さよならメモリーズ
4
「挽歌ぁっ!」
右胸を血で染めて、膝から崩れる私に真理愛が絶叫を上げながら駆け寄ってくる。
「どうしてっ! なんでこんなことするのっ!」
「……これ、で」
掴んだナイフの柄から大量の血液がつたってきて、手が真っ赤になっていくのを見ながら、声を絞り出した。
「お前の……負け、だ……」
真理愛の計画が私を支配することなら、そうできないようにすればいい。単純な話だ。
私が死ねば、全て解決するんだから。
真理愛は私の言葉も聞こえないほど取り乱していて、どうしていいかもわからないようで、「どうしてっ!」と何度も叫んでいた。
「こんなことしたって一緒だからねっ!」
真理愛はハンカチを取り出すと、私の右胸にそれを無意味に押しつけた。
「絶対、ぜっったいっ! 私は挽歌を助けるからねっ! こんなことで逃がさないんだからぁっ!」
真っ赤に染まったハンカチをぐしゃぐしゃにして、涙ながらそう叫ぶ彼女を見ながら、私は小さく笑った。
彼女にもこういうところがあるんだと、おかしな安心感を覚えてしまった。
「待っててっ! 挽歌っ! お医者さんの知り合いがいるのは、挽歌だけじゃないんだからねっ!」
彼女は血で染まった手でポケットから携帯を取り出して、操作しはじめる。
ただ、焦っていたし、指が血で濡れていることもあって、うまく操作できないようで「あああっ!」なんて、似合わない怒声をあげていた。
真理愛は本気で私を助けようとしていた。それはきっと、ここまでしたことが無駄になるから、という理由よりも、単純に私のためだろう。
だから、次に私がとる行動に一切の予想を働かすことができなかった。
「――え」
そんな素っ頓狂な声をあげたのは、真理愛だった。
携帯が彼女の手を滑り落ち、地面とぶつかって画面が割れた。
ただ彼女はそんな光景には一切目もくれず、自分の右胸を見つめていた。
私がナイフを突き刺した自分の右胸を見つめた後、ゆっくりと顔を上げて私と眼をあわせた。
「――死ね」
冷たくそう言って、ナイフを力一杯引き抜いた。彼女の胸から血が吹き出して、周囲や私のコートを真っ赤に染めていく。
真理愛はそんな状態でもしばらくは膝立ちをしていたが、ゆっくりと倒れていき、私の肩に身をのせた。
ずしりとした彼女の重みがのしかかる。
「……そう……か」
掠れた弱々しい声が耳元でする。
「挽歌に……まねされちゃったんだね……死んだふり」
「――ああ」
そう答えると真理愛がいつもより弱く「うふ」と笑った。
「やら……れ、ちゃっ――た」
真理愛を殺すというのは、ずっと前から決めていたことだ。公僕にも飯塚にもそう言ってきた。
問題は本当に実行できるかどうかだった。三ヶ月前に真理愛が私に言った。私は真理愛を傷つけられない、と。
あのときは実際にそうだった。なぜなら、どんなことをされても、私にとって真理愛は『特別』だったからだ。
今でもそれは変わらない。だから、ここまで来た。でもだからこそ、この決断をすることができた。
「お前は……やりすぎた」
真理愛はただ自分の目的のためだけに、自身の身代わりを、かつてのクラスメイトを、知り合いをあっさりと殺した。
「私と同じ人間になった……それだけは、やめてほしかった……」
両親を殺した私と同じ罪を犯した。そのことだけは、受け入れられない。今後もそうしてしまうだろう彼女なんて見たくなかった。
だから私は、私のためのに、彼女を殺す。
「……そう、だね」
「私のせいでこうなった。せめて……私が終わらせる」
私が彼女と出会わなければ、高校一年生のあの日、一緒にアイスなんて食べに行かなければ、こうならなかったかもしれない。
だから、私の責任だ。血を吐いてでも、私が殺してやる必要がある。
たとえ、どれだけ彼女が『特別』でも。
「……血、どこ、で?」
