悪意
なんだかそれを認めると気楽になった。少し余裕が生まれたおかげか、彼女の勉強机を見つめていると、懐かしいものが眼に入った。
「これ……」
そこにあったのはまだ未使用の香水だった。ハート型で赤い色の瓶に入れられたもの。去年のクリスマスに私が真理愛に贈ったものだ。
プレゼント交換がしたいとせがんでくるので、仕方なくのった。よく行っていた喫茶店でクリスマスイブに二人でプレゼントを交換し合った。
彼女は私にイヤリングを、私は彼女にこの香水を渡した。香水にしたのは、彼女がいつも好んでつけていたあの甘い香りのものが頭にあって、そういうのが好きなんだろうと思ったから。
彼女はそれを受け取るととても大げさに喜んでいた。
まだ未開封だということは、これを使用するというより、その思い出を大切にすることを選んでいたらしい。私がイヤリングをつけなかったことに文句を言っていたくせに、都合のいいことだ。
香水を元の場所に戻したところで、違和感を覚えた。未使用だが、箱がない。この香水は確か箱に入れられていたはずだ。
捨てたのか? いや、ありえない。あの真理愛が私からのプレゼントを、使わないくらい大切にしていたものの箱を捨てるはずがない。
首をかしげていたところで、部屋のドアが開いた。
振り返るとお盆にコーヒーカップをのせた理恵さんが立っていた。
「……私なんかに気を遣うことはない」
「そういうわけにはいかないわよ」
彼女が有無を言わさずカップを渡してきたので、仕方なく受け取った。この強引さが、真理愛に引き継がれたんだろう。
「懐かしい?」
「まあ。いろいろ、思い出す」
「そうよね。私もここに入ると、本当にたくさんのことを思い出すの」
彼女はベッドに腰掛けて、懐かしそうに微笑んだ。
「最初にあなたを連れて来たときは、驚いたものよ」
「……顔に出ていた」
「ごめんなさい。でもね、それは真理愛にも怒られたわ。あなたが帰ったあと、それこそこの部屋で『お母さん、挽歌のこと変な目で見たでしょ』って」
簡単に想像できることで、私は小さく笑ってしまった。
「驚かない方がおかしいんだ。気にしなくていい」
慣れていたし、むしろ驚かず、奇異な目で見てこなかった真理愛の方が圧倒的に変わり者だったんだ。
「あの子、あなたを連れてよく星を見に行ってたでしょ」
理恵さんは星空のポスターを見ながら、そう質問してきた。
「ああ、寒かった」
「星が好きなのは昔からだったわ。普通、あなたたちくらいの年代なら、アイドルとかのポスターを貼るものなのに、こんなマニアックなの貼って…・・」
声が震え始めた。ただ、こんな時にどんな言葉をかけるべきなのか知らないから、黙っておくしかなかった。
「私も、教えてもらったわ。たしか、これがシリウスだって」
理恵さんがポスターの星を一つ指さした。それを見て、黙って聞いておこうとしたのに、つい口を出してしまった。
「違う。それはベテルギウスだ」
間違いを指摘できたのは、ここで何度も真理愛から教えられていたから。
「あら……あの子、そう言っていたのに」
「理恵さん、疲れてるだろう。邪魔しておいてなんだが、休んだ方がいい」
彼女は小さな声で「そうね……」と同意してくれた。気丈に振る舞ってくれていたものの、やはり隠しきれるものじゃない。
私は出されたコーヒーを一気に飲み干して、カップを理恵さんに返した。
「そういえば、そこの香水なんだが」
「ああ、あなたがあの子にプレゼントしてくれたんでしょう」
「そうだ。あれって、箱があっただろう。見なかったか?」
すると理恵さんがばつが悪そうな顔をして顔を伏せた。
「なんだ」
「……捨てちゃったの、私が」
予想していなかった答えに、口を半開きにしたまま驚いてしまった。私のその反応を見て、理恵さんが慌て始める。
「ほ、本当にごめんなさいっ。悪気はなかったのよ」
「い、いや、私は別にいいんだが……」
箱を捨てられたからといって、傷つくわけがない。すでに人に渡し物だし、愛着なんて全くなかった。今日までずっと忘れていたくらいだし。
私が驚いたのはそこじゃない。
「真理愛は怒らなかったのか?」
