103. 七色作戦
緊張が全身を巡る。
どこからともなく響いてくるざわめきが耳を埋め、心臓の音を反響させる。大きく深呼吸を繰り返し、反対側のベンチに目を向けると、そこでは見るからに強そうな体裁をした選手たちが真剣な表情で言葉を交わし合っていた。
履践学園。これから俺たちが対戦するその高校は、広く“強豪校”と認知され、実力の高い選手たちが集まっている学校だ。そんなレベルの高い高校を相手にして、全く不安がないと言えば嘘になる。
技術の差は少なからずあるだろうし、今日の作戦は異例だ。成功するか失敗するか、まだ誰にも分からない。
それでも、皆がこの作戦に賭けている。
今日で引退になってしまうかもしれない3年生でさえも、里宮の提案したこの作戦を信じている。
俺に出来ることは、この作戦を、里宮を信じて全力で勝ちにいくことだけだ。
軽く腕を伸ばして気合いを入れ直していると、会場の入り口から小さな影が姿を現した。
高く結ばれたポニーテールに、ぶかぶかのユニフォーム。目が合うと、里宮は小走りに近づいてきた。
「ごめん。遅くなった」
無表情のままそう言った里宮に、呆れ笑いを浮かべつつ頷く。
「これ控え室に忘れてたぞ」
言いながら里宮の細い手首にリストバンドをはめると、里宮は「ありがと」と短く言った。左手首にはめられたリストバンドを右手でギュッと握る里宮を見て、内心でほっと息を吐く。
信じているとはいえ中々姿を現さない里宮を心配していたのだが、こうして戻って来てくれたし調子も良さそうだ。そんなことを考えていると、コートから集合の声が聞こえてくる。
俺たちはどちらからともなく目を見合わせ、強気な笑みを浮かべていた。
さぁ、揺さぶってやろう。
俺たちの“色”で。
「これから雷門対履践学園の試合を始めます!」
「「お願いします!」」
身体中に熱が籠る。
応援の声も、観客たちのざわつきも耳に入らない。
聞こえるのは、自分の息遣いと心臓の音。そして、同じコートを走る仲間たちの声。
履践学園との試合は既に始まっていた。
三神先輩が、ボールを持った履践学園の選手の前に立ちはだかり動きを止める。三神先輩はディフェンスが大の得意だ。相手がどんな選手だろうと、粘り強くボールを取りに行く。先輩は普段の賑やかな姿とはまるで別人のように冷静な目で、一時の油断も見落とさないように相手選手の動きをじっと見ている。
その時、先輩が唐突にゴールを指した。その合図の意味を、雷校の選手だけが知っている。
“全員、ゴールに走れ”
三神先輩の声が脳内で再生される。
今、三神先輩以外の全員がゴールに走ったら、履践学園のゴールに守りはゼロになる。三神先輩が相手選手を止められなかった場合、確実に点を取られてしまうだろう。
この状況であの合図を出すということは。
……三神先輩は、ボールを奪えると確信している。
堰を切ったように心臓が暴れ出す。
その時、突然ベンチから大きな声が耳に届いた。
「迷うな! 突っ切れ!」
雷に打たれたような感覚が走り、俺は弾かれたように顔を上げた。声だけで分かる。三神先輩の合図を理解した鷹が、皆を鼓舞してくれたんだ。
神経が研ぎ澄まされ、一気に集中力が上がる。
軽く目を閉じて息を吐き出し、気合いを入れて目を開くと、三神先輩の手元を見つめる。
先輩が勝ち誇ったように微笑んでいるのが見えた気がした。
次の瞬間、三神先輩が掲げた片手でパチンと指を鳴らす。俺たちの頭の中に、三神先輩の声にならない合図が響いていく。気付くと、俺は口角をあげていた。
“行け!”
