143. もういない
「ん〜! 美味しい! ほら、蓮も食べなよ〜」
「うん」
お皿に乗ったチーズケーキを頬張って、阜は満足そうに笑った。そんな阜に呆れ笑いを浮かべつつ、私もチーズケーキの欠片を口に運ぶ。
「ん」
思わず声が漏れてしまうほどの美味しさ。
口に入れた瞬間広がる濃厚なチーズの味に、私は無意識のうちに目を細めていた。
「うまい」
忙しなくチーズケーキを口に運び続け、私と阜はほぼ同時にそれを食べ終えた。
「美味しかったー! 実はこれ、あのケーキ屋さんで買って来たんだ。中学の近くにあったとこ」
机の上に皿を置いてそう話し始めた阜に、私は中学時代の通学路を思い浮かべる。阜と一緒に帰った道。
そこに赤い屋根のケーキ屋があったことを思い出して、私は「あぁ」と手を打った。それと……。
「2人で行こうって約束してた」
そう口にすると、阜は「そうだよ!」と目を輝かせた。
「覚えててくれたんだ! 嬉しい!」
「当たり前じゃん」
『蓮! あそこのケーキ屋さん、すっごい美味しいんだって! 今度一緒に行こうよ〜!』
『別にいいけど』
『やったー! 約束だよ!?』
『分かったから。声デカい!』
「……忘れないよ」
忘れられる訳がない。忘れようとしたこともあったけど、結局いつもあの笑顔を探してた。
バスケをしてる時も、どこかで阜の応援の声を探してた。
隣にいて欲しいのは、いつだって阜だった。
「約束、まだ有効だからな」
悪戯に言うと、阜は「もちろん!」と大きく頷いた。
2人の笑い声が部屋中に響く。ずっと、この場所に戻りたかった。私はあの頃からずっと阜のことが大好きだったんだ。
それから私たちはお互いの学校の話や中学の頃の話をして楽しい時間を過ごした。誤解が解けてからも、こうしてゆっくり話す機会はなかった。私たちはお互いの心の隙間を埋めるようにずっと他愛ない話を続けていた。
「ありがと、蓮」
そう言って微笑んだ阜の目には涙が浮かんでいた。
「私、本当に、蓮と仲直り出来て良かった……!」
とうとう潤んだ目から涙が溢れ出し、阜の頬を伝う。
「なんで泣くの」
釣られて泣きそうになったのを誤魔化しながら桜色の頬を濡らす涙を拭って言うと、阜は「うぅ、ごめん〜」とハンカチを顔に押し当てていた。
「泣き虫」
悪戯に阜の頬をつつく。顔を上げた阜は不服そうにしながらもされるがままにしていた。
いつも元気で、誰よりも明るくて。……でも、誰よりも泣き虫で。本当は全然強くなんかない。
「阜は、中学の頃から何も変わんないね」
呆れたように笑うと、阜は「身長2センチ伸びたもん!」と頬を膨らませた。
「あはは、何それ」
笑いながら、つい頭の中で身長差を計算してしまう。
阜のやつ、また伸びてたのか。そんなことを考えていると、阜はふと優しく微笑んだ。
「蓮は、変わったね」
ドクン、と心臓が跳ねた。それは今私が一番気にしていることだった。
『……変わらないよ』
「そう、かな……」
「うん! よく笑うようになったしー、可愛くなった!」
「はは……」
変わったことなんて、きっとそれなりにある。
中学と高校で何も変わらない人間なんてそういないだろう。歩いていればいくつもの分岐点に差し掛かる。
変わってしまうことも、変われたことも沢山ある。
それは当たり前のことかも知れない。……だけど。
「あぁ、あと!」
阜は思い出したように人差し指をぴょこんと立てて言った。
「バスケ、すっごい上手になっててビックリした!」
……“上手”……?
「まだまだだよ」
拳を握りしめて言うと、阜は「何言ってんの! 蓮は雷校のエースでしょー!」と笑顔を弾けさせた。
“エース”か……。
『私のポジションは、エースだから』
『頼りにしてるよ、エース』
何だってできる気がした。
誰のことでも救える気がした。
私は、“エース”だから。
本当は弱くたって、それでもいいって言ってくれる皆がいて。仲間がいて。
バスケをしてる時だけは、私は本当に強いんだって思えた。
……分からない。いつから狂い出したのか。
私のバスケは、一体どこで変わってしまったのか。
……私には、バスケしかないのに。
「阜……」
この感情を、苦しみを、吐き出してしまえたら。
……でも、そんなことをしたら大好きな阜まで暗い気持ちにさせてしまうかも知れない。迷惑をかけてしまうかも知れない。
そんな気持ちとは裏腹に視界はぼやけていく。
「蓮!? どうしたの!?」
阜が慌てた様子で私に近寄る。その姿が滲んでいる。
もう、無理だ。これ以上耐えられない。
「……蓮」
落ち着いた阜の声が聞こえて、釣られるように顔を上げる。
「……頼っていいんだよ」
温かな声が鼓膜を震わせる。心から心配してくれていることが分かるような、優しい声だった。
私の頬を、流れるように涙が伝った。
「阜……私……っ」
震えた声を喉に詰まらせながら、なんとか声を絞り出す。
「もう、バスケできない……っ」
もうあの頃の私じゃない。
『立ち上がれ』
強かった頃の私はいない。
『絶対勝ってくるから』
あんな自信なんてない。
阜は一瞬目を丸くしたが、すぐに真剣な表情に戻って「なんで?」と優しい声で尋ねた。
……そんなの決まってる。
「私は……変わっちゃったから」
強く、痛いほどに唇を噛み締める。
もう、どうやって戦えばいいのか分からない。
どうやってバスケすればいいのか分からない。
全部、全部、全部。私は、忘れてしまった。
次の瞬間、何かがふわっと私の身体を包み込んだ。
「大丈夫だよ、蓮」
気付くと私は、阜に抱きしめられていた。
「私はマネージャーだし、やっぱりどうしたって実際戦ってる人たちの気持ちなんて分からない。一緒に戦ってるつもりでも、やっぱり苦しいのは皆の方だから。……だけど、わかるよ」
阜の優しい声が耳元で響く。その声色はまるで真冬の毛布のように温かかった。
「痛かったね。苦しかったね。不安だったね。……よく、がんばったね」
『……足が、動かない』
……痛かった。
『っ私が何したって言うんだよ!』
苦しかった。
『こんなの、私のバスケじゃない』
どうしようもなく、不安だった。
見開いた目から溢れ出した涙が、ボロボロと零れ落ちる。熱いくらいの体温を持った阜の背に、縋るように手を回した。
「怖かったよぉ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、震えた声をあげて泣いた。阜は、そんな私を守るようにきつく抱きしめてくれた。
みっともなく、子どもみたいに泣き続ける私の頭を、阜は優しく撫で続けていた。