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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第3章
106/203

105. “ありがたい”話

『大丈夫だよ』


優しい言葉が鼓膜を揺らし、肩の力が抜けていく。

何の根拠もない筈の言葉なのに、自然と心は軽くなっていた。背中に触れる温かい手が冷えた心を溶かしていく。

気付くと、震えはいつの間にか止まっていた。




* * *




また格好悪い姿を晒してしまった。

人気のない廊下を進みながら、数分前のことを思い出して大きなため息を吐く。

あれから、私が落ち着いたことに気付いた高津は、私の背に回していた手を引っ込めて「帰ろう」と笑った。その笑顔を見た途端、幼く泣いてしまった自分が恥ずかしくなった。


情けない姿を振り払うように、控え室に荷物を取りに向かう足を早める。高津には迷惑をかけたし、着いてきてもらうのは申し訳なかったので先にみんなの所へ戻っていてもらうことにした。私もさっさと荷物を取ってみんなの所に行かないと。


進む足の速度を更に上げる。

その時、ふと数分前の出来事が脳裏を過った。どこか不安そうな高津の顔を思い出し、無意識に足が止まる。そういえばあの時……。


『あのさ』


高津、何か言いかけてた……?

小さな疑問が頭に浮かんだその時、廊下の角からぬっと現れた人影が視界を埋め尽くす。直後、どんっと鈍い音が辺りに響いた。


「いた」


鼻先に手をあてて顔を上げると、そこにはよく見慣れた男……おっさんが立っていた。


「うおっ、すんませ……ってなんだ、里宮か。こんなとこで何してんだ?」


慌てた様子だったおっさんは私の姿を見て呆れたように息を吐いた。耳の上あたりで跳ねた寝癖がなんともだらしない。隠すことなく大きなあくびをした岡田っちは、潤んだ目で不思議そうに私を見ていた。


「岡田っちこそ」


「あ〜、ちょっと散歩してから帰ろうと思ってなぁ」


嘘くさい。試合が終わったらいつも一番に帰る岡田っちが、最後まで用もなく残っている訳がない。

岡田っちの背後を覗き込むように確認すると、そこは観客席だった。この位置から見下ろすコートは縦向き。つまり、ゴール目がけて走る選手達の姿を正面から見ることが出来る。……やっぱり。

自分の中の仮説が確信に変わる。


「本当は?」


試すように岡田っちの瞳を覗き込むと、岡田っちは“負けた”とでも言うように小さく息を吐いた。


「挨拶だよ。……分かるだろ?」


珍しく真剣な声が鼓膜を揺らし、背筋が冷たくなる。思考は冷静に保っているつもりなのに、心臓の音はやけに早い。


「……断ったのに」


ぽつりと溢れる。その呟きは自分の声とは思えないほど幼く聞こえた。


「まだ2年の2学期だし、一回断られたくらいじゃ引かねぇよ。“これから心変わりするかも知れない”ってな」


ため息混じりにそう言った岡田っちは呆れたように肩を上下させた。脳内に笑い声が響く。他人の機嫌を取るような、嘘っぽい声。媚びるような目をした中年の男が、貼り付けたような笑みをこちらに向ける。


その手にある大学案内のパンフレットが、絵の具をぶちまけたように様々な色に塗り替えられ、最後には黒く染まる。終始鳴り響いていた気味の悪い笑声は冷笑に変わっていく。そんな錯覚に襲われる。


余程酷い顔をしていたのか、岡田っちは苦笑しながら言った。


「お前がどう思ってようが、一応ありがたい話なんだ。そんな僻むなよ」


「……別に」


唇を尖らせながらも、ひらひらとだるそうに手を振って離れていく岡田っちの後ろ姿を見送る。

……ありがたい話。私はそれを欲していないのに?

プレッシャーをかけるような位置に陣取って、値踏みするように私のバスケを見ていたのに?

試合中、観客席の中に見つけた姿を思い出して大きなため息が漏れる。


あんなものに、私のバスケが汚されてたまるか。




* * *




控え室のドアを勢いよく開けると、すぐそこのベンチに座っていた背中がびくっと飛び上がった。

誰もいないと思っていた私の身体も小さく跳ねる。

雷校のジャージを着た人影が、振り返って丸い目を私に向けた。


「びびったぁー……お前まだ帰ってなかったのかよ」


そう言って顔をしかめた黒沢は控えめに心臓を押さえていた。どうやら相当驚いたらしい。

控え室の隅を指して「荷物あるだろ」と返すと、黒沢は「知るか」と口を尖らせた。気付けよ。


「黒沢は帰んないの?」


無造作に置かれていた荷物を持ち上げ、何をするでもなくベンチに座っている黒沢に問いかける。


「……白校の試合が終わるまで待ってるんだよ」


目を逸らしがちにそう言った黒沢に、頭の中で思考が弾ける。


「……話してくるの? 阜と」


黒沢がゆっくりと顎を引く。肯定。

私は「そう」とだけ言って控え室のドアを開けた。

これは阜と黒沢2人の問題だ。私が首を突っ込んで良い話じゃない。それに私は……。


『お前のことが好きだからだよ』


随分昔に聞いたもののように感じる黒沢の声。

私にとっては遠い過去の出来事でも、黒沢にとってはきっと違う。阜にとっても。

……今度、ちゃんと話さないと。


「里宮」


背後から呼び止められ、控え室のドアが半開きのままで止まる。振り返ると、ベンチから立ち上がった黒沢がどこか迷うように目を泳がせていた。


「何」


「工藤に、話してもいいか? その……俺が里宮に告白したこと」


今まさに考えていたことを話題に出され、心臓がひとつ跳ねる。


「2人は誤解が解けたばっかで……俺が余計なこと言ったら、また前みたいになるかも知れない。そう思ったけど、ちゃんと話したいんだ。工藤に、俺のこと」


「うん」


ただ一言口にすると、黒沢は驚いたように顔をあげた。


「私も阜にはちゃんと話すつもりだったし。それに私たちは、もう大丈夫だから」


もう大丈夫。なんの確証もないその言葉を、私は信じている。きっと阜も。

もしもこの先私たちの仲が揺らぐことがあっても、私たちはもう逃げない。


「そっか」


鋭い目を細めて、黒沢が穏やかに微笑む。出会ったばかりの頃では信じられないほど柔らかい表情だ。

その時、半開きのドアの奥から試合終了のブザーが微かに響いた。足を踏み出した黒沢が、ドアノブより随分高い位置に手をついてドアを開ける。

控え室にオレンジ色の光が差し込んだ。


黒沢の背中を軽く叩く。振り返った黒沢は、まるで応えるように小さく頷くと、夕焼けに染められた廊下を悠々と歩いて行った。

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