三神先輩の声が脳内で弾ける。全員が一斉にゴールへ向けて走り出し、俺は少し遅れて地面を蹴る。
相手選手が見せた一瞬の戸惑いを見抜いて、先輩は見事にボールを奪った。そしてそのボールは即座に俺の元に届く。
ぐっと足元に力を込め、目の前のディフェンスを振り切って走り出す。
今まで何度も頭に刻まれてきた音が響き渡る。
ゴールの近くまで走り、履践学園の選手が迫ってくる前にジャンプシュートを決めると、ベンチから「ナイッシュー!」という声が飛んできた。
その後、ゴール下にいた坂上先輩が履践学園のパスを妨げ、すぐ横の雨宮先輩にボールを回す。
雨宮先輩はボールを受け取るなり迷うことなくシュートを放った。ボールが吸い込まれるようにゴールに入っていく。
雷校が連続で点を決め、会場全体がわっと盛り上がった。試合の流れも大きく変わったように思う。
三神先輩の判断は正しかった。
振り返ると、先輩は満面の笑みでガッツポーズをしていた。その笑顔が眩しくて、思わず釣られてしまう。
同時に、三神先輩が作ってくれたこの流れを止める訳にはいかないと思った。
試合は目まぐるしく進んで行き、俺に何度目かのパスが回ってきた時、履践学園の巨人のようにデカい選手が俺の行手を阻んだ。
思わず足を止めた瞬間、視界の端に里宮の姿が映る。俺は里宮の方を向かないまま、叫ぶようにその“色”を呼んだ。
「ピンク!」
同時に、斜め後ろへボールを放つ。
里宮が当たり前のようにそれを受け取って走り出す様子を見て、会場が大きくどよめいた。履践学園の選手も何が起こったのか分からない様子で目を丸くしている。
「揺さぶれ、茜!」
鷹の声に耳を澄ませながら、里宮の背中を見つめる。
里宮はいつものように1人で突っ切ったりはしなかった。
「オレンジ」
声は聞こえなかったが、里宮の口元と横から飛び出した長野の姿を見てその言葉を理解する。長野が何の迷いもなくボールを受け取ってシュートを決める姿に、会場にいる全員が圧倒されていた。
里宮の予想通り、履践学園の選手の顔には明らかな動揺が浮かんでいた。用意していた対策が使い物にならず、裏切られたような気になっているのだろう。
それでも履践学園は想像以上に粘り強く、1点決めると1点返してくるような勢いで追い上げて来ていた。
なんとか3点差をつけたところで、第2クォーター終了のブザーが鳴る。
「悪い、全然離せなかった」
ベンチに近づくなり、荒い息のまま五十嵐に言うと、五十嵐は俺の肩にポンと手を置いた。
「任せろ」
耳元で響いた声に、逞しいな、と思わず笑みが溢れる。ベンチに腰掛けると、熱く脈打っていた背中にタオルがかけられた。反射的に振り向くと、ジャージ姿の鷹が微かに目を細めて「お疲れ」と小さく言った。
乱れた呼吸を整えるのに必死で何も言えない俺を分かっているかのように、鷹は黙って俺の隣に腰かけた。
漸く呼吸が落ち着いてきた頃、鷹に向き直る。
「ありがとな。鷹の声に結構救われたよ」
試合中思ったことをそのまま言うと、鷹は少し目を丸くしてから「おう」と嬉しそうに笑った。
肩にかけられたタオルで額の汗を拭いていると、コートに戻って行く里宮の背中が目に映った。
「里宮!」
思わず呼び止めると、里宮は長いポニーテールを揺らして振り返った。不思議そうな顔をして近づいて来た里宮に無言で拳を差し出すと、里宮は何かを察した様子で左手の拳を突き出した。
お互いの拳がぶつかり合い、コツンと軽い音を響かせる。
「行ってこい!」
歯を見せて笑うと、里宮は微かに目を細めて小さく頷いた。離れていく背中を眺め、俺は無意識のうちに左手首のリストバンドを握りしめていた。