146. その背を待っている
教室のドアを閉め、小さく息を吐く。
岡田っちとこうちゃんへの報告を終えた私は、薄暗い放課後の教室に戻って来ていた。外はもう暗くなり初めているけどまだ4時半だ。こんな時間に帰るのは久しぶりで不思議な感じがする。
鞄を肩にかけて教室を出ると、後ろから「里宮先輩!」と中性的な声が響いた。
振り返ると、そこには案の定部活着姿の篠原が立っていた。
「どうした?」
尋ねると、篠原はどこか気まずそうに目を泳がせながら、「さっき、高津先輩から聞いて……」と言葉を濁した。
……スランプのことか。
そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに。
後輩の不器用な優しさに呆れ笑いを浮かべながら口を開こうとした、その時。
篠原が意を決したように顔を上げて、言った。
「あの、僕、待ってますから!」
両の手を握りしめて、大きな声で伝えてくる篠原の姿は、1年前とはまるで別人のようだった。
「たくさん練習して、里宮先輩が戻ってくるまでにもっと強くなります! ……だから、里宮先輩に見てもらえるまで、僕は待ってます!」
……あぁ、私は良い後輩を持ったな。
何を言ったらいいかとか、どういう態度を取ったらいいかとか、分からなかっただろうに。篠原のことだから、相手を不快にさせないように悩んだだろうに。
苦手な大声を出して、私のことを“待っている”と言ってくれる。
なんで今まで気づかなかったんだろう。
当たり前のように受け取っていた周りの人の優しさ。
今になって分かった。……私は。
「……ありがとう」
“ありがとう”なんて、きちんと言葉にしていなかったんだ。今まで散々救われてきたくせに。
……篠原にも。
救われていたのは、きっと私の方だ。
『篠原、ナイスパース!』
ふと、あの時の光景を思い出した。
『こんなの、私のバスケじゃない』
あの日。
篠原の姿を見て、確かに感じたこと。
「篠原」
歩き出す足を止めて振り返る。階段を降りようとしていた篠原はパッと身を翻した。
「……上手くなったよ、お前」
あの時思った。篠原は確実に強くなっていた。
弱音ばかり吐いていたあの頃が懐かしく思えるくらい。篠原はいつも、人一倍努力していた。
優しく微笑みかけると、篠原は目を輝かせて「ありがとうございます!」と頭を下げた。
私を待っていてくれる後輩のためにも、早く取り戻さないとな。そんなことを考えながら、自分の小さな両手に目を落とす。
『お前は、大丈夫だよ』
……うん。私は、大丈夫。
小さく頷いて、ぐっと拳に力を込める。
鞄をかけ直して、私は1人で帰路に着いた。
* * *
暇だ。
いつもならこの時間は部活だし、家でやることなんて全く思いつかない。
自室の椅子に座ってぼんやりと部屋を眺める。本棚にはバスケ特集のあるスポーツ雑誌がびっしりと並んでいた。
漫画は一冊も持っていない。読む時間もないし、特に興味を持ったこともなかった。小説は申し訳程度に数冊だけ並んでいる。学校の朝読書の時間に読む用の物だ。よく分からないから五十嵐がおすすめしてくれた小説を適当に買って読んでいる。でも最近は読むフリして寝てるし……。
つまらない。やることがない。
黒猫のヨミはというと、本棚の横に置かれた猫用ベッドで優雅に眠っていた。普段帰りが遅いせいであまり構ってやれないから、部屋にいるとこれでもかと言わんばかりに擦り寄ってくるくせに、今日に限って甘えたい気分ではないらしい。
激レアご主人がこんな近くにいるというのに、我関せずとあくびをして目を閉じている。
大きなため息を吐いて、私って本当にバスケしかなかったんだな、と改めて思った。
普通の女子高生は何して過ごしてるんだろう。
そう考えた時、真っ先に阜の顔が浮かんだ。
ほとんど無意識にスマホに手を伸ばしたが、すぐに引っ込めた。私は暇だけど、阜はたぶん今頃部活だ。
音が鳴ったりしたら迷惑だし、今連絡するのはやめておこう。
冷たい机に頬を押し付けながら、「あー」と無駄に声を発する。この上なく無意味な行動をしてしまうくらいには、私は暇を持て余していた。
机の端に伏せられていたスマホを手に取り、検索窓に”暇“と打ち込んでみる。検索すると、”暇“の意味が出てきた。
“仕事の合間の忙しくない時。時間の余裕。ひま”
そーゆーことじゃないんだよ!
ベッドに向かってスマホを投げると、見事に回転したそれはふかふかの枕の上に落ちてボスッとくぐもった音を立てた。
再び大きなため息を吐き、机の上で組んだ腕に額を押し付ける。このまま眠ってしまおうかとも思ったのだが、今日に限って眠気は全くなかった。おめめパッチリだ。
うんと伸びをして、なんとなく目についた本棚に近づいて行く。手を伸ばしかけた時、脳内で高津の声が再生された。
『2週間、バスケのこと何も考えずに生活しろ』
あぁ、もう、分かってるよ!
引き抜こうとしていたスポーツ雑誌を勢い任せに押し戻す。スコーンと間抜けな音を立てて雑誌が元の位置に戻ったかと思うと、その反動か一冊の本がカーペットの上にバサッと落ちた。その表紙にはデカデカと『料理が上手くなる! 簡単レシピ集♡』と可愛らしいフォントで書かれていた。
そういえば小3の時、こんなの買ったな。
母さんがいなくなって、彩がいなくなって……。
忙しい父さんのために、せめて料理だけでも私にできたら、って思ったんだよな。さすがに小学生には危ないって父さんに怒られたけど。
私が料理するようになったのは中学生からだし、今も完璧ってわけじゃないけど……。
足元の本を拾い上げてパラパラとめくると、本当に簡単なレシピばかりで、今の私からすれば簡単すぎるくらいだった。まぁ、確かに小学生には難しいだろうし、家に1人で包丁や火を使うとなると父さんが不安になるのも分かる。
だから私が中学生になるまでは父さんの秘書や仕事関係の人が料理を作りに来てくれたりしたっけ……。
特に会話をした覚えはないし、名前も顔も思い出せないけど。
……でも確かに、人の作る料理は温かかった。
影のようなものに遮られてどうしても顔の見えない誰かが、私に料理の乗ったお皿を差し出して、笑っていた……気がする。
……そうだ、料理を作ろう。
いつもは部活帰りだからもう少し遅い時間から作り始めるけど、せっかく時間があるんだし今日は普段作れないような難しいものを作ってみよう。
私はレシピ本を本棚に戻し、先程ベッドに放り投げたスマホを手に取ってレシピを調べ始めた。