私が殺した少女
第五章【凶悪:狂悪】
フードを深くかぶり、風で飛ばないよう手で押さえながら街中を駆けていく。体が痛いが、そんなこと言っている場合じゃなかった。
真理愛との電話からもう五時間が経っている。あれから、私はあてもなく逃げ続けていた。その間、二回も警官からの追跡を受けたが、どちらともなんとか逃げ切った。
やはり容疑者として指名手配されたのは私で間違いないみたいだ。
夕方を過ぎた池袋の街はいつもと変わらなかった。渋谷のあの騒動が嘘のようだ。
隠れるように自販機の側面に背中を預け、息を整える。ぜぇはぁという荒い呼吸を、口元を押さえながら繰り返す。
この五時間、訳がわからないまま逃げ続けている。
捕まってしまえばおしまいだ。警察は私が大池優子を殺したと見なしているようで、指名手配までするなら何かの証拠があるはずだ。
身に覚えが全くないが、真理愛のあの態度から察するに、彼女がまた何か仕組んだに違いない。
それが何かはわからないが、覆すのは難しいだろう。そもそもその証拠をでっちあげたのが真理愛だと説明することさえ無理だ。
なす術がない。この一言に尽きた。
息が元に戻ったところで、周囲に警察がいないか確認しながらまたあてもなく歩き始める。
生まれて初めての緊張感に、自然と汗が出てきた。
警察は少なくとも私が出入りしそうな場所はもう押さえているだろう。つまりあの店や、婆さんのところには行けない。美月のところも危ないかもしれない。
行き場をなくして、逃げ場がどこかもわからない。だから、彷徨うことしかできない。
ただ、それは婆さん達に拾われるまでと同じで、そう考えると少し気持ちが楽になった。
世界中が敵なのは、そういえばずっと前からだ。
誰かと肩がぶつかった。振り返りもせずにそのまま進んでいると、はっきりと聞こえるように舌打ちをされた。
いつもなら腹が立つが、今日はそんな余裕もなかった。
「……どうしたらいい」
自然とそう漏らしていた。ただ、答えが返ってくるわけがない。
びゅうっと強い風が突然吹き付け、フードが自然と外れてしまい、思わず「あ!」と叫んでしまい、周囲の人々がこちらを見てくる。
即座に元に戻すが晒された赤い髪が目に入ったららしく、物珍しそうな視線が離れてくれない。何人かひそひそと話をし始めた。
小さく「くそっ」と悪態をついて、その場から走り去った。ただでさえ目立つこの色が、今は私の目印になっている。警察だって私を捜すときに、絶対にこれを基準にしているはずだ。
今はとにかく人目に触れたくない。走りながら、そんな場所を目指すが、全く思いつかない。
そもそもそんなところに行っても、返って目立つだけだ。池袋に来たのだって、人混みに紛れたかったからだ。
騒ぎなった場所から離れながら、携帯を取り出した。
「……パスワード」
手がかりはもはやこれだけだ。あの真理愛からのメール。あのタイミングで送ってきた以上、必ず意味がある。
真理愛からの連絡はあれ以来ない。着信履歴を使って、こちらからかけても応答はなかった。
もう何度目になるかもわからないあてずっぽうのパスワードを入力してみるが、またはじれる。
「くそっ」
あいつは私に何を伝えたっていうんだ。この三年近く、側にいることは多かったが、五文字の言葉なんて思いつかない。
怒りを鎮めるため、たばこを取り出してくわえた。落ち着かないといけない。
煙を吐き出すために、顔をあげたのが功を奏した。人々が行き交う歩道に面した車道に、パトカーが停まっていた。そして一人の男がその車体に身を預けながら、たばこをふかせていた。
最悪の事態に足を止めてしまい、後ろを歩いていた中年の男にぶつかられた。
「あ、すいません」
彼は急いでいたのか、よろめいてたばこを落とした私に、軽い謝罪だけ口にして小走りで去って行った。
ただ、それがだめだった。そんな音が、あいつがこちらを振り向かせた。
「――傷魅さん」
車体に預けていた身を起こして、公僕が見開いた目で私をとらえていた。
迷っている時間などなかった。すぐに踵を返し、人波を全速力で逆走しはじめた。
「きゃっ」
何人もとぶつかりながら、人並みを無理矢理かき分けて道を作っていった。彼らの荷物を落としたり、転ばせたりしなたので、罵声も飛んできたが全て無視した。
「傷魅さんっ! 止まってっ!」
後方から公僕が同じようにして追いかけてくるが、職業のせいか私のように力尽くで道を作ることができないようで、スピードは遅かった。
「傷魅さんっ!」
何度もそう叫ばれるので走りながら振り向き、こちらも大声をあげる。
「公僕っ! 私じゃないっ! お前らはどこまで無能だっ!」
「そう言うならっ、証明してくださいよっ!」
「それがお前らの仕事だと言っているんだろっ!」
人波を挟んで、そんな怒声を浴びせ合う。ただでさえ痛む体で走っているのに、こんなに大きな声を出すと、体中に響いて堪える。
