99. 優しい毒
「失礼しましたー」
誰に言うでもなく広い職員室に向かって頭を下げ、重たいドアを閉める。静かな廊下に出て人目がなくなると、全身の力が抜けて大きなため息が漏れた。廊下の端に置いていたバッグを肩に掛け、階段を下る。
昇降口に向かう途中、見えてきた渡り廊下がなぜだか懐かしく感じた。黒沢くんが私を救ってくれた場所だ。あの時は確かに、黒沢くんの優しさがまっすぐ届いていた。あの頃から変わらず弱い自分すらも、許してやれたような気がしたんだ。
ぼぅっとそんなことを考えながら歩いていくうち、見えてきた人影に私は目を疑った。
思わず足を止めてその姿を凝視する。足元に目を落とし、柱にもたれるようにして立っていたのは黒沢くんだった。近づいていくと、黒沢くんはハッとして私の方に目を向けた。
「なんで……?」
自然と声が溢れていた。黒沢くんはどこか気まずそうに口角を上げる。
「なんか工藤、朝から元気なかったからさ。心配で」
その言葉を聞いて、また心臓がひとつ跳ねる。気付いてくれていたことは単純に嬉しかった。悪夢のせいで気持ちが落ち込んでいただけで、体調に問題はないのだが黒沢くんはずっと心配してくれていたのだろう。
……その優しさのせいで、黒沢くんは私なんかを優先してしまった。喜びと罪悪感のジレンマに押し潰されそうになる。
「……仲良くなれるチャンスだったじゃん。私のことなんてどうでもいいのに……」
「どうでもよくないよ」
私の声に被せる勢いで否定した黒沢くんの声は真剣そのもので、あまりに優しくて、気付くと私は両手で顔を覆っていた。ヒビだらけの心が砕ける音を聞いた気がした。優しくされるたび救われて、罪悪感が募って、いつか無くなってしまう恐怖が胸を締め付ける。
優しさが毒になる。
「もう、これ以上優しくしないで」
あの頃から変われないままでもいいから。
これ以上、求めて失いたくない。そんな自分勝手な思考にまた嫌気がさす。
「……俺は工藤に優しくしたことなんてない。こんな俺を優しいって思ってくれる工藤の方が優しいんだよ」
柔らかな声で、黒沢くんはまた優しい言葉を紡ぐ。
私が顔を上げないままでいると、黒沢くんは語りかけるような口調で話し始めた。
「……心配だったんだ。工藤は、初めて会った時からなんか寂しそうにしてる気がして。……あいつも、こんな風に過ごしてるんじゃないかって」
「あいつ……?」
顔を上げると、黒沢くんは、眉尻を下げてどこか寂しげに微笑んでいた。なんだか、やっと黒沢くんの本当の笑顔が見られた気がした。
「俺の話してもいい?」
その声がどこか幼く聞こえて、黒沢くんが初めて見せた弱さのような気がして、私は気付くと小さく顎を引いていた。
「俺がここに引っ越して来たのは、親の仕事の都合なんかじゃない」
一度言葉を切った黒沢くんは、小さく息を吐いて再び口を開いた。
「……なんでだろうな。元々、そういう体質なのかな。いくら引っ越しても、学校での環境は変わらなかった。……俺がここに来たのは、いじめが原因なんだ」
予想外の一言に、私は思わず目を見開いていた。
情けなさそうに笑う黒沢くんの顔を凝視する。
信じられなかった。黒沢くんのような底なしに優しい人を、痛めつけるような人がこの世に存在するなんて。それも黒沢くんの口調からして、一度や二度のことではないのだろう。
「いじめに負けて、人間関係で失敗する度に引っ越して、逃げてばっかの生活をしてきた。俺がそうなったのは小4の頃からで……俺は、逃げることよりも負けることよりも、酷いことをしたんだ」
当時のことを思い出したのか、黒沢くんは固く唇を噛んだ。痛みに耐えるような表情を浮かべる黒沢くんを見るのは初めてで、喉の奥が締め付けられる。
「俺は、幼馴染で親友だったやつのことを裏切ったんだ。茜は俺を庇ったせいでいじめられたのに、俺は何も言わずに逃げた。俺は、自分の安全だけを取ったんだ」
涙を堪えるように震えた声が、その場に重く響く。
数秒の沈黙の後、黒沢くんはゆっくりと顔を上げた。