理恵さんはとんでもないとでも言うようにぶんぶんと首を振った。
「すごい勢いで怒られたわ。でも、あの子だって悪いのよ。私、その香水があなたからの贈り物だって知らなかったの。で、ある日部屋を掃除してたら、机の上に箱だけ転がっていたから、いらないんだと思って」
「それは……真理愛が悪いな」
正直、親子のそういう関係を経験したことがないので、なんとも言えなかった。本当に、なんとなくそう思っただけだ。
「その証拠に、あの子だって数日は気づかなかったんだから。しばらくして、箱はどうしたのって血相を変えてきたわ」
「……想像できた」
感情的になった真理愛は、普段の無邪気で、子供っぽい様子が消え去り、少しヒステリック気味になった。まあ、少なくとも学校では、私以外にはそんな姿を見せていなかったが。
「それでちょっとした喧嘩になったわね……もう」
そこで言葉が途切れた。彼女はもう一度「もう」と呟き直した。
「もう、できないのね」
私は二度と真理愛と喧嘩なんてしたくない。そもそも、あれは喧嘩と呼ぶには一方的すぎだ。
それでも、理恵さんが悲しんでいる理由が少しだけ理解できた。
気を遣うことなんてないのに、理恵さんは律儀に玄関まで見送りをしてくれた。
「またいつでも来てくれていいのよ」
お世辞なのか、本気なのか捉え方が難しい言葉に曖昧にはにかんでおいた。
玄関に腰を下ろして、ブーツの紐を結んでいると、理恵さんがさっきよりも震えた声で話しかけてきた。
「ねえ……あの子は、真理愛は、いい子だったでしょう?」
思わず指を止めて、その問いかけに耳を傾けてしまった。
「色んな人がね……あの子は犯罪者だって……死んで当然だって」
この家にいる間は、あえて真理愛が裏社会に通じていることは話題にしなかったのに、どうしてそっちからそのタブーに触れてくるんだともどかしい気持ちになる。
「で、でも、でもねっ、いい子だったのよっ! いつも家のことだって手伝ってくれたわ、誕生日にはいつもプレゼントをくれて……よく笑って、友達だって多くて――」
「理恵さん、落ち着け」
「あなたならわかるでしょうっ! あの子がいい子だったって! みんな、あの子が何をしてたか知った途端、蔑むような眼で見てくるのよっ! 生きてたときは、いい子だって言ってくれたじゃないのっ!」
言葉が届かないなと感じた。私と彼女の間に、いや、彼女の周りにとても歪な壁がある。それが全てを遮断していた。
でもきっと、それは彼女が自身を守るために必要だったものだろう。娘の犯罪が明るみに出て、この人がどれだけの非難の的になったかは知っている。
「ねえ、傷魅さんっ! お願いっ、言ってよっ! あの子は、いい子だったでしょうっ!」
紐を結び終えて立ち上がり、理恵さんと向き合う。充血させた眼が、とても痛々しい。
きっとずっとそう言ってくれる誰かが来るのを待っていたんだろう。だから、不自然なくらいに私を優しく迎えてくれたんだ。
だから――。
「理恵さん」
私は小さく笑った。その表情に理恵さんの唇が綻んだ。
「真理愛は、化け物だったよ」
はっきりとそう言った。冷たく言い放ったわけじゃない。ただ、とても端的にそう告げたると、彼女の表情が凍り付いた。
「あいつは怪物で、悪魔だった。あなたは、産んじゃいけないものを産んだんだ」
糾弾するつもりがあったわけじゃない。悪意なんて本当になかった。
ただ、本当にそう思っていた。
理恵さんの瞳が激しく揺れて、表情がみるみるうちに崩れていき、喉から獣のような声を鳴らし始め、両手で顔を覆い隠すと、叫びながら膝から崩れ落ちた。
大人の女性が声を上げて泣いている姿を初めて見た。彼女はまるで魂でも吐き出すように、大きな声で泣き続け、そのうちに額までに床につけた。
それでもまだ泣き叫び続けていた。
その悲痛な声を背に、私はもう二度と訪れることのないその家を「お邪魔しました」という挨拶もせずに後にした。
後悔はなかった。
今月もよろしくお願いいたします。
全40話ほどの予定ですので、もう折り返しはしています。
今月中には完結しますので、あと少し、お付き合いください。