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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第3章
114/203

113. まだ頑張れる 〜皆の夏休み・長野編〜

「ん〜……」


まだふわふわとした頭のまま枕に顔を埋めて唸る。

引退試合が終わってから、なんとなくダラダラしてしまっている自分がいた。体の向きを変え、頭の片隅に何か忘れていることがあるような気がして動きを止める。数秒後、ハッとして勢いよくベッドから起き上がり、時計を確認すると時刻は午前九時を回っていた。


「やっべぇ!」


静寂に包まれた家で1人叫び、慌てて私服に着替える。九時に人と会う約束があることをすっかり忘れていた。靴を履きながら玄関を飛び出し、夏の日差しに照らされながら、長野 竜一は駅までの道を大急ぎで駆け抜けていった。




* * *




「ただいまー」


玄関に荷物を置き、うんと伸びをした充が誰もいない家に向かって声をかける。


「充、今誰もいないぜ?」


「いいんだよ。今のは家に言ったの」


「なんだそれ」


そんな会話をしながら靴を脱ぎ、すぐそこの和室に入る。充は懐かしそうに部屋を見回しながら腰を下ろした。


午前九時、俺は帰省してきた充を駅まで迎えに行く約束をしていた。元はと言えば遠慮する充を押し切って自分から言い出したことだったのに、寝坊するなんて本当にアホすぎる。


結局十分ほど遅れてしまったのだが充はそんなこと気にする素振りもなく、俺の姿を見るなりパッと顔を輝かせて大きく手を振ってくれた。

あまりに激しく両手を動かす充に、俺は息を切らしながらも思わず声をあげて笑ってしまった。


それから、弾んだ心のせいで早口気味に会話を続けながら家までやってきたのだが……。充が久しぶりに帰って来たというのに、家はしんと静まりかえっていた。


「……本当に、父さんと母さんに知らせなくてよかったのか?」


充が今日帰省することを、父さんと母さんは知らない。充自身が望んだことだったが、なんだか申し訳ない気持ちになって言うと、充は「いいんだよ」と笑った。


「俺が帰るって言ったら、2人とも仕事休むかも知れないだろ? そういうのは後々負担になるからな〜」


すっかり社会人になった充は仕事の忙しさを痛感しているのか、やけに大人っぽいことを言った。

俺は仕事のことなんてよく分からないから、そんなもんなのかな、と曖昧に納得したふりをする。

その時、ふと脳裏に懐かしい笑顔が浮かんだ。


「負担といえば、くるみさん大丈夫なの?」


俺の言いたいことを理解したのか、充は分かりやすく目を細めて頷いた。


「大丈夫だよ。今は落ち着いてる。男でも女でも、泣かすんじゃね〜ぞ!」


テンション高くそう言った充は両手で俺の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。それが昔のじゃれあいとよく似ていて、懐かしさに胸を締め付けられながら声をあげて笑う。


「しね〜よ、そんなこと!」


充とくるみさんの間に、最近子どもができた。

といっても、まだ性別すら分からないらしいが。

2人の幸せそうな結婚生活を応援していた俺たちの前に、子どもができたと突然報告に来た2人にはみんな驚かされた。


父さんは口数は少なかったが心なしかいつもより表情が柔らかく、母さんは目に涙を浮かべて「おめでとう」と微笑んでいた。


くるみさんはこれでもかと言うほど幸せそうな顔をしていて、まだそこに新しい命が存在するなんて微塵も感じさせない平らなお腹を大切そうにさすっていた。

そして変わらずいたずらっぽい笑みを浮かべて、「竜くん、おじさんになっちゃうね」と俺をからかった。

その笑顔が、なぜだか無性に懐かしかった。


「それにしても静かだなぁ」


ふと、充が静寂に包まれた部屋を見回して言う。

確かにそこは静かな空間だったけど、普段は充がいない分もっと静かだ。俺は開きかけた口を閉じる。

俺がいつも感じている“静寂”を、充が知らないのは仕方のないことだ。充は、“充がいない家”を体感することなんて出来ないのだから。


「やっぱ父さんと母さんいないと暇だろ? 俺午後から補習あるし……」


自分で言っておきながら、嫌な存在を思い出して自然と大きなため息が漏れる。すると突然、充が勢いよく俺の方を向いた。その瞳はキラキラと輝いている。

……嫌な予感がする。


「じゃあ、俺が勉強見てやるよ!」


無邪気にそんなことを言った充の迫力にのけぞりながら、俺は自分の頬が確かに引き攣っていくのを感じた。






張り詰めた空気が流れる中、時計の音だけが規則的に響く。なぜか充に勉強を見てもらうことになり、俺の部屋までやってきて数十分。俺と充は机を挟んで向かい合わせに座っていた。……俺は正座をしている。


