137. この感覚は誰のもの
やってしまった……。
聞き慣れたアラームの音を止め、ブランケットの中で大きなため息を吐く。昨日里宮に言ってしまった言葉が未だ鼓膜に張り付いていた。里宮の泣き顔も思い出しては胸を焼かれるような痛みに襲われ、夢の中でまで俺は里宮を悲しませていた。
……あんなことを言うつもりじゃなかった。
ただ里宮のことが心配で、何か少しでも力になれたらと思っただけだった。それなのに結局自分ばかり思いを叫んで、ぶつけた。これじゃあまた里宮を傷付けただけだ。
その上アリスにも酷いことをしてしまった。俺は里宮のことが好きなのに。アリスの気持ちには応えられないのに。
あの時、嬉しそうに輝いた目が、俺の胸に巣食っていた罪悪感を抉った。同じことを他人がしていたら、俺はひどく軽蔑するだろう。
『もうわかんねぇんだよ!』
どうして今更、あんなことを言ってしまったのだろう。
俺はただ、あいつの側にいられればそれで良いはずだった。
報われないことくらい分かっていた。苦しいことを覚悟して、辛いことを承知で、里宮のことを好きでいたはずだったのに。
……欲が出た。俺は、しっかりとは理解できていなかったのかもしれない。好きでい続けると同時に、“仲間”でい続けることの残酷さを。
「茜〜? 早く起きなさ〜い! 遅刻するわよ〜!」
下の階から呼びかける母の声が聞こえて、俺は殊更隠れるように身を縮めた。脳裏に里宮の涙が浮かぶ。
……もう会いたくない。今会ったら、また傷付けてしまうかも知れない。
「茜? 聞いてるの?」
コンコン、とノックの音がして、いとも簡単にドアが開かれる。
「まだ寝てるの!? 本当に遅刻するわよ!?」
部屋に入るなり驚いた声を上げる母に、言葉を返す余裕もなかった。体が重い。瞳を開けるのすら億劫だ。
「……学校行きたくない」
ぽつりと、消え入るような声が漏れた。目を瞑り、ブランケットを被ったまま深く息を吐く。こんな泣き言を言ったってどうしようもない。母の怒鳴り声が今にも聞こえてくるようだった。
しかし数秒後に聞こえてきた母の声は、予想していたものとは正反対のものだった。
「……そう」
落ち着いた声で一言言った母に、思考が停止する。
「じゃあ学校に連絡しとくから。とりあえず起きて朝ごはん食べなさい。お昼は冷蔵庫に入ってる昨日のカレー温めて食べていいから。じゃ、母さん仕事行ってくるね」
あまりにすんなりと受け流した母に、俺は思わずガバッと体を起こした。
「母さん!」
「ん?」
「……ありがとう」
呟くように言うと、母は何も言わないままそっと微笑んで部屋を出て行った。沈んでいた気持ちが、ほんの少し軽くなった気がした。
* * *
なんでこんなにも空は明るいのだろう。誰かの心が暗いのにも気遣わないで。はぁっと大袈裟にため息を吐き、開け放たれた窓の外を眺める。鬱陶しくすら感じられる陽の光。
緩やかに吹く涼し気な風。秋のはじまり。
「欠席〜は、高津ひとりか〜?」
不自然なくらいにきっちりと仕舞われた椅子。
昨日の出来事が頭に浮かび、自然と肩に力が入る。
……あんな高津、初めて見た。
『変わらないよ』
『この先何があっても、俺たちは今のままだ』
……“大丈夫”なんて、どうしてそんなこと言えるんだろう。
きっと、どうしたって変わってしまうものは止められないのに。怖くて怖くて堪らないから目を逸らしても、逃げることなんてできやしないのに。
「……い、お〜い、里宮〜?」
ハッとして顔を上げると、目の前で不思議そうな顔をした長野が立っていた。
「どーしたんだよ、ぼーっとして」
私の不調を疑うように顔を覗き込んでくる長野に、「なんでもない」とだけ答えて視線を逸らす。
私たちはいつもの裏庭に集まって弁当を食べていた。優しく吹く風がほんの少し肌寒くて、落ち着いた空気は暖かくて。
私はこの場所が好きだった。
皆が“チームメイト”としてではなくかけがえのない“友達”として集まる場所。
「そういえば高津、風邪って言ってたけど大丈夫かな」
川谷が不安そうな顔をして言うと、「LINEの返事も来ないしなぁ」と五十嵐もスマホを覗き込みながら声を溢した。
風邪、か……。
私は小さく息を吐いてLINEを開いた。風邪なんかじゃないことくらい、私が一番分かっている。
……高津は、昨日のことをまだ怒っているんだろうか。
“昨日はごめん”
グループラインではなく高津とのトークルームに短い一文を送り、次に何を送るべきか分からず改行ボタンを連打する。
『イライラすんだよ! そーやって無神経なことばっか言って……!』
『ひとりになりたくないだけだろ!』
……分からない。
なんであんなに怒ってたの? “無神経なこと”ってなに?
私、何か嫌なこと言った?
ちゃんと、謝るから。謝りたいから。
教えてよ、高津。
“ちゃんと話したい”
震える指で、なんとか送信ボタンを押す。高津があんな風に言ったのには、必ず何か理由があるはず。
私も、ちゃんと話を聞かないと。
* * *
高津にメッセージを送って約3時間。
放課後になっても高津からの返信はなかった。既読すらついていない。もしかして、本当に風邪だったのか?
だとしたら休んでる所に連絡して悪かったかな。でも結局言っておかなきゃいけないことだし……。
「里宮先輩!」
背後から唐突に名前を呼ばれ、思わず驚いて振り返るとそこには篠原が立っていた。
「どうした?」
「えっと、黒沢先輩が……里宮先輩が何度呼んでも気付かないから、呼んで来いって」
「あぁ、悪い」
謝りながら、そんなに何回も呼ばれたっけ? と首を傾げる。やがて軽いミーティングが終わり、適当なチームでの試合が始まった。“試合”という響きが心に重くのしかかる。
昨日、あの試合で、私は。
「里宮!」
ハッとして顔を上げ、飛んできたボールを反射的に受け取る。……足が、動かない。どっちに行けばいいんだっけ。今まで、何を見て判断してたんだっけ。
私、今まで、どうやって──……。
“バチッ”
振り返った時にはもう遅かった。
背後から私のボールをさらった人影は、すでに前方のゴールを目掛けて走り出していた。
「シノ!」
相沢に名前を呼ばれた篠原が、素早い動きでパスを回す。
『やってもできない人間だっているんです』
『僕は……こんなにも弱いんです』
「篠原、ナイスパース!」
誰かの声でハッと我に帰ると、既に点を取られた後だった。
篠原の眩しい笑顔が、なぜかすごく遠いように思えた。
……おかしい。調子が悪い。今まで何年もバスケを続けてきて、こんなことは一度もなかった。胸の内で膨らんだ不安が、着々と心を侵食していく。
……違う。バスケだけは大丈夫だ。バスケだけは死んでない。バスケだけは、変わらない──……。
いつも感じている風。髪の揺れる感覚。鼓膜に染み付いた音。触り慣れたボール。
私は変わってない。何もおかしくなんてない。
“ガンッ”
ゴールから随分離れたボードにぶつかったボールが、呆気なく地面に落ちていく。……違う。明らかに違う。外すにしても、こんな外し方……。
……誰だ。
こんなの、私じゃない。
こんなの、私のバスケじゃない。