154. 置き去られた感情
「茜! 大丈夫か!?」
慌てた様子で駆けつける鷹の姿が歪んでいる。まるで陽炎を見ているみたいだ。ドクン、ドクンと耳元で響く心音に気を取られながら、受け取ったタオルで乱暴に鼻を拭う。
ベンチに戻ると、俺はコーチが口を開く前に言った。
「まだ出れます」
ざわ、とその場の空気が揺れたのが分かった。
疲れも息切れも気にならなかった。ただ悔しくて、吐きそうな程どす黒い何かが喉元にまとわりついていた。
今すぐ走り出さないと、ボールに触れないと、叫び出してしまいそうだ。
「高津、血」
里宮の声にハッとして視線を下げると、再び鼻から流れ出たらしい血がいつの間にかユニフォームに落ちていた。そんなことですら無性に腹が立って、既に汚れたタオルで乱暴に擦って鼻を押さえる。
「ん」と鼻栓を差し出してきた里宮に、「いい」とだけ言って断る。そんなことより、今は早く試合に戻りたい。
めまいも治った。呼吸も整ってきた。
少しの頭痛やフラつきなんて大したことはない。
『ボロボロだな』
早く、この怒りをぶつけたい。
「高津くん……」
困ったような顔をしたコーチの声には迷いがあった。その口から出る指示を、許可を、今の俺は何より求めている。
「高津」
張り詰めた空気の中、コーチより先に声を上げたのはジャージ姿の里宮だった。
「とりあえず座れ。そのままじゃずっと血止まらない」
里宮の小さな手が腕に触れる。鼻栓の入った小さな袋を、俺の手に握らせようとする。
……やめろ。今は、誰にも。
「いいっつってんだろ!」
気付くと俺は大声を上げて里宮の手を振り払っていた。
今ベンチに座ったら、俺はもう下げられる。出られなくなる。俺はまだ、戦える。戦いたい。
悔しくて、悔しくて、心臓を掻きむしりたくなる。
次の瞬間、熱を持った鼻に勢いよく白い物体が突っ込まれた。唐突すぎて思考停止しそうになるが、里宮の手にある袋が開けられているのを見て、それが鼻栓だということに気付く。
「つべこべ言ってないで休め! そんな状態で出て、もしぶっ倒れたりしたらこっから誰がチームをまとめんだ!」
ビリビリと空気が震える程の大声で怒鳴った里宮は、今までに見たこともないほど怒った顔をしていた。
「お前はキャプテンなんだぞ! 冷静に考えればどうするべきか分かるだろ! コートでもベンチでも、お前は最後までこの試合を見届けなきゃいけないんだよ!」
半ば叫ぶように捲し立てた里宮は鋭い目で俺を睨みつけた。
握り締めた小さな手は震えていて、本気で怒っているのが嫌でも伝わってくる。
……そんなの、分かってる。
分かってるけど、あんなこと言われて引き下がれるわけないだろ……!
固く唇を噛むと、タイミングを見計らっていたかのようにコーチが口を開いた。
「里宮ちゃん、落ち着いて。……高津くん、とりあえず今は休みなさい。その状態でコートに戻るのは監督として許可できない」
真剣な目で力強くそう言われ、俺は何も言えずにただ俯くことしかできなかった。強く握った拳が震え、爪が手のひらに食い込んでいく。
悔しくて仕方がないのに、このまま引き下がるなんて考えたくもないのに、それ以上抗議する気にはなれなかった。
認めたくなくても分かってしまう。
コーチの判断は正しい。こんなボロボロのやつが出たって足を引っ張るだけだ。白都の選手と渡り合うことなど出来ない。
重い足を引きずってベンチに腰掛け、汗に濡れた髪を掻き回す。項垂れたまま荒い息を整えていると、ビーッと遠くでブザーが鳴り、試合が再開した。
コートから聞こえるドリブルの音。観客席から聞こえる応援の声。その全てに、俺は置いて行かれた気がした。
「大丈夫?」
声が聞こえたかと思うと、ベンチが小さく揺れ、誰かが隣に腰掛けたのが分かった。
「大声出してごめん。でも、あれはさすがに動きすぎ。キャプテンだからって限界越えるまで走んなきゃいけないわけじゃないだろ」
里宮の声が続くたび、どうしようもない怒りが募っていく。
もう分かってるから。全部俺が悪かったから。
それ以上、入って来んな。
「黙れよ」
頭を抱え、大きなため息と共に出たのはそんな最低な言葉だった。
際限ない怒りにやるせなさが加わり、訳が分からなくなる。
感情とは裏腹に目頭が熱くなり、虚しさすら覚えた。震える息を大きく吸って深呼吸を繰り返す。
……やめろ。落ち着け。里宮は何も悪くない。
俺がどんな気持ちだろうと、何もしていない人に当たって良い訳ないだろ。
ぐっと拳を握り締めて口を開こうとすると、里宮がやけに落ち着いた声で言った。
「あいつに何か言われただろ」
予想外の言葉に、俺は「え?」と間抜けな声を出して顔を上げた。
「確かにあいつは強いし有名だけど、性格がクソなんだよな」
吐き捨てるように言った里宮はあからさまに顔をしかめて大きなため息を吐いた。
「あいつのこと知ってるのか?」
ふと口にすると、里宮は小さく頷いた。
「昔試合で会ったことあるけど、知り合いってほどじゃない。……悔しいけど、あいつは」
そこまで言った里宮の声を遮ったのは一際大きな歓声だった。コートに目を向けると、白都のキャプテンがまた3ポイントを決めた所だった。
「見ての通り、実力はある」
ため息混じりに言った里宮に、「だろうな」と俺も苦笑する。あんなに嫌なやつは滅多にいないだろうけど、あんなに強いやつも滅多にいないだろう。
認めるのも悔しいが、その実力は誰の目から見ても明らかだった。
コート内を走る白都のキャプテンは動きに無駄がなく、ディフェンスも軽やかな足取りで躱していた。点数も瞬きをする間に変わり、状況は目まぐるしく変化している。
71−76。その数字が刻まれた所で、残り時間はあと10分になった。