「竜……」


「はい……」


「お前さ……」


机にはばつ印だらけのプリントが隙間なく広げられていた。


「どーやって雷門合格したんだよ……?」


驚愕の表情で充が言う。まるで信じられないものでも見たかのような反応だ。自分の馬鹿さ加減がとんでもないということを改めて痛感させられる。

……居た堪れない。


「すんません……」


ただ項垂れて謝ることしかできずにいると、小さく「違う」と呟く充の声が聞こえて顔を上げる。目を丸くした充はプリントに目を落としたまま口を開いた。


「違う、俺は責めてるんじゃない。中3のお前が雷門行けるくらい頑張れたんなら、大学受験でもその力発揮できるんじゃねーの? お前、全然馬鹿じゃないよ!」


顔をあげて興奮気味にそう言った充の目は真剣そのもので、一瞬何を言われたのか分からなくなる。

“馬鹿じゃない”……? 俺が……?


……ありえない。いつもならそう思うはずなのに、今は充の言葉がただ純粋に嬉しかった。たったそれだけのことで、存在を肯定してもらえたような気持ちになってしまう。まだ頑張れるのかも知れないと思ってしまう。

……ほんと、単純だなぁ。


「ありがと、充……」


情けなく潤んだ瞳を隠しながら、まるで呟くように言う。充はそんな俺を揶揄うことなく俺の頭に優しく手を置いた。先程とは違い手のひらの温かさがしっかりと伝わってくる。昔よりずっと大きくなった手は、それでもあの頃と同じ温もりを持っていた。




* * *




「だからここで……〜が〜に……って、長野! いつまで寝てんだ!」


「んん……?」


やっぱり……頑張れるとか嘘かも知んない……。


「よっしー……俺何分くらい寝てた……?」


「“何分”って、来てからずっと寝てるわ!」


よっしーのキレのある突っ込みが炸裂し、教室が笑いに包まれる。夏休みの補習に集められたのはいつもの補習組の中でも更に厳選されたメンバーだった。

後ろの席を振り返り、改めて“その姿”がないことを確認する。


「よっしー質問〜」


「ん? いいぞ、なんでも聞いて」


「トラ……榊は?」


「は? え……榊?」


予想外の質問に拍子抜けした様子のよっしーは突っ込みも忘れて訝しげに眉をひそめた。


「榊がどうかしたのか?」


「だって今日補習なのにいないじゃん」


改めて教室中を見回すが、そこにトラの姿はなかった。よっしーに向き直ると、よっしーはキョトンとした顔で目をぱちぱちと瞬かせていた。そんなに驚かれることを言ったつもりはないんだけど……。

そんなことを考えていると、よっしーが分かりやすく首を傾げた。


「榊は普通に成績いいぞ?」


予想もしていなかった言葉が耳に入り、思わず「へ?」と間抜けな声を出してしまう。


「だってこないだの補習来てたし……」


「あぁ、それは休んでた部分教えるために呼んだんだよ」


うーんと唸り声をあげながら小さな混乱を巻き起こしている頭の中を整理する。

……つまりトラは、補習に来るような馬鹿ではない、ということか。

自分が失礼すぎる勘違いをしていたことに気付き、情けなさと申し訳なさが同時に募って薄ら笑いが生まれた。


そこからの時間は一瞬にして過ぎていった。

もう寝落ちすることはなかったが、かといって真面目に授業を受けていたかと言われればそうでもない。

ぼんやりと、自分の救いようのない脳みそのことを考えていた。


やがて補習が終わり、補習組のみんなと別れてからも、どこかふわふわした感覚が抜けなかった。

この先どうなってしまうのだろう、という漠然とした不安が俺を襲う。


こんな俺が今更何をしたって変われないんじゃないか。何にもなれないんじゃないか。

そんなことを考えながらうるさく暴れる心臓を抑えたその時、唐突に充の声が脳内で弾けた。


『お前、全然馬鹿じゃないよ!』


その言葉が、俺の顔をあげさせた。


『“馬鹿は馬鹿なりに、()鹿()()みせてやれ”ってね!』


忘れもしない、くるみさんのあの言葉が俺の背中を強く押した。

……そうだ。俺は、まだ頑張れる。

どれだけ救いようのない馬鹿だとしても、強くいられるように頑張るって決めたんだろう。


誰になんと言われようと諦めない。

……今に見てろよ。

固く拳を握りしめ、すぅっと大きく息を吸い込み、夏空に向かって思い切り叫んだ。


「馬鹿だからって舐めんなよ!」



キッと太陽を睨みつけ、俺は諦めかけていた“夢”を追い始めた。

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