双頭の悪魔
5
「監視、続けていて良かったよ。まさかあんなことになるとは、思っていなかったけど」
代表——名前を飯塚という男は、水の入ったコップを私の前に差し出して、満足そうにしていた。
「あの喧嘩屋の二人はさっき知り合いの医者に押しつけてきた。痛みが引いたら、色々と聞きだせるように手筈しておくよ」
「……手際がいいな」
「ま、プロだからね」
あの後、外国人たちに救出された二人は、彼らが運転するワンボックスカーに乗せられてどこかへ行った。それがその医者のところなんだろう。
私は飯塚の車で彼の住むマンションに来た。かなりの高級マンションの最上階の部屋で、室内もホテルのスイートルームのようだ。
そのリビングルームのソファで、私は疲れ切っていた。
「監視をしていたなら、女を担いでいった男も見たのか」
「十字架の入れ墨が入った奴だろ。もちろん確認した。でもごめんね、あのビルから出た途端、近くに停めてた車に乗り込んで、そのまま逃げちゃった。追わせたけど、簡単にまかれちゃったって。相当なプロだね」
「……使えない」
「みんながみんな、真理愛みたいに何でもできるわけじゃないよ」
飯塚はタバコを吸い始め、私にも一本勧めてきた。少し迷ったが、頭の中がぐちゃぐちゃだったから吸うことにした。
タバコを吸うと、少しだけ落ち着けた。ただ、それはさっきの醜態を思い出すことにも繋がって、気分がより一層悪くなった。
その感情が顔に出たのだろう、飯塚が苦笑いをした。
「今にも人を殺しそうな顔をしてるよ」
「……あの男は、何かを知っていた。真理愛はあの男に、私のことを教えていたんだ。あいつは真理愛にとって重要な奴だったんだ」
それを取り逃がした。ここまでが順調すぎたのかもしれないが、躓いたことが許せない。
手がかりの男も、その男と繋がっていた大池も失った。
私が追うことができたルートは『自警団』だけだ。彼らだけが私が唯一知っていた、警察が掴んでいなかった真理愛と繋がりのあった組織。
そこから得たのはあの男だけだったのに、それを失った。この後、どうするべきかがまるでわからない。
やばい。イライラする。
「俺たちも顔が広いからね。裏社会で彼を探してみるよ。ただ、あんまり期待しないでね。相互不干渉、それがこの世界のマナーで、嘘でも『知らない』と言われたら、それ以上は探れないんだよ」
「……千香が言っていたな、マナーはルールより重視するって」
「そうだね。でも、それはこの世界に限ったことじゃない。みんな、ルールばっかり重視して、マナーを置き去りにするから、結果としてマナーがルールになるんだよね」
飯塚は煙を天井に向かって吐き出し、短くなったタバコをガラスの灰皿へ押しつけた。
「俺たちはマナーを重視して、これ以上ルールができないようにしてるんだ。罪状が増えるのは嫌だからね」
そのとき、テーブルに置いてあった飯塚の携帯が鳴り始めた。彼は「きたきた」と嬉しそうにそれにでた。
「はい、もしもし」
その後、彼は「うん」とか「そう」とか、相手の話に相槌だけうっていて、それを終えると「りょーかい」と軽い調子で電話をきった。
「千香からだった。あのビル、全焼したってさ。警察と消防が調査を始めたって」
「……面倒だな」
もし付近に監視カメラでもあれば、撮られたかもしれない。この髪の色のせいで、異様に目立ってしまうので、もしそうなっていたら、すぐに特定されるだろう。
そんな私の心配を飯塚は「大丈夫でしょ」と簡単に否定した。
「あの辺、君の監視中にチェックしたけど、そういう心配はなさそうだったよ。それに、もしそんな警備があるところだったら、取引には使われてない」
さすがにその道のプロが言うと説得力があった。それにもし撮られていたら、それはあの男も同じはずで、そうなれば私が探す必要はなくなる。
……そう考えると心配が一気に、望み薄と変わり果てた。
「でもここ数日、動き回ってたんだろ。警察とも接触してたみたいだし。いい機会だ、ちょっと休みなよ」
