107. バイバイ
『黒沢くんに聞きたいことがあるの』
この心に棲みついて、消したくても消えてくれなかった“罪”を、私を、黒沢くんはどう思っているのだろう。そんなことを考えながら言った言葉だったけれど、黒沢くんは案の定不思議そうに小首を傾げていた。
まぁ、再会した時何事もなかったかのような顔で話しかけてくれた黒沢くんと、今目の前にいる黒沢くんの反応を見れば簡単な話だ。
黒沢くんは、私を憎んでなどいない。
きっと噂の原因すら私にあるとは思っていないだろう。黒沢くんは誰かのせいにするような人じゃない。……誰かのせいにできる人じゃない。
そんなことは分かっているけれど、聞かない訳にはいかなかった。黒沢くんが私を憎んでいなくても、あの噂が転校の原因なら私にも少なからず責任がある。
黒沢くんから、平穏な生活を奪ってしまった責任が。
「……黒沢くんが転校したのは、やっぱり“噂”が原因なの?」
意を決して言うと、まっすぐに見つめていた黒沢くんの目が見開かれる。私の言いたい事に気付いたのだろう。噂の内容は説明するまでもなさそうだ。
握りしめた手に力を込めて黒沢くんの答えを待つ。
やがて黒沢くんは「違うよ」とどこか呆れたように頬を緩めた。
「噂は、言い訳みたいなものだったから」
「言い訳?」
思わず聞き返してしまったが、黒沢くんは気にすることなく頷いた。
「元々気に食わない存在だった俺を、貶めるための言い訳だよ。“こいつはこういうことをする奴だから、それを裁いてる自分たちは正しい”って、自分たちを正当化するための道具だ」
……“いじめられる方にも非がある”。
そんな話をどこかで聞いたことがあった。それは確かに一理あるのかも知れない。悪いことばかりしていたり、故意に人を傷付けたりしている人には誰も寄り付かないだろう。
でも、だからと言って集団で痛めつけるのは違う。
そんなことをしてしまったら自分たちの方がずっと深い罪の底に堕ちてしまう。
「……でも、黒沢くんは“悪い人”じゃない。そんな噂デタラメだよ」
むしろ、私の方が黒沢くんに付き纏っていると噂されても可笑しくないくらいだ。何しろ私は黒沢くんが好きで、黒沢くんは私を好きじゃないのだから。
「デタラメでもそうじゃなくても、あいつらには本当のことなんてどうでも良いんだ。自分の都合の良い方に解釈すれば、それが真実として周りにも根付く。……きっと、どこにでもある話だよ」
なんとも思っていない様な口調で言い、黒沢くんは呆れたようにかぶりを振った。まるで情けない過去を笑い話として懐かしんでいるような仕草。その表情はちっとも寂しそうには見えないのに、どうしてか切なくて胸が締め付けられる。
「責任感じさせちゃってごめんな。工藤のことだから“自分のせいだ”って思ってたんだろ。工藤は何も悪くないから気にするなよ」
「……なんで」
「え?」
気付くと、震えた唇から声が溢れていた。言うべきではない言葉だと分かっているのに、動き出した口は止まらない。
「なんで平気な振りするの?……なんで諦めちゃうの?」
黒沢くんの顔に浮かんでいた笑みが止まる。気付くと私は畳み掛けるように言葉を繋いでいた。
「あんな噂、私が一言否定するだけで無くなったかも知れないんだよ。私が気付けなかったせいでもあるけど……黒沢くんが相談してくれれば、一緒に考えて解決出来たかも知れない。そんな簡単にいかなかったとしても、私ひとりだって黒沢くんの味方になれたのに」
一度弁解して信じてもらえなかったとしても、何度でも立ち向かえばいい。2人ならきっとそれが出来た。
ほんの少しだって、変えられることがあった筈なのに。
乾き始めていた目に再び涙が浮かんでくる。
当時の黒沢くんを思うと苦しくて仕方なかった。誰も味方のいない空間で過ごすのはどれだけ息苦しかっただろう。そんな毎日に、黒沢くんはたった1人で耐えていた。その事実が何より悔しくてやるせない気持ちになる。
「……ごめん。あの時はまだ、そんな風に考えられなかった。誰かに頼る選択肢なんてなかったんだ。でも……」
『俺は、相談して欲しかった』
「……もう、大丈夫だから」
噛み締めるようにそう言った黒沢くんが、驚くほど柔らかく微笑む。それを見た途端、胸を締め付けていた鎖がするすると解けていくような感覚がした。
黒沢くんは、まるで憑き物が落ちたような顔をしていた。初めて見せてくれた笑顔とも、落ち込んだ私を慰めてくれた時の優しい顔とも違う。
それは私が初めて見る表情だった。
きっと、雷校に転入してから色々なことがあったのだろう。私には知り得ない黒沢くんの新しい日常を想像し、なんだか胸がいっぱいになって「そっか」とだけ答える。緩くなった涙腺が再び視界を滲ませていく。そんな自分自身に呆れつつ、黒沢くんに気付かれないよう目元を拭い、私は顔をあげる。
こんな時くらい、今までで一番いい笑顔を浮かべていたかった。
「ありがとう、黒沢くん」
先程まで胸を満たしていた苦しみが嘘のように、自然と顔が綻んでいた。
「私の好きな人になってくれてありがとう」
私に恋を教えてくれてありがとう。勇気を出して会いに来てくれてありがとう。そんなことを胸の内で付け加えていると、なんだか気恥ずかしくなって頬が熱くなった。照れて歪んだ顔を隠すように前髪を整え、目の前にいる彼の名前を呼ぶ。
顔をあげた黒沢くんに、私はごく自然な笑顔を向けていた。
「これからも、友達でいていいかなぁ」
素直な気持ちを告げると、黒沢くんは微かに目元を細めて小さく頷いた。困らせてしまうかも知れないと思っていたのに、黒沢くんは少しもそんな素振りを見せなかった。なんだか今までの関係も肯定してもらえたような気がして嬉しくなる。
私たちが出会ったのは偶然で、もし隣の席じゃなかったら言葉も交わさない関係だったかも知れない。
それでも私たちはお互い心を見せ合って、笑い合って、隣に居る時は柔らかな安心感が全身を包んでいた。
あの頃から、私たちは確かに友達だった。
「バイバイ、黒沢くん」
まるでその言葉が合図だったかのように、黒沢くんは迷うことなく身体を翻す。その刹那、綻んだ口元が見えた気がした。離れて行く黒沢くんの背中を夕焼けの日射しが染め上げる。
やがて声も届かないほど遠くなった背中をぼんやり眺めていると、ふいに全身の力が抜けた。
左右に振っていた右手が力なく落ちる。
……バイバイ、私の初恋。
腕と比例するように足元に落ちていた視線をあげる。もうそこに黒沢くんの姿はなかった。
大きく息を吸い込み、くるりと身を翻した私は廊下を蹴って控え室へと走り出した。
私は白校のパワフルツインテマネージャー。
早くみんなの所に戻って、柄にもなく沈んだ部員たちの背中をぶっ叩いてやらないと。
飛び上がって背中を摩る部員たちの姿が頭に浮かび、思わず小さく吹き出して笑う。白校のみんなのことを思うたび、比例するように走る足の速度はあがっていった。後ろなんて振り返らない。
黒沢くんと同じように、振り返ることなくまっすぐ前へ。……まっすぐ、私たちは逆方向へ走り出す。
もう、涙は出なかった。