「……それでも工藤は、俺のことを優しいと思うのか?」
そう言った黒沢くんの表情を見て背筋が凍りつく。
黒沢くんは、笑っていた。
口角は確かに上がっているのに、歪んだ瞳はどこまでも痛々しく、なんだか泣いているようにさえ見えた。
息も詰まるような苦しさを感じ取るには充分すぎる程切ない表情に、訳もなく涙が浮かんでくる。
「黒沢くん……」
何を言えばいいのか分からなかった。
何を言っても、今の黒沢くんには届かない気がした。
「俺は最低な人間だよ」
自虐的にそう言った黒沢くんに、私は思わず「そんなことない!」と声を上げていた。急に大声を出した私に驚いたのか、黒沢くんは目を丸くしている。
自分を責めたくなる気持ちは痛いほど分かる。私だって、今まで何度自分を責めたか分からない。
……それでも。
「最低な人間なんかじゃないよ! 黒沢くんは、今まで何回も私を助けてくれた。もう誰とも関わりたくないって思ってたのに、黒沢くんのおかげで悪いことばっかりじゃないって思えた! 黒沢くんは、すごく良い人だよ!」
一息にそう捲し立て、弾んだ呼吸を整えるうちも、黒沢くんは呆然としたままだった。
黒沢くんは、親友を守れなかった自分が憎いんだろう。裏切ってしまった自分が赦せないんだろう。
“あの時、こうすれば良かった”。そんな風に後悔するのは私も同じ。
……親友。そう聞いて頭に浮かぶのは、いつだって蓮の姿だった。
「……私の話も、聞いてくれる?」
やっとのことで声を絞り出して、私は黒沢くんの返事も聞かないまま話し始めた。
「小学生の頃、人間関係で色々あって……それから人と関わるのをなんとなく避けてたんだ。でも、中2の時……自分と、同じような子を見つけたの」
泣かないようにゆっくりと深呼吸をして、声の震えを抑えてから口を開く。
「その子、女の子なんだけど、“女嫌い”なんだ。色々事情があって、私と同じように人を……女の子を、避けてた。その子と友達になってからは、本当に毎日が楽しかったよ。まぁ、無理矢理押し切って友達になった感じだったけどね。……それでも、一番の親友だった」
蓮も、そう思ってくれてるって、信じて疑わなかった。
「……でも、急に、その子は私を避けるようになった。理由も分かんないまま、どんどん距離が離れていって……結局、そのまま。今はもう何の接点もない。……私も“女”だから、最初から嫌われてたのかな、とか考えて、ずっと忘れられない」
自分から話し始めたくせに、“こんなこと言わなければ良かった”という後悔が早くも胸に広がっていた。
なんとか笑顔を浮かべたけど、情けない顔をしているのが自分でも分かった。
「同じだな」
ふと、黒沢くんはそう言って薄く微笑んだ。その言動には優しさが溢れていたけれど、私はもう苦しさは感じなかった。それは気遣いなどではなく、黒沢くんの本心からくるものだと分かったからだ。
……それに。
失うことが怖いなんて、みんな抱えている想いなんだ。何も失わずに生きていくことなんて出来ない。
蓮のことを思い出すと苦しくなるけど、やっぱり出会わなければ良かったなんて思えない。あの頃の痛みを忘れるほど、本当に、本当に楽しかったんだ。
「俺も、忘れたことなんてないよ。傷つけたのは俺なのに、繋がりを捨てることも出来なくて、今でも気まぐれに電話したりしてる。それこそ最低だって思うけど、茜は普通に接してくれるんだ。……工藤も、本当はまだ、その子のこと信じてるんだろ?」
気付くと、幾筋もの涙が頬を伝っていた。両手で顔を覆いながら、何度も頷く。拭いきれなかった雫がポツポツとアスファルトに落ちた。
蓮のことを、完全に信じていると言えば嘘になる。
私にはそんな勇気も強さもない。
それでも私は、蓮のことを信じていたい。
今でも私は、蓮のことが大好きだから。
俯くまま涙を流し続けていると、頭の上に優しく手を置かれる感覚があった。その暖かさに、また胸が締め付けられる。
いくらか落ち着いてきた頃、脳裏に黒沢くんの寂しげな笑顔が浮かんできた。
黒沢くんは、“茜ちゃん”のことが好きだったのかな……?




