100. 認めた気持ち
黒沢くんに蓮のことを話してから、明らかに心が軽くなっていた。
過去は変えられないし、蓮と再会出来た訳でもないけれど、蓮に対する想いは私の中で大きく変わった。
それがきっかけになったのか、自分でも驚くほど人と関わることが怖くなくなった。
桃との距離も更に縮まり、部活のない日は学校に自転車を置いて色々な所に遊びに行った。
あれだけ関わることを避けていたクラスメイトにも勇気を出して声をかけ、桃の協力もあって自然に言葉を交わせる関係になることができた。
少しづつではあるけれど、昔のような賑やかさが私の周りに広がり始めていた。自分自身があの頃を恐れることなく成長出来ているような気がして、環境に変化があるたび嬉しくなった。
そしてもちろん、私が変われたのは黒沢くんのおかげだ。
黒沢くんとは、いつの間にか2人で話をする場として定着していた渡り廊下で毎日のようにお互いの状況を報告し合っている。
変化があったのは私だけではないらしく、黒沢くんは嬉しそうに“茜ちゃん”との電話の内容を教えてくれた。彼女は高校に入ってから仲の良い友達が出来たようで、最近は特に楽しそうに学校での話を聞かせてくれるらしい。
心底安心した顔をしている黒沢くんを見て、私も自分のことのように嬉しくなった。同時にチクチクと痛む心臓には見ないふりをする。
そうして流れるように時は過ぎ、凍えるような冬を越えて少し暖かな三月になった。
春休み目前に開かれたバスケの大会で蓮の姿を見つけた瞬間、どんな感情より先に嬉しさが込み上げてきたことに、私自身が驚いた。
不安も恐怖も、目の前に他でもない蓮がいるという事実だけで全て吹き飛んでしまった。
私はずっと、蓮に会いたくて仕方なかったのだ。
トーナメント表に書かれた“雷門”の文字には気が付いていた。雷門には女子バスケ部が無いことは知っていたし、もしかしたら蓮もマネージャーになっているかも知れないとは考えていた。
でも、まさか会えるなんて思ってもみなかった。
あの気だるそうな目も、長い黒髪も、蓮はあの頃と何も変わっていなかった。
「久しぶり! こんな所で会うなんて、偶然だねー!」
あくまで何事もなかったかのように振る舞った。
そうしたら自然と、あの頃に戻れるような気がした。
“おー、阜じゃん”そう言って片手を上げる蓮の姿が浮かんだ。……浮かんだ、だけだった。
蓮はまた、何も言わずに行ってしまった。
もしかしたら、なんて期待した自分が馬鹿みたいに思えて、心に穴が空いたような喪失感が私を襲った。
分かっていたはずだったのにやっぱり悲しくて、雷校のジャージやユニフォームが目に入るたび胸が締め付けられた。
蓮がマネージャーではなく選手として活躍していることを知っても、蓮のバスケを見る勇気はどこにもなかった。
そんな話も、黒沢くんは親身になって聞いてくれた。
「そっか……でも、二度と会えない訳じゃないだろ? ……大丈夫だよ」
自分のことのように深刻な顔をして言う黒沢くんに、私は思わず笑ってしまった。
蓮に避けられたことは悲しかったけど、黒沢くんに話を聞いてもらうだけで、私はもう立ち直ることが出来ていた。
「ありがとう、励ましてくれて」
素直に感謝を伝えると、黒沢くんは頷いてから少し照れたように目を逸らした。その反応を見て、私はまた笑う。黒沢くんが拗ねたような顔をしたので、「ごめんごめん」と軽く謝って両手を合わせた。
他愛のない会話が続き、黒沢くんが昨日の“茜ちゃん”との電話の内容を話し終えた時、つい言葉が溢れてしまった。
「……黒沢くんは、“茜ちゃん”のことが好きだったの?」
数秒の沈黙が流れ、ハッとして顔を上げると、黒沢くんは目を丸くしたまま固まっていた。
その顔を見て、やってしまった、と思った。
こんなこと聞くつもりじゃなかったのに。
慌てて弁解しようとすると、まるで遮るかのように黒沢くんが声を上げて笑い出した。思わず体が飛び上がる。今度は私が目を丸くする番だった。
「あははははははっ」
黒沢くんが爆笑している所を初めて見た私は、驚きつつもつられて笑ってしまった。何がそんなにおかしいのか、黒沢くんの笑いは全然収まらない。
「あははっ、違う違う、あいつは……っ、“茜”は、男だよっ」
お腹を抱えながらそう言った黒沢くんに、私は思わず「え!?」と声を上げて目を見開いていた。
笑っていた頬が引き攣る。
「う、うそ! 私ずっと勘違いしてて……ごめんなさいっ!」
盛大な勘違いをしていたことに気づき、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる。慌てて頭を下げる間も、黒沢くんの笑い声が止むことはなかった。
「あはははっ、本当ついてないなぁ、あいつ」
そんなことを言う黒沢くんの声を聞いて、そんなについてない子なのかな、なんて失礼なことを考える。
幼く笑う黒沢くんの笑顔はなんだか新鮮で可愛くて、心臓の音が大きく耳元で響いた。
やがて、あまりに長く続く黒沢くんの爆笑につられて私も笑いを堪えきれなくなってくる。
「も〜、黒沢くん笑いすぎ!」
笑いながらそう言って黒沢くんの脇腹を小突く。
より一層仲が深まったような気がして、私は内心舞い上がっていた。
渡り廊下に、止まない2人の笑い声が混ざっていく。
そっか。“茜ちゃん”じゃなくて、“茜くん”だったのか。
黒沢くんから話を聞くたび胸を刺していた棘がするすると抜けていく。
「よかったぁ……」
「ん? なんか言った?」
「なんでもない!」
不思議そうな顔をしている黒沢くんに向かっていたずらに笑ってみせる。今まで気付かないふりをしてきたこの気持ちを、やっと認められるような気がした。
『似合うじゃん、ツインテール』
『一緒に帰んない?』
『同じだな』
どこまでも優しくて、友達思いで……本物の笑顔は可愛い黒沢くん。私の心を救って、私を変えてくれた人。あの頃の話も、蓮の話も聞いてくれて、背中を押してくれた人。
黒沢くんに出会えていなかったら、今頃私はどんな生活をしていたんだろう。
恋愛経験皆無の私でも、流石に分かる。
私は、黒沢くんのことが好きなんだ。
* * *
勢いよくカーテンを開けて、雲ひとつない空を睨むように見つめる。早朝にも関わらず眩しい太陽に向かって、思い切り叫んだ。
「やってやる!」
もう、どうにでもなれ。
伝えられずに終わるよりずっと良い。
「阜!? 起きてるなら早く下りて来なさい! 近所迷惑でしょ!」
階段の下から母の怒声が聞こえても、私の心は少しも怯まなかった。自然と笑いが込み上げてきて、気付くと声を上げて笑っていた。
恐れるものなんて何もない。
私は今日、黒沢くんに本当の気持ちを伝えるんだ。
両頬を力強く張って、軽やかにベッドから飛び下りる。部屋に差し込む春の日差しが、私の背中を押してくれたような気がした。