14―3.ステップインしながらの左ストレートの練習
ステップインしながらの左ストレートは、この動作の最中に左ストレートを放つ攻撃方法を指す。麻衣はそれを「腕を突き出した状態での体当たり」と説明した。
志光は彼女がこの方法でサンドバッグを殴る様子に瞠目した。左の拳をひょいと突き出しただけで、五〇キロもあるサンドバッグがくの字に曲がったのだ。まるで拳法の達人の奥義を見ているようだった。
しかし、このパンチは右ストレート以上に難しかった。右足で地面を蹴り、左足で着地するのとほぼ同時に、左腕を伸ばさなければならないからだ。手足の動きが一致しないと、着地をしてから腕が伸びきることになるので、右足が作りだした運動エネルギーが拳を伝わって敵にダメージを与えることは無い。前進した後で相手を殴っただけになってしまう。だからといって、左腕を伸ばした状態でステップインしても、今度は腕を伸ばす筋肉の力を使えないので威力が下がる。
麻衣はトレーニングルームの壁を覆っている大型鏡の前に少年を横向きに立たせ、目で手足の動きを見ながら左ストレートを打つ練習をさせたが、それでもタイミングが合ったり合わなかったりと不安定だった。
更に難しかったのが打った後の動作だった。拳を目の高さに戻すのは当然として、バックステップをしなければならない。相手の攻撃を後ろに下がって躱すのが狙いだ。その動作を身につけるため、ひたすら前進と後退を繰り返すのだ。麻衣は止まった状態での左ストレートの練習時と同様、志光が左ストレートを打った直後に下がらなければ、フックやストレートを打ってきた。
この他に、練習を始める前に身体をほぐすストレッチ、心肺機能を向上させる目的での縄跳びなどが加わり、練習は濃密なものになった。志光は反抗せずに、それらの全てを受け入れた。自分が強くなっている実感があったからだ。
本格的なトレーニング開始から九週間ほど経つと、その効果は少年の外見にも現れた。まず、ダンベルリストカールを毎日繰り返したお陰で、手首を曲げるのに用いる、浅指屈筋と深指屈筋が肥大した。これらの筋肉は、前腕部の肘から数センチ先が一番太いので、その部分が瘤のように盛り上がった。
同時に肩を構成する三角筋、肘を伸ばすのに用いる広背筋と上腕三頭筋も肥大した。特に広背筋の肥大は上半身を逆三角形に見せる、つまり男らしい外見を志光にもたらした。
更に、脚部も大腿四頭筋と腓腹筋やヒラメ筋が肥大し、上半身を捻ってストレートを打つ練習を何万回も繰り返したお陰で、腹斜筋も大きくなった。
それに伴い、少年の腹部から腹直筋が浮き出てきた。一見すると中肉中背見えるが、体育の授業以外で運動をしたことがなく、体脂肪率が二〇%を超えていた隠れ肥満の肉体が、激しい練習の積み重ねで一〇%を切るまで減ったのだ。
志光の肉体が変わると、周囲の女性達の目付きも変わった。少年がトレーニングルームに来て練習を開始すると、見附麗奈の部下達がそわそわし始めたのだ。以前も彼は彼女たちの注目を集めていたが、それは地頭方一郎の息子という立場によるものだった。しかし、今は違う。明らかに牡を値踏みする視線に変わっていた。
志光の後見人であるクレア・バーンスタイン、父親の元愛人だったアニェス・ソレル、そして門真麻衣もベッドの上で彼を検分して、その外見に合格点を出した。
「ドッグショーに出場する犬みたいですね」
志光は彼女たちの評価に不平を述べた。それに対して、クレアはさらっと切り返した。
「あら。二〇歳になるまでに気がついて良かったわね。男性の中では、死ぬまで自分がドッグショーの犬だって気がつかない人もいるんだから」
三人の魔女がゴーサインを出したため、事態は急速に動き出した。志光がクレアにからかわれた翌日、美作純が絵笛という眼鏡をかけた気難しそうな初老の男性を連れてきた。彼こそが、ウニカ自動人形のデザインをした人物だった。
絵笛が呼ばれてきたのは、就任式に合わせて志光を着飾るためだった。少年の身体を採寸すると、気難しそうな男はすぐにデザインの打ち合わせに入った。
「撮影用の鎧を作れと言われてきたんだが、当世具足っぽいので良いんだよね?」
「当世具足というのは?」
「戦国時代の鎧だよ。対鉄砲の防御力が考慮されたのと、西洋甲冑のデザインが取り入れられたのが、それまでの鎧との違いと言われている」
「初めて知りました。ちなみ、僕が鎧を着て撮影するというのも初めて聞いたんですが……」
「就任式に合わせて、新棟梁のビジュアルイメージを印象づける目的でやるんですよ。発案は僕です」
純から説明を受けた志光は、うーんと唸った後に確認を取りにかかる。
「この鎧、防弾性ってあるんですか?」
「ボディーアーマーみたいに?」
「そうそう」
「まさか。二〇ミリ弾の運動エネルギーに耐えられるだけの装甲になったら、厚みが二〇ミリの鉄板でも怪しいと思うよ。あくまでも装飾用だね」
「やっぱりそうですか」
「こういう外連味って嫌い?」
「いや、好きです」
少年が計画を了承すると、紫髪の少女は絵笛にウィンクする。
「当世具足っぽいのでお願いします。デザイン優先で、歴史考証はしなくて良いです」
「色は?」
「そりゃあ、彼専用になるから赤色が良いでしょう」
「赤色でお願いします。専用と言えば赤ですよね」
「そうだな。では、鎧の色は赤を基調にするということで。武器は? 日本のイメージを強調するなら日本刀だけど、意外と見た目の迫力で鎧に負けるよ」
「それは、もっと大きな武器を持った方が良いってことですか?」
「そうだね。三メートルぐらいの槍が良いかも知れない」
「日本刀にこだわりは無いので、槍でお願いします」
「じゃあ、それで」
こうして、突貫工事だったが、志光新棟梁のお披露目に関わる計画が一つ進行することになった。純は鎧以外にも志光に新しい衣裳を用意していた。その外見は改造学生服のようで、黒いパンツ、白いシャツ、そして黒地に金色の模様がついた詰め襟のジャケットというものだった。
新衣裳を着るようになった少年は、大蔵に連れられて現実世界での挨拶回りも行った。相手は真道ディルヴェの関係者、及びに信川周が設立した企業の重役連だった。
事前に志光が関係者や役員の地位保全を通達していたので、全ての会合は極めて友好的なムードで進行した。白誇連合と交戦中に内輪もめで崩壊する危険性を、少年は可能な限り排除するつもりだったし、その方針は大蔵や美作からも支持された。




