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32-4.左フックという虚構(後編)

 まず、肘の角度が真っ直ぐに近い。至近距離でフックを打っている時は、教科書通りの肘の曲げ方だが、遠距離で打っている場合は、ほぼ真っ直ぐに腕を伸ばしている。これなら、射程距離がストレートと一〇センチも変わらないだろう。


 次に拳の向きが違う。映像で見られるフックは、親指が上を向いている。いわゆる、縦拳というやつだ。


「どうだい? 教科書と実戦の違いが解ったかい?」


 志光が液晶画面から顔を上げると、麻衣はニヤッと笑って手の平を天井に向けた。少年はやや興奮気味にまくしたてる。


「解りました! 試合で使われるロングフックは、ほとんど肘を曲げていませんよね?」

「正解。曲げているのは手首なんだよ」

「なるほど。後は、拳が縦拳ですよね?」

「それも正解だ。どうしてだと思う?」

「それは解らないですね」

「ロングフックを打った時に教科書通りだと、親指が頭に当たる危険があるからだ。だから、この打ち方をするボクサーは、よく親指を骨折をする」

「ああ! そういうことですか。フックの内側に頭が入っちゃうと、親指が頭に当たるんですね?」

「ただ、敢えて親指のつけ根で相手の耳の後ろを叩くという変則的な打撃を使う選手もいるから、ボクシングってヤツは侮れないんだけどね。でも、キミは真似しなくて良い」

「そうさせて貰います」

「これで、左フックの何が嘘で、どうすれば良いかが何となく解ったかい?」

「解りました。」

「それでは、練習に入ろうか」


 麻衣は長い説明を終えると、弟子に基礎的な動きを叩き込んだ。


 志光が最初に教わったのは体重移動だった。右ストレートを打つ要領で右脚を内旋させ、上半身を左に回してから、やや膝を深く曲げた左足のかかとを上げつつ膝を伸ばして重心を右脚に移し、それと共に上半身を右方向に旋回させる。


 少年は汗まみれになるまで、師匠からこの基本動作を繰り返させられたが、不平一つ言わなかった。反復練習によって運動が自動化すれば、意識せずとも新しいパンチを打てることを経験から理解していたからだ。


 こうして、前脚から後ろ脚への体重移動がスムースに出来てくるようになると、次は腕の動きが加味された。ロングフックを打つコツは、基本的にストレートと変わらない。つまり、胸を張って脇を締めて胴体を回転させてから、ワンテンポ遅れて腕を突き出すのだ。ただし、拳は親指が上を向いたままで、手首は極端に内屈させ、敵の頭部の横を狙う。


 すると、伸ばした腕が上半身の回転に引っ張られるようにして、右方向に回る。この時に、拳が敵顔面の前面横に引っかかれば、頭部が首を支点にして横方向に捻れつつ、前側に引っ張られ、場合によっては脳しんとうが起きる。


 また、このパンチがボディに当たった場合は敵の肝臓にダメージを与えることが出来る。特に、横方向からの加撃は〝肝臓への打撃レバーブロー〟という独自名がつくほど効果的だ。


 通常、ボディへの打撃はみぞおちを除けば即効性がない。内臓の前面は腹直筋によって保護されているからだ。また、打撃系の格闘技者であれば、腹直筋は必ず鍛えているので厚みがあるため、その効果はより低い。


 しかし、胴体の横方向についている腹斜筋は腹直筋ほど厚みが無く、運動エネルギーが内臓に伝わりやすいとされる。


 志光も原理の説明を受ける過程で麻衣に軽く横方向からボディを叩かれたが、打撃のショックで肝臓がズレる感覚が伝わってくるのに驚愕した。


「ボディブローの痛みは、内臓を構成する平滑筋が急激に縮んだり伸ばされたりすることで起きる。だから、特定の場所が痛いと言うより、打撃で強制的に動かされた内臓そのものが痛いような感覚がするはずだ」


 少年がトレーニングルームの床で悶絶しているところで、赤毛の女性は医学的な解説をしてくれたが、それはボディブローによってもたらされた苦痛を少しも緩和してくれなかった。彼に出来たのは、苦痛が治まるのを見計らって練習を再開することだけだった。


