115. 強化合宿
辻野先生の激昂から部員たちはすっかり大人しくなり、それぞれの荷物を持って駐車場から宿舎までの短い道を無言で歩いていた。
背後から感じる刺すような視線も相まって、空気は鉛のように重い。居心地の悪さを感じながら、それとなく最後尾にあるその姿を確認する。
辻野 美桜。
2年E組の担任で担当教科は国語。鬼のような厳しさから、影では苗字をもじって“角”と呼ばれている。
俺たち5人の中では誰も担任になったことがないので授業以外での関わりはない。
学校では常にパンツスーツ姿だが、合宿という場に合わせたのか今日は黒いジャージを着ていた。艶のある黒髪は普段と同様きっちりとひとつのお団子にまとめられている。学校ではコツコツと廊下を鳴らしているヒールのパンプスに変わって、スポーツシューズが乾いた土を踏みしめる。
眼鏡の奥の鋭い目がギロリとこちらを向いた気がして、俺は慌てて顔を背けた。場の空気は相変わらず重く、誰ひとりとして口を開こうとしない。
いつものメンバーの中にたった1人加わっただけでここまで空気が変わるものだろうか。
もしここに加わったのが辻野先生でなくよっしーだったなら、皆をまとめるどころか事態を悪化させていただろう。
そんなこんなで始まった強化合宿は初っ端から険悪ムード一色となった。事前に決めておいた部屋分けに従い荷物を置き、シューズを持って体育館へ向かう。
さっそく練習が始まると、少しずつ普段の空気が戻っていくのが分かった。体育館に辻野先生の姿がなかったことも部員たちを本調子に戻す要因だったのかも知れない。
「なぁ、なんでツノが来てんの?」
「さぁ……なんか急に付き添うことになったらしいぜ?」
「やっぱ原因は……」
「「あいつか……」」
休憩に入り、体育館の隅で水分補給をしていると、小声で話していた先輩たちの背後に躊躇なく近付いて行く里宮の姿が目に入った。不機嫌オーラ全開の里宮を見て、思わず苦笑する。
この先の展開が予想出来てしまったからだ。
案の定里宮は「私がなんだって?」と喧嘩腰に言い放ち先輩たちを睨みつけた。
そう、辻野先生がバスケ部の合宿に付き添うことになった最大の理由が里宮なのだ。
「いや冗談だって別に里宮のせいとか……あっ、ていうか俺ら“里宮”なんて一言も言ってないけど!?」
誤魔化すには遅い気もするが、慌てて取り繕おうとする先輩たちの狼狽えぶりは少し面白かった。先輩たちでさえ不機嫌な里宮を相手にするとこうなってしまうのだ。もしかしたら里宮は辻野先生より恐ろしい存在なのかも知れない。
やがて里宮はフンと鼻を鳴らしてコートへ入って行った。
威嚇するような激しいドリブル音が体育館中に響き、先輩たちは身を震わせる。
まぁ、結局先輩たちの言っていたことが事実なのだろう。
男だらけの部活に、唯一の女。その上顧問も男。
三泊四日の合宿で女1人という心許ない状況を、学校が無視するはずがない。
つまり辻野先生は、里宮の付き添いとして来ているようなものなのだ。
それを里宮も自覚しているのか、辻野先生の話題が出ると分かりやすく顔をしかめたりしていた。先輩たちに対しては少しくらい不機嫌オーラを抑えてもいいと思うのだが……里宮に関してそんなことは今更なので先輩たちもさほど気にしていないようだった。
そんなことを考えていると、休憩終了3分前を知らせる笛の音が耳に届いた。見ると、鷹は普段の練習と変わらない服装でそれぞれの動きを見守っていた。
注意点などをメモしているのか、忙しなくペンを走らせている。書くことに集中しているのか、その口元に笛が咥えられたままになっていることに気付き、俺は思わず吹き出して笑った。
鷹にとっては初めての合宿だが、いつもどおり全力でサポートしてくれている姿を見て安心した。
宿舎の体育館にも冷房が完備されているからか、部員たちの練習も捗っているようだ。
小さく息を吐いて立ち上がり、窓の向こうに広がる空を見上げる。ジリジリと焼けるように熱い日差しは木々に遮られ、俺たちの居る体育館に程よい影を作ってくれていた。
一羽の鳥が木々の間を縫って飛んでいく様子をぼぅっと眺めていると、部活着の裾を微かに引かれる感覚があった。反射的に振り返ると、そこには里宮が立っていた。
大きな瞳は猫のようにぱっちりと開かれ、長い黒髪は高い位置でひとつに結ばれている。
その姿は学校で授業を受けている時とは違いシャキッとしていて、完全に部活モードだった。
「高津?」
背伸びをしたのか、目の前で左右に手を振った里宮が不思議そうに俺の顔を覗き込む。随分下からの目線ではあったが、俺は驚いて我に帰った。
「うお、ごめん。ぼーっとしてた。もう入る?」
コートに目を向けながら言うと、里宮は小さく頷いた。
「1on1でいいんだよな? 俺相手だからって油断するなよ」
悪戯にそう言って笑うと、里宮は気だるげな目を細め小さく吹き出して笑った。
「私、高津とバスケするの好き」
“好き”
その一言がやけに心臓を突いて、全身が硬直する。
思わぬ不意打ちに息が止まりそうになるが、なんとか呼吸を整える。里宮にとってのその言葉の意味は、俺が求める意味とはかけ離れたものだ。
頭では分かっていても、どうしてもその言葉に反応してしまう。
その言葉を聞くと、どうしても嬉しくなる。
どこかでほっとしている自分もいる。
“人として”嫌われていない。“仲間”として好かれている。
そう感じられる瞬間があると、やっぱり安心する。
「高津?」
「……いや。俺も、里宮とバスケすんの楽しいよ。
……よし! 今度こそ勝つぞ! 里宮!」
高らかに宣言すると、里宮は自信ありげに口角を上げた。
「それは無理。簡単に抜かれてたまるかよ」
「お、言ったな? 本気で行くぞ!」
腕を伸ばしながら言うと、里宮は腰を落としてボールをつき、不敵に笑ってみせた。
「あたりまえ!」
その言葉を合図に、里宮は床を蹴って走り出した。
里宮らしいな、なんて思いながら俺もすぐに後を追う。
華奢な背中で揺れる黒髪が、麗かな日差しを反射していた。