真理愛がカタコトでそんな質問をしてくる。
「美月の……医者のところから盗んだ」
私は自分の右胸に広がった血の跡を指でつつきながら、そう白状した。
自分の右胸を刺していない。そう見せかけて、右胸に忍ばせていた血の入った袋を破裂させただけだ。
血は今朝、美月のところから拝借した。結末は近いと感じていたので、何かに使えるかもしれないと考えた。
まさか本当に活かされるとは思わなかったが。
「……そう、でも」
真理愛がまた「うふ」と笑って、残った力で弱々しく私を抱きしめた。
首に彼女の両手が巻き付いていていく。
「挽歌が……無事なら――それで、いい」
その言葉に一切の嘘は感じなかった。いや、最初からそうだ。真理愛は嘘を吐いていない。隠し事をしていただけだ。
こいつは最期まで、私に対しては真っ直ぐだった。
「……恨め」
真理愛にはさんざんひどい目に遭わされてきた。ただ、最後にこういう結末を迎える彼女を、私は憎むことができなかった。
だから、せめてそう言った。呪い殺されてもいいと思った。
だが、真理愛は違ったようで、私の肩に乗せた首を左右に振った。
「も、う……言った、でしょ?」
そこで彼女は血を吐き出し咽せたが、それでも続けた。
「挽歌に、なら……殺されて、も、いい……って」
そういえばそうだった。三ヶ月前のあの日、真理愛はナイフを突きつけた私を前にしてこう言った。
『殺されるなら、挽歌がいい』
本当に、嘘じゃなかった。信じられないほどに。
真理愛の腰に手を回して、彼女を引き寄せる。血で濡れた彼女と、体を密着させるとコートがより真っ赤になった。
「……愛歌、には、ね」
真理愛の声が段々と小さくなっていく。
「連絡が、なかったら……後始末はお願いって……頼んで、るから」
「そう、か」
どういう後始末かはわからない。
ただ、真理愛はこういう展開も予想していて、その手を打っていたんだ。おそらくは自分の死を隠匿し、大池の事件も私が犯人じゃないと収束させる方法だ。
どんな犠牲を払いそうするのかはわからないが、 抜かりはないだろう。
「…………」
そこからは二人とも、何も喋らなかった。星空の下、ただただ少しずつ呼吸が小さくなる彼女と抱き合っていた。
あのことを、言わないといけなかった。ただ、最後の勇気がどうして踏み出せず、歯がゆい時間が続いた。
真理愛が再び咽せて、血を吐き出した。顔を見ると、もう真っ白で、あと数分ももたないことは明白だった。
真理愛も私を見て、そして目を細めて微笑んだ。
「……真理愛」
さっきよりも強く、彼女を引き寄せる。
「な、に?」
目の奥が、喉が、胸が、熱くなる。
それでも、今のままさよならをしたくなくて、決死の思いでその言葉を続けた。
「月が、綺麗だ」
……ああ、やっと言えた。
真理愛と友達のまま終わるのは嫌だった。だからせめて、これだけは言っておきたかった。
少しの沈黙の後、真理愛が「うふ」と笑った。
「……死んでも、いい」
本当に、それが最期の言葉だった。
次の瞬間、彼女は自立できなくなって、全体重を私に預けてきた。
弱々しい息の音もしない。ぎゅっと強く抱きしめても、何の返事もしない。
とても軽く思える彼女を、冷たくなっていく彼女を、放すことができなくて私はずっとそのままでいた。
三ヶ月前のあの日、真理愛はこう言っていた。
『ねえ挽歌、また友達になろう。ううん、違う。それ以上。ねえ』
私たちは友達には戻れなかったが、その言葉通りになったのかもしれない。
私はあの五文字のパスワードを思い出し、また彼女を強く抱きしめた。
“LOVER”
これにて解決編はおしまいです。真理愛と挽歌も、ようやく決着をつけることができました。
次回で最終話。広げた風呂敷を畳ませていただきます。
最後の1話、どうぞお付き合いください。