118. 手を伸ばす権利
部屋へ戻ると、先程の騒がしさとは打って変わって穏やかな静寂が私を包んだ。結局あの部屋の騒動は誰が収めるんだろうか。まぁ、部員たちも昼間の練習で疲れている筈だからそのうち力尽きるだろう。そんなことを考えながらドアを閉めると、部屋の中央に並べて敷かれた2枚の布団が目に入った。
なんだか母さんのことを思い出しすぎてしまいそうで、頭痛を堪えるように顔をしかめる。家族3人で行った最後の旅行。この部屋はあの時の部屋に似過ぎているのだ。
あの時は布団は3枚で、私が真ん中で。ドア側に父さん、窓側に母さんが居て。中々眠れない私に付き合って、3人でしりとりをしたりして。
小さく息を吐き、私は窓を開けた。足元から天井近くまである細長い窓の隙間から、部屋の中に充満している空気とはまた違った涼しさを持つ夜風が入り込んでくる。今まで部屋の明かりを反射していた窓がなくなり、遠くに広がる星空がよく見えた。
下ろしたままの髪を自然の風が揺らす。それが心地良くて目を閉じる。大きく息を吸い込むと、空気を食べているような感覚に陥った。
ふと、どこか遠くから幼さの残る笑い声が聞こえる。
まだ汚れを知らない無垢な少女の声。しかしこんな時間に少女が外へ出るだろうか?
そんなことを思ったのも束の間、私はその声がずっと深い記憶の底から聞こえていることに気が付いた。
そう、これは私の声だ。
「母さん、母さん」と幼い私は母さんの後を追う。父さんは私を追いかける。母さんは笑いながら急かすように手招きしていて、父さんは立てた指を頭に乗せ鬼の真似をしながら追いかけてくる。
よく、そうして遊んでいた。見るもの全てが輝いていた。
「母さん、お星様になるの?」
突然、そんな言葉が耳を掠めた。ズキン、と心臓に痛みが走り、息をするのも苦しくなる。そんな私に構わず痛みは続く。身を捩るような痛みに耐えながら見る視界は歪んでいて、最早幼い私の姿も消えつつあった。
果たして彼女は、本当に自分なのだろうか?
何も知らないまま、ただ父さんと母さんに守られて生きていた少女は、素直でよく笑う少女は、もう私の中には居ない。
少女の姿が掠れていく。ブラウン管テレビが映す映像のようにザラザラと途切れていく。そんな視界の中、少女の母は囁くように言う。
「追いかけちゃダメよ」
どうしてか少女は泣いている。
「母さんはね、お星様になるの」
そう言って、少女の母は力なく天を仰いだ。その表情は影に隠れて見えない。たっぷりと間をとって、母は少女と目を合わせ、破顔する。
「じゃあね」
その言葉を最後に、母の姿がふわりと宙に浮く。遠ざかっていく。ゆっくりと、じわじわと、夏の夜空に喰われるように。
「嫌だ」
泣き叫ぶ少女を父が後ろから抱きしめる。母は不自然なほど笑っている。少女は目を剥いて精一杯に声を張り上げた。
「行っちゃ嫌だ!」
身を捩って父を振り払おうとするが、父は離さない。
少女はとうとう両目から涙を零し、掠れた声で叫んだ。
「母さんが死んじゃう!」
喉の引き裂けるような声がして、激しいノイズが辺りを支配する。少女は体を丸め、声の限りに泣き叫んだ。母親の影は
無数の星の中に消えている。いや、そのどれかが母親なのか。
やがて映像は途切れ、次に目の前にいたのは中学生くらいの姿になった少女だった。星空に喰われる母親に手を伸ばしていた少女の面影がうっすらと残っている。
その瞳には憎しみの色が浮かんでいた。
果たして、彼女は本当に自分なのかーー……。
そんな疑問が再び私の脳裏を掠めた刹那、少女は気だるそうな目を私に向け、吐き捨てるように言った。
「あんた、誰」
ハッとして顔をあげる。そこからは既に少女の姿は消えていた。忙しなく周囲を見回していると、ふいに汗ばんだ髪を緩やかな風が揺らした。釣られるように窓の外に目を向け、今まで見ていた光景が夢だったことに漸く気が付いた。
どうやら星を眺めているうちに眠ってしまっていたらしい。
変な夢だったな。そんなことを思いながら小さく息を吐くと、後ろからドアの開く音がした。
振り返ると、スウェット姿の辻野が切長の目を少しだけ大きくさせた。
