153. 激情の色
試合が始まった瞬間、周囲の空気が一瞬にして変わった気がした。この瞬間全身が緊張に包まれ、試合に出る者としての責任がずっしりとのしかかる。
……まずは白校ボール。ゴールへ走る選手の手元に注意を向け、隙を突いて奪ったボールを五十嵐に回す。しかし五十嵐がシュートを決めようとした瞬間、放たれたボールは惜しくも白都の選手によって止められてしまう。
奪って奪われて、そのままシュートは1点も入らないまま最初の10分間が終わった。ミーティングのためベンチに戻ったは良いものの、心臓の音がうるさすぎてコーチの声が全く聞こえない。
……絶対に勝ちたい。勝たなくちゃいけない。
それなのに、心が焦るばかりで思うように身体が動かない。握り締めた拳が震える。俺は……。
「茜!」
一際大きな声が聞こえて、俯きかけていた顔を上げる。
そこには鷹の姿があった。
「落ち着け。焦るな。勝つことを考える前にシュートを決めることに集中しろ。……今まで散々、練習してきただろ」
俺の肩に手を置いて、鷹はそう言った。言葉には出されていなくとも、その目には“大丈夫だ”と諭すような色が浮かんでいた。
……今まで、散々。吐きそうなほど苦しい練習も乗り越えてきた。俺たちは皆成長しているんだ。
大丈夫、そう心の中で唱えて、俺は大きく頷いた。
それを見た鷹は安堵したように顔を綻ばせて頷き返した。
こんなところで止まっているわけにはいかない。
キャプテンとして、俺はただ全力で戦うんだ。
……里宮のためにも。
「高津」
振り返ると、ビデオカメラを覗き込んだままの里宮が小さく手招きをしていた。一瞬頭の中に愛想の良い笑みを浮かべた招き猫の姿が浮かぶが、小さく首を振って里宮の隣に座る。
「これ、さっきのビデオだけど。やっぱ、動きが硬い」
話しながら里宮は動画を再生し、画面の中の俺と白都の選手が向き合った瞬間に一時停止ボタンを押した。
「ほら、ここ。足止まってる」
里宮の細い人差し指が触れた画面にはボールを取られた瞬間の俺の姿が映っていた。……ダサい。
「ここは高津なら抜けられる。押されっぱなしになるな。相手の動きをよく見れば、絶対に分かる。抜けられる“道”が見える。高津なら、絶対」
里宮の力強い声が頭の中に響く。里宮の目は真剣だった。
……俺は知っている。
『絶対勝ってくるから』
里宮の“絶対”に、狂いはない。
「分かった。……ありがとな」
小さく礼を言って立ち上がると、里宮は僅かに頬を緩めて頷いた。
ビーッとブザーの音が鳴り、試合が再開する。
コートの中を走りながら、先程里宮が見せてくれた映像を思い浮かべる。
大きく広げられる両手。素早く方向を変える足先。
『落ち着け』
『相手の動きをよく見れば、絶対に分かる』
ボールを持つ手に意識を残しながら、近付いてくる相手の動きを睨むように見つめる。
『抜けられる“道”が見える』
相手の動きがスローモーションのように遅く見える。その腕がボールに伸びた瞬間、ほぼ無意識に身体を翻してかわす。再び正面に身体が向いたその時、相手の足先がキュッと音を立てて方向を変えた。
その先に、一筋の光が見える。
『高津なら、絶対』
“ダンッ”
強くボールを床に打ち付け、左手に持ち替えて足元に力を込める。
抜けろ……! 心の中で叫び、勢いよく地面を蹴る。
すぐさま相手選手の腕が伸びるが、それはボールに触れることなく俺の視界から外れた。
よし!
そのままゴール下まで走り、ディフェンスを振り切ってシュートを放つ。
『勝つことを考える前に、シュートを決めることに集中しろ』
そうだ。今は確実に、慎重に、“1点”を決める。
数秒後、パサッと気持ちの良い音が響き、この試合で初めての点が雷校に決まった。
「ナイッシュー!」
ベンチから聞こえる声と共に、観客達もわっと声を上げた。今この瞬間から、試合が動き出す。誰もがそう分かっているかのようだった。
その予感は見事に的中し、初めの1点から雷校にも白校にも点が入るようになった。
1点取れば1点取り返されるような状況。これは体力勝負になるな、と額から流れる汗を拭う。
白校のキャプテンが3ポイントシュートを決め、得点板に目を向けると54−60の数字が表示されていた。
……6点差。ここから、追い抜けるか。
コート内で戦う選手たちは既に肩で息をしていた。
……ここからだ。そう自分に言い聞かせ、休むことなく走る。それでも1点、また1点と点差は離れていった。
なんとか1点取り返しても、次の瞬間には白都の3点が決まっている。
気付くと、得点板の数字は60−72に変わり、点差は12点にまで大きくなっていた。
限界を越えそうになる体力。悲鳴を上げ始める手足。酸素を貪るように呼吸をしながら、なんとか身体を動かしている状態。白都の選手もだいぶ消耗しているようだが、まだ最初のペースを崩していない。
まだ試合は終わっていない。遅れるわけにはいかない。
白都のどの選手よりも速く走って、追いついて、追い抜かなければ。ぐっと唇を噛み、再び走り出そうとした、その時だった。
ぐわん、と視界が揺れ、ドンッという鈍い音がやけに大きく耳元で響いた。気付くと俺は片膝と両手を床についていた。
あの音は膝が床にぶつかる音だったらしい。何が起こったか分からずにいると、生温かい液体が鼻から床にポタポタと落ちているのに気付く。
驚いて鼻を拭うと、左手の甲が赤く染まった。
ピピッと笛の音が聞こえたかと思うと、白い床に自分以外の影が伸びていることに気がついた。顔を上げると、そこには白都高校のキャプテンが立っていた。
切長の目に細く通った鼻筋。爽やかですと言わんばかりの顔立ちをしたその人は、表情を変えないまま無言で手を差し伸べてきた。戸惑いつつも素直に手を取ろうとすると、唐突に顔を近づけてきたその人は、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
「雷校も、エースがいなきゃボロボロだな」
その言葉を聞いた瞬間、ブチンッと、血管の切れるような音が、本当に聞こえた気がした。目の前が赤黒く染まっていくような錯覚に陥る。必死に戦って、息も絶え絶えになった状態で走り続けるチームメイトの姿が浮かぶ。
あいつらの活躍を、努力を、貶すなんてありえない。
同じバスケ選手なのに、よくそんなことが言えるな。
……それに、エースがいないってどういうことだ。里宮はちゃんとこの場にいる。さっきのディフェンスだって、里宮がいたから抜けられた。
それなのに、こいつは何を言っているんだ?
……初対面だろうが白校のキャプテンだろうが関係ない。
俺のチームメイトを、仲間を侮辱するのは許さない。
ギリリと音が鳴るほどに歯を食いしばり、差し出された手を払って立ち上がる。再びよろけた足に力を込め、流れ出る赤い血を乱暴に拭い、吐き捨てるように言った。
「ふざけんな」
自分のものとは思えないほど低く冷徹な声が、腹の底で渦巻く激情を煽っていった。