら、今日の試合で見た光景を思い浮かべる。数時間前の様々な出来事が頭の中を流れていく。
心地よい余韻に浸りながら、俺は夕日に照らされた道を仲間たちと共に歩いて行った。