 しかし、理論上はストレートよりも単純なこのパンチは、実際に習得するとなるとストレート以上に難しかった。まず、左フックを打つために上半身を右側に捻った拍子に、首も右側に捻れてしまうという癖に悩まされることになった。


「この癖は絶対に直すんだ。フックの打ち合いになった時に、顔の正面でパンチを食らうことになるぞ。バレリーナやフィギュアスケートの選手でもなったつもりで、常に鏡の前で自分の顔の位置をチェックしろ」


 麻衣はかなり厳しく少年の悪癖を矯正した。しばらくして、彼は左フックを打つ瞬間に拳の位置を目で追うことによって、この問題を克服した。


 志光が新パンチの習得をしている間に、一ヶ月ほどの時間が経った。現実世界では四月が訪れ、東京の気温も少々肌寒い程度まで暖かくなってくる頃に、魔界日本では大きな政治的イベントが開かれることになった。


 女尊男卑国の〝女王の中の女王〟、ソフィアの娘で志光の許嫁、ヘンリエットが魔界日本に移住する日取りが正式に決まったのだ。既に魔界日本のドムス内にある、かつて花澤の居住区だった場所の改装が終わり、彼女を迎え入れる準備が整ったためだった。


 ただし、彼女の引っ越しには予想以上の時間が必要だった。女尊男卑国からマンガやアニメのコレクションを空輸しなければならなかったのだ。


 女尊男卑国側の使者である仕伏源一郎が、ジェット機を使って二つの国の空港を往復して運びきったものの、そのあまりにも莫大な量に魔界日本の幹部連も辟易するほどだった。けれども、最後にヘンリエット本人がやって来ると、彼女に対する悪感情は消え失せた。


 極限まで緊張した少女がドムスで挨拶する拍子に、その怪力で執務室の壁を粉砕する様子を彼らが目撃してしまったのだ。


「棟梁。俺の仕事に支障が出ないように、死なないで下さい。」


 現実世界における魔界日本の収入源を確保する役割を担っている大蔵英吉は、聖母のような慈愛に満ちた眼差しを志光に向けた。


「棟梁。僕の兵器生産が無駄にならないように、あの馬鹿力から何とかして生き延びて」


 魔界日本における兵器を含む機械類の生産を担当している美作純は、どこからどう見ても立派な作り笑いを浮かべて少年の将来を気遣った。


 〝触らぬ神に祟り無し〟を地で行く幹部連の中で、例外的に振る舞ったのは見附麗奈と、邪素の生産を担当する幹部の窪だった。ポニーテールの少女は〝真道ディルヴェにおける宗教上の妻〟という立場を維持するために、魔界では正妻の地位が約束されているヘンリエットと密接な関係を持たざるを得ない立場だったが、窪の事情はかなり違っていた。ガスマスクを付けた悪魔は、コンパクトデジタルカメラを志光に渡すと、少年が想像もしていなかった要求をし始めた。


「棟梁。お願いです。ヘンリエットたんのネグリジェ姿、水着姿、入浴姿、それから、ここが一番大事なんだけどオシッコをしている姿を、このカメラで撮影して画像データを下さい」

「……は?」

「俺だって、魔界日本の為を思って一生懸命邪素を造っているんです。たまには、良い思いがしたいんですよ」

「ヘンリエットの写真が良い思い?」

「ヘンリエットたんは被写体として間違いなく逸材です。彼女が十三歳になる前に、是非とも写真をよろしくお願いします!」


 窪の懇願に困惑した志光が周囲を見回すと、純が詳しい説明をしてくれた。


「あれ、知らなかった? 窪さんは日本で児童ポルノ禁止法が成立したのを切っ掛けに、自分のコレクションを破棄するのが嫌で悪魔化したという、筋金入りの小児性愛者だよ。ただし、子供に性的な悪戯をしたいというより、子供の裸体を覗きたいという窃視症との合わせ技だから、安心と言えば安心なんだけど」


「なるほど」


 事情を理解した志光は、窪の目の前で邪素を消費して、コンデジに最大限の加速をかけた。ドムスの壁に当たった光学機器が粉砕されると、ガスマスクの男は哀しそうな啼き声を上げて自室に引きこもった。


 だが、志光にはそれ以外の部下たちに応戦するだけの余裕は無かった。婚約をするにあたって、ヘンリエットを現実世界の日本に、それも東京に住居を持たせるという契約をしていたからである。

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