136. 行かないで
窓から差し込む夕日に目を細めながら人気のない廊下を歩き、俺は白校の控室に向かっていた。既に片付けまで進んでいる会場にアリスがまだ残っている可能性は低かったが、何もせずに帰る気にはなれず一応確認してから帰ることにしたのだ。
『ちゃんと断ってくるよ。アリスのこと』
先に会場を出る鷹に言うと、鷹はふっと頬を緩めてどこか呆れたように笑った。
『別に茜がどうしようと俺は何も言わねぇよ。ただ、曖昧にはするなよ』
そう言う割に嬉しそうに口角を上げている鷹に、俺は思わず笑ってしまった。鷹もきっと俺の行動なんて予想できていたのだろう。俺は、どうしたって里宮のことが好きなのだ。
その聞き慣れた声や笑顔を思い浮かべると、言いようのない幸福感が胸に広がる。そして比例するように、悲しげな表情を思い浮かべると締め付けられるように胸が痛み、やるせない無力感に襲われる。
沈みかけの夕日。淡く照らされた廊下の先に見える不安気な瞳。長い黒髪はポニーテールに結ばれ、いつもよりよく見える顔には薄く影が落ちている。
「里宮……」
自然と、零れるようにその名前を呼んでしまう。
試合後から姿を消していた里宮が、浮かない顔をして目の前に立っていた。その顔を見た瞬間、数時間前に感じた異変は思い違いなんかではないことを確信する。
「お前、今日何か……」
「あの女のこと好きなの?」
直後、その場の時間がピタリと止まる。俺の声を遮って唐突に放たれた言葉を、すぐに理解することはできなかった。
「は……?」
「高津の好きな人って、“アリス”のことだったの?」
呆然とする俺を他所に里宮は更に言葉を繋げた。まるで問い詰めるように。その目は確かにしっかりと俺の姿を捉えていて、何か強い意志を持っていた。その変わりように混乱しながらも、里宮のまっすぐな目から視線を逸らすことは出来ない。
脳内はいくつもの疑問で埋め尽くされていた。そもそもなんで里宮がアリスのことを知っているんだ。里宮とアリスには何の関わりもないはずだし、俺とアリスが知り合ったことすら里宮は知らないはずだ。それなのに、なぜか里宮は俺がアリスのことを好きだと誤解している。
……問い詰めるような言葉。責めるような口調。じっと返事を待っている、真剣な目。
その時俺の中に芽生えた感情は、言葉で表すには難しすぎるものだった。ぐっと奥歯を食いしばり、手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。
とにかく今は、白校の控室に行かないと。アリスに会わないと。ちゃんと断らないと。
……里宮から、離れないと。
「……悪い。今急いでるから」
里宮と目を合わせないように体を翻して、そのまま里宮と距離を取る。そうすることで煮えたぎりそうな感情を鎮めたかった。……それなのに。
軽くジャージの裾を引かれる感覚がして反射的に振り返ると、里宮は微かに潤んだ瞳で、怯えるように俺を見つめていた。
「行か……ないで……」
その瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。抑え込んでいた感情が波のように押し寄せてくる。
『高津だから、言えないことも、あるんだよ……』
『里宮の中で整理して、話せるようになったら教えて』
……あの時のことも、俺が“待ってる”って言ったことも、大して覚えてないんだろ。なかったことにして、曖昧にして、俺が距離を取ろうとしたら引き止める。
いい加減にしてくれよ。
何が辛いのか、何が里宮をそんな顔にさせるのか、言ってくれなきゃわかんねぇよ。何も分からないまま、それでも里宮にとって“最善”の態度を取れるほど、俺は器用じゃないんだよ。
『それとも、お前に言い寄ってる女に嫉妬してたりして?』
……そんなわけあるか。
自分のことは何も言わないくせに、俺のことは問い詰めて。俺がいつも、どんな気持ちで里宮と接してるか、考えたこともないくせに。
俺の感情なんて、知りもしないくせに。
自分では抑え切れないほどのその感情は、確かな“怒り”だった。今目の前にいる、里宮に対しての。
「なんなんだよ……お前……」
強く、血が滲みそうなほど強く唇を噛んだ。
「俺がアリスのこと好きだったらなんだっつーんだよ!」
自分の口から発せられたとは思えないほど大きな声。
里宮が小さく体を震わせて驚いたように目を見開くのが見えた。
「高津……?」
なんなんだよ。里宮には関係ない話だろ。俺だって里宮にとって関係ないやつなんだろ。だったらなんで。
「イライラすんだよ! そーやって無神経なことばっか言って……!」
だって、お前は、あれだろ。
俺じゃなくたっていいんだろ。
五十嵐にも川谷にも長野にも、それぞれの大切なものができて。
……お前は、ただ。
「独りになりたくないだけだろ!」
「ちが……違うっ!」
あぁ、もう、やめろ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
本当はこんなこと言いたかったんじゃない。
里宮、泣きそうな顔してる。
「なんだよ、“違う”って! もうわかんねぇんだよ!」
乱暴に髪を掻き回すと、なぜだか俺の方が泣きそうになった。もう、ずっと前から分からない。
俺のことをそういう目で見ていない里宮に、どう接していいのか。もう、ずっと、わかんねぇんだよ。
里宮の、ピンク色に染まった頬に一筋の涙が伝う。
一番見たくない表情だったはずなのに、その涙すら俺は許せなかった。怒りと悲しみが入り混じって、自分でも訳が分からなくなる。
「泣くなよ! お前が泣いたって、俺は……っ!」
涙を拭くことも、抱きしめることもできないんだ。
「っ好きにしろよ!」
吐き捨てるように言って、俺はその場から逃げ出した。
泣いている里宮をそこに残して。
強く歯を食いしばって、がむしゃらに走った。階段を駆け降りて、暗い影の落ちた窓下を抜けて。窓から吹く夜風の冷たさを頬に感じながら、ひたすら走った。
そうしているうちに、出入り口までやってきた。肩で息をしながら顔を上げると、薄暗い空の下に人影が見えた。
「アリス……」
思わず漏れ出した声に反応して、彼女はパッと顔を上げた。
「あ、えっと……返事、まだ聞いてなかったから。私、高津くんの連絡先も知らないし……」
まるで何かを取り繕うように、アリスはそう言った。その頬が徐々に赤みを帯びていく。
『高津の好きな人って、“アリス”のことだったの?』
…………なんだって言うんだ。
「……うん。行こうか、デート」
俺はいつから、こんな最低になったんだ。