何人目かを突き飛ばしたところで、私は角を曲がった。そこからは人は少なく、私は痛む片腹をおさえながら、さっきよりスピードをあげた。
ここであの公僕と出会うなんて、運がないというより、呪われている。神なんて信じたことはないが、いたら殺してやる。
「傷魅さんっ! そこまでですよっ!」
また振り向けば、公僕も人波から抜け出して、こちらに向かっていた。
「くそ」
さっきみたいに妨害がなければ、怪我人で女の私が、現役警察官の彼から走って逃げるなんてできるわけがない。
その時、ちょうど目の前にバス停が見えた。十人の男女が並んでいる。
「どなたかっ! 彼女を止めてくださいっ!」
後方から公僕がそう叫ぶと、並んでいたうちの数名が私を見てきた。
さっきと違い、押し倒す時間さえ惜しい。私は足を止めてると、そのバス停の前にあったビルの中へと何の考えもなく入っていった。
いくつかの会社が入っている、少し寂れたビルだった。入ってすぐにエレベーターが目に入ったが、一つしかない上に今は上階にあったので、階段に向かった。
上階に向かって駆けていると、また後ろから公僕の声がした。
「くそっ!」
今日何度目になるかわからない悪態をついて、とりあえず二階のフロアに出た。細い通路の左右に三つずつ扉があって、一つの扉に『テナント募集中』という張り紙がしてあった。
すがるような思いでそこのドアノブを捻ると、あっさりと開いた。
室内には何もない。むき出しになった床面に、蛍光灯のはめられていない照明器具。窓から差し込む夕日と、街灯だけがこの無機質な部屋の中を照らしていた。
体を引きずるように部屋の奥まで進むと、体力の限界だったのか、自然と途中で膝をついてしまった。
「そこまでですよ」
本当に意地の悪いタイミングでそんな声が聞こえて、振り向けば部屋の入り口で、公僕が息を切らせながら私を睨みつけていた。
「……観念してください」
「……足が速いんだな。仕事もそれくらい早くやれ」
もはやどうしようもない状況だったが、素直に投降などしてやるつもりもなく、減らず口を叩きながらゆっくりと彼と距離をとる。
「なら仕事をさせてもらいましょうか。一緒に来てください、署までデートしましょう」
「古くさい冗談だな。昭和生まれはこれだから嫌いだ」
「平成生まれで好きな人でもいるんですかね?」
「……どうだかな」
窓に背中を預け、公僕と向き合う。彼は私が逃げられないように中に入ると、しっかりと入り口に張り付いてガードした。
「ご存じかと思いますが、あなたに大池優子さん殺害容疑で逮捕状が出ています。ご同行願えない場合は、実力行使もありえますよ」
「……どうしてそんなことになる。私は知らんと言っただろう。話を聞いてなかったのか、無能」
「無能なりに仕事をしましてね。あなたが本当に知らないのか、調べ上げました。でもやっぱり、あなたの証言には無理がありましたよ。それでいて」
彼はトレードマークのトレンチコートの胸ポケットから携帯を取り出して、その画面をこちらに見せてきた。
「なっ!」
あまりに信じられないもののせいで、喉の奥から衝撃の感情が漏れた。
写真だった。何の写真かはすぐにわかった。おそらくは街灯に設置された監視カメラの映像を切り取ったもの。俯瞰気味にその景色をはっきりととらえていた。
写されていたのは、まず大池。彼女がどこだかわからないが、あの夜と同じ服装で町中を歩いていた。
問題は、その隣にいる人物。大池は怯えるように身を縮めながら、その隣にいる人物を気にかけていた。
それが紛れもなく、私だった。
「ば……ばか言うな」
そんな言葉しか出てこないが、当たり前のように公僕は首を左右に振った。
「馬鹿じゃありません。事実です。他の写真もありますよ。その辺は警察でゆっくりお見せします。だから……」
おかしい。あの写真がいつのものかはわからないが、彼女が行方不明になって見つかるまでの三日間のうちのどれかだ。
その間、私は当たり前だが彼女と会っていない。なのにどうしてあんなものが存在しているんだ。
「さあ、傷魅さん」
公僕が一歩前に出てくるので、私も下がろうとするが、すでに窓に背中が当たっていて逃げ場がないことを突きつけてきた。
「……それは私じゃない」
そんな間抜けな否定しかできないのが歯がゆい。
「じゃあ誰なんです。この赤い髪の人は」
「知らん」
「僕は知ってますよ、あなたですから」
奥歯をこれ以上無い力で噛みしめる。違う、絶対に私じゃない。ただ、それを証明できない。
私はこの公僕を欺いた。大池を知らないと言ったが、実際に会っている。もうすでにこの時点で怪しいのに、こんな証拠まで出てくれば、警察が指名手配するのも無理はない。
ちらりと窓の外を覗いた。さきほどのバス停が見える。もう列はなくなっていて、バス停の汚れた屋根だけが見えた。
…………。
最終章にはいりました。
さっそくピンチですが。