本当にずっと監視しているのかと呆れ果てる。気持ち悪いが、そういう話だったし、困ることはないので構わないが。
「落ち着かないだろうけど、落ち着くことも大切だ。お店のことだってあるだろ」
「あそこはどうとでもなる」
「お婆さんのお見舞いとか、行かないと」
全く意識していなかった。それは本当に反射条件だったと思う。脳の指令や、理性の制御よりも圧倒的に早く体が動いた。
テーブルに足をかけて、飯塚の首を鷲掴みにして、そのまま押し倒した。
彼がソファごと倒されて、派手な音をたてた。
首を締め付けて彼を固定したまま、ポケットからバタフライナイフを取り出し、それを振り上げた。
「やめなさい」
今まさにそれを振り下ろそうとしていたのに、女の声で我に返る。
リビングの入り口に千香とさっきの黒人が立っていた。
「すぐにやめなさい。じゃないと、コビンにあなたを止めてもらうことになる。あなたの実力は知っているけど、無傷じゃすまないわよ」
黒人——コビンが一歩だけこちらに近づく。その目はまっすぐと私を捉えていて、すぐにでも飛びかかる準備ができている様子だ。
勝てない相手じゃない。図体がでかいだけなら、対処方法はいくらでもある。しかし、千香が言うとおり無傷じゃすまない。それはこれから調査のことを考えるとマイナス要素だ。
舌打ちをしてからバタフライナイフを畳み、飯塚の上からどいた。
「……怖いなあ」
「代表、今のは失言でしたよ。私たちの到着が遅かったら、殺されてましたからね」
「二人がすぐそこまで来ていたから言ったんだよ」
遠回しに「わざと言った」と白状する飯塚に千香はため息をついた。
コビンは何も言わず、私を見つめたまま部屋の隅にいき、壁にもたれた。いつでもいける、目でそう語っていた。
私も睨み返し「黙ってろ」と伝える。
「……傷魅さん、あなたも短気すぎ」
「自分たちが殺しかけた人間の見舞いを気にする暇があれば、自首してこい」
婆さんの事件の犯人は彼らだった。もちろん真理愛の差し金。私が真理愛と『自警団』の関係を知ったことを逆手にとり、彼らに「もし大事になったら困るでしょ?」と唆したらしい。
だからこそ、今の発言は殺してしまいそうになるほど腹が立った。
千香はまたため息をつくと、私にも飯塚にも何も言わず、窓辺へ行き、コビンほどの大きさの窓を開けて、ベランダへ出た。
そして手招きをして私を呼びつける。よくわからなかったが、とりあえずベランダへ出た。
コートを着ていても、マンションの最上階ともなると風も強く、かなり寒かった。
「いい風よ。これで頭を冷やしなさい」
「上司にも言え」
「あの人には言っても無駄だから。それに見て」
彼女はベランダの手すりに腕をのせて、空を指さした。雲一つない夜空には、大量の星が、強弱はあるものの一つ一つたしかに輝いていた。
「ここ、星空は絶景よ。こういうので落ち着くって気持ち、あなたにはある?」
…………。
「……あいつも」
「うん?」
「真理愛も、星が好きだった。綺麗だ、宝石だ、奇跡だなんて、よく言っていた」
千香がすごく意外そうな顔をした。
「そうなの。あの子、そんなところがあったんだ」
「知らなかったのか?」
「相互不干渉よ。あなたが前まで真理愛の裏の顔を知らなかったように、あなたが知っている真理愛を私たちは知らないのよ。どっちが本当ってことではないでしょうね。どっちもあの子だったんだわ」
その千香の言葉に自然と頷いてしまった。そう、真理愛は隠し事はしていたが、嘘は吐いていなかった。
表や裏じゃない。人間はコインや紙みたいに薄くない。そんなもので例えるのがそもそもナンセンスだ。
真理愛という人間は、顔が二つあった。ただ、それだけだ。私の前にいた純粋な少女と、悪事を塔ができるくらいに積み重ねていた女は、紛れもなく同一人物だったんだ。
星を眺めていると、彼女と過ごしたある日のことが頭の中に浮かび上がってきた。
そう、あれは二年前の冬だった。
次回は挽歌と真理愛の過去編です。
百合色強めでお送りします。