130. 雑踏に響く名前
他愛のない話をして笑っている時。コートの中で一緒に走っている時。いつだって楽しいはずなのに、訳もなく寂しく感じることが増えた。
それは私が、“あのこと”を隠しているからだろうか?
……言えるはずがない。そう決めたのは自分なのに、逃れようのない不安が私を底無しの闇へ突き落とす。
『……里宮、なんかあったのか?』
『……俺は待ってるから』
……ねぇ、高津。
高津はどう思ってる?
* * *
照りつける太陽。漸く涼しさも感じるようになってきたというのに、まだまだ暑い日は続くらしい。私は冷房の効いた教室から猛暑同然の中庭を見下ろし小さく息を吐いた。
さすがに疲れた。いつもの部活より何倍も疲れているかも知れない。私の場合、きつい練習で動き回るより全くの他人に囲まれて過ごす方が大幅に体力を消耗するのだ。
「里宮さーん! あそこのテーブルに飲み物運んでー!」
午前に続いてやる気満々の委員長に指示を出された私は、抗う体力など残っているはずもなく、黙って出された飲み物をテーブルまで運んだ。
まぁ、今回は抗う必要もなかったのだが。
「あれ、蓮が持ってきてくれたの? ありがと〜」
可愛らしく笑ってジュースを受け取ったのは私服姿の阜だった。休日にも関わらずトレードマークのツインテールはしっかりと保たれている。それが阜の基本なのかも知れないが。
……私だって、髪型くらい自由にさせて欲しい。委員長に無理やり結ばれたポニーテールを揺らすと、昨日同様軽く巻かれた毛先がふわふわと踊った。
「それにしても蓮、めっちゃ可愛いね〜! ちょー似合ってるよ!」
そう言って笑った阜は、私の運んできたタピオカジュースを一口飲んで「うまっ!」と目を輝かせた。その反応がなんだか気持ちよくて、私はニヤリと口角をあげる。
「うまいだろ」
「うん、めっちゃうまい! え、これ蓮が作ったの!?」
「違うけど」
「なんでそんな威張ってんの」
可笑しそうに腹を抱えて笑う阜に、私も思わず釣られてしまう。私は元々裏で調理する係を希望していたのに、委員長が勝手に私を接客に回したのだ。
めんどくさいったらありゃしない。
「でも、蓮料理得意なのになんで接客なの?」
「それは私が聞きたい」
間髪入れずに言うと、めんどくさいという感情が顔に出ていたのか、阜はまたけらけらと楽しそうに笑った。
「そういえば、黒沢くんって同じクラスなんだよね? 今はいないの?」
思い出したようにきょろきょろとあたりを見回す阜に、「そんなに会いたい?」と揶揄ってみると、阜はあからさまに慌てた様子で「そっ、そんなんじゃないよ!」と顔の前で両手を振った。分かりやすい。既に耳まで真っ赤にしている阜を見て堪えきれずに小さく笑うと、阜は悔しそうに私を睨みつけた。
「もう! 私だっていつか蓮に好きな人ができたら散々揶揄ってやるんだから!」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
何気ない会話のはずが、私は自分でも驚くほど動揺してしまっていた。
「好きな、人……?」
「え、なになに!? まさかもう好きな人いるとか!?」
訳もなく嫌な音をたて続ける心臓を落ち着けるように深く息を吐き、そして吸い込む。
「いるわけないだろ、バーッカ」
吐き捨てるように言うと、阜は「なぁんだ」とつまらなそうに口を尖らせた。
「ほんとにいないの? 蓮モテそうなのに〜」
「……いや、正直言うと“好き”ってよく分からなくて。今まで男は皆友達だと思ってきたし……。でも、急に五十嵐とか川谷とか、“彼女できた”なんて言うから、びっくりして。なんていうか……ちょっと、焦った」
怖かった。私だけ成長していない気がして。私だけ、子供のままな気がして。いつかあいつらに、届かなくなってしまうんじゃないかって。
……バスケだって。“エース”なんて言ったって、きっとすぐ追い付かれて、追い越されて、置いていかれる。
「焦った、って……。そんな、恋愛のペースなんて人それぞれだし、全然おかしなことじゃないと思うけど……。蓮は、蓮のままでいいんだからね?」
優しくそう言ってくれる阜に、私は小さく頷いた。心が温かくなっていく。なんだろう、コレ。“恋バナ”ってやつ?
