17―4.就任式当日
「他に気をつけなければならないことはありますか?」
「我々は魔界の中でそこそこの軍事力があるが、絶対的というわけではない。戦争を避けた方が良い相手もいる」
「具体的には?」
「まずは男性同性愛者のグループ〝キャンプな奴ら〟だ。ここは、キリスト教圏で迫害された連中が多いから、自分達を守る目的でメンバーに戦闘訓練を義務化している上に団結心が強い」
「名前を聞いたことがあります」
「もう一つは〝女尊男卑国〟だ」
「なんですか、その女性恐怖症の男性が聞いたら、全身の穴から血を噴きだして死んでしまいそうな名前の国は?」
「名前の通りで、女性、それもいわゆる女王様が複数のマゾ男性を支配している場所だ。別名を〝M男の楽園〟ともいう」
「女性から暴力を振るわれるのが怖い人には、地獄みたいな場所ですね」
「この国でも男性の戦闘訓練は義務化されていて、万が一戦争が起きた場合は、自らが傅いている女王を指揮官として複数の分隊を構成する」
「それで、まとまりのある行動が取れるんですか?」
「もちろん。女王の中にも階級がある。彼女たちを統括するのが〝女王の中の女王〟と呼ばれる存在だ。ここも団結心が半端じゃないぞ」
「あー……」
「まあ、そういうわけで、この二国と戦争をするとなったら、俺も勝利は保証しない。外交の段階で、できる限り敵対関係に陥らないようにした方が良い」
「分かりました」
顔を腫らした痴漢の忠告を記憶した志光は、彼を捕まえて女性陣に引き渡してからドムスに戻ると、その日のうちに魔界日本の外交を担当する茜にその内容を説明し、正しい認識なのかどうかを尋ねた。眼鏡の少女の回答は「正しい」というものだったが、スパイがソレルに接触する機会が多い〝キャンプな奴ら〟であれば事前に相手の反応を確認できるが、〝女尊男卑国〟は難しいという事情を付け加えてくれた。女尊男卑国は女性がトップでは無い組織には非協力的で、何らかの事情が無い限り対話をすることもないそうだ。
出来ないことを実現しようと思っても時間の無駄と判断した志光は、茜に礼を言って女尊男卑国のことを深く考えるのを止めた。その代わり、少年はボクシングの練習に意識を集中させた。
コンビネーションを成熟させ、三発から四発のパンチをまとめて打てるようになった志光に対して、麻衣が仕上げにアマチュアボクシング仕込みの汚いテクニックまで教えだしたのだ。たとえば、左ストレートを打つふりをして、相手の右手首に指を引っかけてガードを強制的に下げさせ、がら空きになった顔面にストレートを打つなどで、志光はその巧妙さの虜になった。
これらの技術習得に目処が立つと、麻衣は少年を連れて就任式を行う体育館に顔を出した。そこは大屋根広場、魔界銭湯と並ぶ魔界日本を象徴する建築物の一つで、アリーナが地下にあり、固定席が約二〇〇〇、可動席が約二〇〇〇、合計で四〇〇〇席という構成になっていた。
普段の体育館は大屋根広場と同様に一般の悪魔に解放されているが、しばしば軍事教練のために占有されることもあった。二人が体育館に行った日は、新棟梁である志光が使うために閉鎖されており、人気というか悪魔の気配は全く感じられなかった。
麻衣は少年に自分とおそろいの黒いグローブを填めさせて、一ラウンド三分の寸止め練習を一〇ラウンド行った。彼女はこの練習で、タイソンが意表を突いてストレートを打ってきた場合の躱し方を彼に叩き込んだ。
タンクトップとボクシングトランクスという格好の志光から、汗が滝のように噴き出して体育館の床に水たまりを作った。練習が終わると、赤毛の女性は少年をシャワールームに引っ張り込み、身体を洗うついでにやることをやった。
こうして時間は刻々と流れ、就任式の日が迫ってきた。
見附麗奈と彼女の部下達は、当日警備のための計画表作成と下見にてんてこ舞いだった。美作純は志光の甲冑姿を撮影した写真の背景に宇宙空間の画像を加えたデータでポストカード、ポスター、タペストリーを作製し、魔界日本の内部はもちろんのこと、他の区域にも配布し始めた。志光はカトキ立ちする自分の姿にうっとりしたが、自己陶酔は人目を忍んで行うように心がけた。
就任式三日前になると、記田が台車の上に幾つものアルミケースを乗せてやって来た。彼が持ち込んだのは現金だった。
それは珍しくドムスに顔を出していた配松亜紀の手に渡った。彼女は札束を百万円ずつにわけ、輪宝が印刷された祝儀袋に詰めていった。
「何をしているんですか?」
志光は大金の使い道をピンクのドレスに訊いた。彼女は恍惚とした面持ちで、金切り声をあげた。
「このお金は、就任式に参加した全ての悪魔に配られるの!」
「え? 僕が貰うんじゃ無くて払うんですか?」
「承認される立場なんだから当然でしょう! 気前よく払いなさい! もちろん配るのは私よ! 私も承認されたい!」
配松の話を聞いた少年は、その意味を即座に理解した。彼女から多額の現金を受け取れば、どうなってしまうのかは想像するまでも無い。
彼はピンクのドレスに礼を述べてその場を立ち去ると、計画の発案者を探した。何となく予想していたとおり、それはクレアだった。
「あら。良い計画だと思っていたのだけれど、駄目だったのかしら?」
「いいえ。愛国心を期待できない以上、ベストな作戦だと思います。ちなみに、どれぐらい使うつもりなんですか?」
「一人に渡す金額は一〇〇万円。就任式には五〇〇〇人が参加すると見越して総額は五〇億円。計画を事前に説明しなかったのは、お金は一郎氏から事前に託されていたからよ。要するに、これも遺言の一環なの」
「父さんは、僕がこのお金を持っていたら、ご祝儀を出さないか減額すると思っていたんですかね?」
「配松のスペシャルを理解していなければ、確実に嫌がっていたでしょうね。一郎氏としては、息子の就任式にそれだけは外せないと考えていたんでしょう」
「五〇億あれば、一年に五〇〇〇万円使っても一〇〇年は暮らせますからね。要するに、僕が悪魔でなければ死ぬまで遊べたわけで……」
クレアの話を聞いた志光は、それが父親の優しさによるものなのか、息子の判断力に対する猜疑心によるものなのかが分からなかったため、言葉に詰まってしまった。背の高い女性は、少年の反応を見ると苦笑して彼の顔を両手で挟んだ。
「悩むことは無いわ。親の愛よ。素直に喜びなさい」
配松が二日間掛けて渡された全ての金を祝儀袋に詰め終えた翌日、ついに就任式が始まった。早朝目が覚めた志光は、虚栄国にいた時と同じように、ソレルの手でタキシードを着せられると、大蔵の運転する車で、初めて魔界銭湯を訪れた日と同じ場所で降車した。
少年はクレア、ソレル、麻衣に加え、麗奈をはじめとする護衛役が揃うのを待ってから、体育館に向かって歩き出した。大屋根広場を抜けて辿り着いた体育館の周辺は、事前に設置されていた大型ライトのお陰で真昼のように明るかった。
一行は事前に練習していたように隊列を組み、パレード用に一般の悪魔の侵入が禁止されていたルートで体育館に入った。執拗な宣伝の甲斐があって、就任式に参加しようとしていた多数の悪魔たちは、彼らを目にすると大歓声で迎えてくれた。