「あなた、まだ起きてたの?」
静寂に包まれた部屋に、躊躇なく声が落とされる。私はまだぼんやりとした頭のまま小さく頷いた。
まぁ、今まで寝てたんだけど。
辻野は小さく息を吐き、軽くまとめてあった髪を解いた。
コンコルドクリップが外され、艶のある黒髪が流れるようにさらりと落ちる。黒いコンコルドクリップには淡いピンク色の桜が咲いていた。美しい桜と書いて美桜。その名前にピッタリの雰囲気だった。
凛とした彼女の横顔に、季節外れの桜が咲く。
辻野は眼鏡を外し、私の視線に気が付いたのか「何?」と不思議そうに尋ねた。特に話すこともなかったので、無言で首を振り布団に潜り込む。見計らったように明かりが落ち、私は大人しく目を閉じた。
いつもと違う匂い、天井、隣にいる慣れない人の気配。
つい先程までうとうとしていたのに、いざ横になると中々眠れなかった。落ち着きなく寝返りを打って、やがて辻野の方を向く。
薄暗い中、辻野の枕元に置かれたものがぼんやりと見える。
黒い眼鏡、桜のコンコルドクリップ、見慣れない指輪。
辻野はドアの方を向いている。
「辻野」
「……何よ」
「結婚してんの?」
率直な疑問をぶつけると、辻野は分かりやすく黙り込んだ。
唐突過ぎたからか、答えに迷っているからか。
「どうしたの、美桜」
「……あなた、本当にその癖直した方がいいわね」
名前呼びが気に食わなかったのか辻野は若干苛立たしげな口調になったが、それでもこっちを向かない。薄暗い部屋に沈黙が流れる。私の視線を背中に感じながら無言を貫くのが厳しくなったのか、辻野はやがて口を開いた。
「結婚は、しているわ。……一応」
いつにも増して暗い声で言った辻野は、体を丸めて更に私に背を向けた。一応、という響きに違和感を覚え、「一応?」と聞き返す。思わず、といった言い方だった。自分でも失言を自覚しているのか、辻野は大きなため息を吐いた。
「結婚して、子どももいる。でも、ずっと会ってない」
やけくそじみた声でそう言って、話はこれで終わりだと言わんばかりに辻野は布団を首元まで引き上げた。
思えば、どうしてそこで話を切り上げなかったのか。辻野に背を向けて目を閉じてしまわなかったのか。
その時、もしかしたら私は怒っていたのかも知れない。
誰かにとっての、会えない母親。彼女は今、目の前に居る。確かに、生きている。
「なんで会わないの?」
「……大人には、大人の事情があるのよ」
ため息混じりに言った辻野は、「もう寝なさい」と決定的な逃げ道を作り出した。当然のような言い方だった。
子どもには分からない話。
辻野の子どもにも私にも、等しく理解不能な事情。
果たしてそれは、黄泉へ行くより難しいこと?
「かわいそう」
暗闇の静寂には似合わない声だった。辻野の肩が怯えるように小さく震える。そんな辻野に追い討ちをかけるように、私は言葉を繋げた。
「生きてるのに、会えるのに、お母さんに会えないなんて」
わざと強い口調で言うと、短い沈黙の後「そうかも知れないわね」と力ない声が聞こえた。辻野はきっと知っている。
一生徒の情報として、私の母親が既に亡くなっていることを。
「確かに私は子どもだし、大人の事情なんて知らない。……でも」
溢れる涙を堪えて、ゆっくりと息を吸う。
「今も母さんが生きてたら、私は絶対に会いに行く」
叶いもしない妄想。無意味な決意。死んでしまった人は戻らない。それでも会いたいと思う。顔を見たいと思う。
声を聞きたいと思う。抱きしめて欲しいと思う。
その全てに手を伸ばす権利が、今生きている私たちにはある。
結局、辻野は何も答えなかった。
背を向けられているのをいいことに、零れそうだった涙を拭う。夢の中とはいえ久しぶりに母さんの姿を見て、私も少し感情的になっていたのかも知れない。
大人の、ましてや他人の事情なんて知る由もないのに。
小さく息を吐いて体勢を変える。窓の向こうの夜空では相変わらず無数の星達が煌めいていた。普段目にすることのない美しい光景は、何度見ても魅せられてしまう。
……この星空のどこかに、母さんが居る。
母さんの遺したその考えが、私の心に光を灯す。