今まで阜以外の女子とまともに話さなかったから、こんな会話は初めてだ。なんだか、阜にならなんでも言える気がする。
「……ねぇ、“好き”ってどんなの?」
口をついて出た言葉。阜はこれでもかと言うほどに目を見開いた。
「え、んえええ!?」
突然の大声に、教室中の視線が一気にこちらに注目する。
「ちょ、ちょっと阜」
反射的に宥めようとするが、阜は顔全体を真っ赤に染めて完全にパニックに陥っていた。
「“好き”って、“好きって何”って!? そんなの私だってそう思ってたよ! そう思ってたのに……いや、だからって今も黒沢くんのこと好きとか……別にそういうんじゃないけど! 私は……!」
「何騒いでんの?」
唐突に背後から声をかけられ、喋り続けていた阜はビクッと震えて硬直した。その顔から赤みが引き、段々と“青い”とも言える色に変色していく。なるほど、こういうのを“血の気が引く”というのか。真顔のままそんなことを考えている私とは違い、阜はゆっくりと声の主の方へ体を向けていく。
その顔には“まさか”の文字が浮かんでいた。
「……く、くろ、さわくん……」
辺りの騒音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で呟いた阜を前に、執事姿の黒沢は呆れたように肩を上下させた。
「で、何騒いでたんだよ」
残っていたジュースを喉に流し込み、何事もなかったふりをする阜を睨んで黒沢が言った。
「いや、別に何も…………ふっ」
突然吹き出して笑った阜に、黒沢は不愉快そうに顔をしかめる。私は高津の格好で免疫がついていたが、初めてこの格好を目にすれば誰だって同じ反応をするだろう。
それにしたって、こんなに愛想のない執事がいるだろうか?
「……おい」
「いや、全然笑ってないって。うん、すごい……似合ってると……ふふ」
明らかに笑いを堪えながら言う阜に、黒沢は額を抑えながら「だから嫌だったんだよ……」と項垂れた。黒沢もなんとなく察してはいるだろうが、阜はこういう突拍子もない展開に弱い。このツボの浅さも阜の魅力のひとつなのだ。
……まぁ、今の黒沢には毒だろうが。そんなことを考えながら憐れみの目を向けていると、「里宮もその目やめろ」と鋭い目がキッと私を睨みつけた。
秒でバレて注意されたが、とりあえず気付かないふりをしておく。丁度その時、「あ、里宮さーん!」と能天気な委員長の声が聞こえた。嫌な予感がする……。
「そろそろ休憩入っていいよー! 高津くんと一緒に!」
委員長が下手なウィンクをして言うのを聞いて、私は辺りを見回した。
「高津、いないけど」
「えぇ!?」
大袈裟に声を上げた委員長も慌てて教室内を見回すが、もちろん高津の姿はどこにもなかった。
「じゃあ高津くん探してでも一緒に回ってきてよー! うちは執事とメイドが売りなんだから!」
「いや、それもう休憩じゃな……」
「いいから! よろしくねー!」
それだけ言って逃げるように教室を出て行った委員長に、私は大きなため息を吐いた。人を商売道具みたいに……。
「あははは、行ってこいよ里宮。あいつデカいし探せばすぐ見つかるって」
適当なことを言ってくる黒沢を先程の仕返しの如く睨みつけ、私はまたため息を吐いた。
なんで私があいつを探さないといけないんだよ……。
若干、いやかなり腑に落ちない気持ちではあったが、私は重い足を引きずるようにして教室を出た。
「“執事とメイドが売り”って言ってたんだから、黒沢くんが一緒に行ってあげればよかったのに」
「いやいや、なんで俺が。……あいつの隣にいるのはいつだって茜なんだよ」
「ふぅん……高津くんって、蓮のこと好きなの?」
「えっ、んー、まぁ…………誰にも言うなよ」
「あはは、言わないって。……あ、でももしかしたら今、高津くん桃と……」
「え?」
「……いや、いっか。なんでもないよ」
「なんなんだよ」
「うふふ、気を悪くしなさんな。執事似合ってますぞ」
「変なノリで言うのやめろ!」
「黒沢くん執事似合ってるね」
「……っもう、いいだろ! 黙っとけ!」
あぁ、なんでこんなに混んでるんだ……。
もしかしたらビラ配りの仕事を手伝っているのかも知れないと思って外へ出たはいいものの、ありえないほどに人が多い。こんなことなら涼しい教室で委員長に扱き使われている方がまだマシだ。早くも嫌気を感じながらも、キョロキョロと辺りを見回して高津の姿を探す。
そのまま人混みに流されていると、遠くにデカい背中が見えた。お、デカいやつは見つけやすくていいな。
そんなことを考えながら足早に近付き、名前を呼ぼうとした、その時だった。
「アリス!」
僅か数メートル先にいた高津が、声を張って呼んだ名前。
“アリス”……? 首を傾げたその瞬間、視界に飛び込んできたのは金色の髪を揺らして笑う女。その顔には見覚えがあった。確か白校のマネージャーで、阜の友達の……。
笑い合う2人は、何やら楽しげに会話をしながらそのまま校内へ消えて行った。
『里宮』
高津が……。
『アリス!』
あの高津が、女を下の名前で呼ぶなんて…………。