仰げば尊し
第二章【双頭の悪魔:層塔の悪真】
まだ一年近くを残し、高校を去った日のことを思い出す。
書類を書き終え、教師のどうでもいい慰めを聞き、ようやく校門から出ようとしたときだった。
校門の外で、真理愛が立っていた。目を腫らして、鼻をすすりながら。
『ごめんね』
そう謝ってきた。私は何も言わず、彼女の横を通り過ぎた。
それが私の高校生活が終わった瞬間だ。
「傷魅、久しぶりだな」
来賓室でもはや名前も忘れかけた教師が私を迎えてきた。
在校中は来賓室など職員室の奥にあるのは知っていたが、目にすることはなかったので、自分がそこにいるのが気持ち悪い。
黒い革製のソファーの対面に、数ヶ月前まで担任だった教師が座っている。確か教師歴十年の男で、名前は……。
「……名前を忘れた」
「本当に変わってないな、お前。岡田だよ」
「岡田、私は別にコーヒーを飲みに来たわけじゃない」
目の前に差し出されたカップを彼の方にやって、長居する気はないと告げた。
「呼び捨てって……お前は本当に」
「説教を受ける気もない。もう授業料も払っていない。その小言は在学中の連中に使ってやれ」
「教師ってのは、退学したらもう生徒じゃないって簡単に割り切れないんだよ」
岡田は自分のコーヒーをすすりながら、そう飄々と答えた。
担任だったが記憶には残っていないのは、こいつが恐ろしいほど普通だったからだろう。
大抵の教師は私の髪の色や態度で、こちらを敵視していたが、こいつはそうでなかった。
全く無関心で、私が何をしようと「ほどほどにな」と小言をこぼすだけだった。
「でもまあ……真面目に元気そうでなによりだ」
「お前は少し痩せたか。まあ、真理愛のせいで疲れてるんんだろうな」
「少しで済んでるなら、まだよかった。聖が殺されてからの一ヶ月はまずかった。本気で死ぬかと思った。上にも、父兄にも、マスコミにも追われてたからな」
「少し落ち着いたのか」
「少し、だけな。うちの学校での逮捕者はもう出ないだろう。まさか三十人も一気に捕まるとは思ってなかったけど」
真理愛のネットワークは『自警団』のような連中だけではなく、当然自分が通っていたこの高校にもあった。
彼女は生前、自分を特に慕っていた生徒にはクスリを与えていたし、小遣い稼ぎをしたがっていた生徒には売春ルートを斡旋していたそうだ。
どこかの暴力団と組んで詐欺グループを組織し、未成年だった同級生や下級生を使い、その手伝いをさせていたこともわかっている。
彼女の事件で、それらが全て暴かれ、この学校だけでも三十人の逮捕者が出た。
担任であった岡田の負荷は想像できない。
「それで、急に訪ねてきて、どうしたんだ」
「……大池優子という生徒を知っているか」
その質問に岡田は目をぱちくりとさせた後、こちらを凝視してきた。
「なんだ」
「本気で言っているのか。お前、本当に周りに関心なかったんだな」
「だからなんだ」
「大池優子はお前と同じクラスだったよ。覚えてないか、ポニーテールのきりっとした顔の女子。風紀員だった子だ」
まさかの返答に思わず言葉を失ったが、そう教えられてもなお、少しも記憶からその顔は出てこなかったので、本当に関わっていなかったんだと思う。
「そうだったか……。ということは今もお前の生徒か」
「呼び捨ての次は『お前』ときたか。もっとちゃんと指導すべきだったよ」
「後悔は真理愛の件だけにしておけ、身が保たないぞ」
「在校中はお前の方が厄介で、聖はそうでもないと思ってたけど……まあいいや。そうだな、大池は俺のクラスの生徒だ」
話がいい具合に進んでいて少し嬉しい。大池優子が岡田の知らない生徒だったら、時間がかかってしまっていたかもしれない。
「そうか。会いたいんだが。呼んでくれないか」
当然、イエスと返ってくると思っていた返事だが、岡田は「うーん」と腕組みをして悩み始めた。
「……なんだ、元クラスメイトに会うことも許されないのか」
「いや、会っていい。そこまで教師が介入するもんじゃない。ただ、大池は最近登校してないんだよ」
「……どういうことだ」
「そんな生徒は多いからな。聖の一件以来、混乱しっぱなしの学校より、予備校の方が集中して勉強できるから」
なるほど、一瞬不吉なことを考えてしまったが、そうではなかったらしい。内心でほっとしながら、「そうか」と短く相槌をうった。
「会いたいなら、家か予備校でも行ったらどうだ? 予備校は確か」
岡田は個人情報などお構いなしに大池優子が通っている予備校のことを教えてくれた。
私はそれを覚えてから立ち上がった。
「世話になった。過労死するなよ」
「傷魅、お前があの事件の容疑者だってのは本当なのか?」
急に話題を変えた岡田の表情は真剣そのものだった。
別に嘘を吐く必要もなかったし、情報の礼に素直に答えることにした。
「ああ、警察から目をつけられている」
「そうか……いや、俺は疑ってないよ。お前、誰とも関わってなかったくせに、聖とだけは仲良かったから」
最後の言葉に、私は目の前の男の限界を察した。だから、あのとき、私と真理愛が対峙したときも気づくことなく、私が退学を申し出たときも驚いたんだろう。
きっと彼は今も、私が真理愛に何をされたかを知らないままなんだろう。
「他のクラスメイトなら登校してるやつもいる。会っていかないか」
「……じゃあな」
それだけ告げて、来賓室から出た。そのまま数ヶ月前まで世話になっていた教師たちの視線を浴びながら、職員室からも出た。
早く大池優子と話をしなければいけない。
『自警団』から渡されたリスト。そこにあった、クスリを買っていた客の一人が、大池優子だった。他にも多数いたリストだが、唯一ここの生徒だったのが彼女。
まだ捕まっていないなら、何かを知っている可能性がある。
本日から二章に突入。本格的に捜査を始めます。
という状況ですが、土日は更新お休みで、次回は月曜からです。