茶色いネックストラップ
メガネをかけながら、ヘッドフォンをするのはどうしても辛い。
ヘッドフォンがメガネのテンプルを締め付ける。締め付けられることによって、耳の横の血管なのか神経なのかよくわからない部分を圧迫する。次第に、頭が痛くなってくるし、気がつけばメガネもずれている。
そんな不憫なメガネのブリッジを、右手でクイっと上げながら前を見た。
「君は結婚しないの」
小さいミラーレス一眼カメラを首からかけた女の子が僕に聞いてきた。
「結婚はしないよ」
僕は答える。
僕は、24歳になった。
大学を卒業してから、小規模な商社に就職して、車のリースやPCのリースなどを手掛けている。
『手掛けている』という表現はなんだかデザイナーぽくて僕は好きであったが、結局のところ単なる仕事をしているだけである。もっと言えば、『リース』とかっこよく言っているが、要は『貸している』だけである。
ミラーレス一眼カメラについた、茶色の革のストラップを彼女は触りながら歩いていた。
僕は、彼女に並行して歩いている。そして、その歩いている彼女を見ているふりをしながら、胸元に目をやった。
「どうして、結婚しないの」
彼女は、そう言って僕の方を見上げる。
僕は慌てて、視線を宙に向ける。空が綺麗だ。夏らしい入道雲が青色の中に、白く存在していた。
「君は、結婚しないの」
僕は、質問を質問で返して見せた。最低である。
僕の必殺『質問返し』に彼女は黙ってしまった。
悪いことをしたつもりはない。
僕らの歩いている横を流れる川は、日差しを反射して緑色に輝いていた。
時折、川魚がぴょんぴょんと水の中から跳ねている。
「私は、結婚するよ」
彼女のほうを見る。今度は、胸元ではなく、彼女の顔面をしっかりと。
「そうなんだ」
僕は、ポツリと呟くようにしていった。
表情という表情はなかった、と思う。
そして、また、まっすぐと正面を向いた。
ふたりの歩幅は、同じではない。
僕の方が、少し長くて、彼女の方が少し短い。
どちらも『少し』長かったり、『少し』短かったりするわけで、お互いの『少し』を相殺したら結局、『長い』と『短い』が残る。女の子の歩幅はやはりどうしたって短いのである。
僕が、スタスタと歩いて、しばらくして早歩きに変わり彼女が僕を追ってくる。
追いついたら、僕がスタスタと歩きはじめて、またしばらくして早歩きに変わる。それでも、僕は彼女に歩幅を無理やりに合わせようとはしなかった。
彼女は、突然立ち止まって、カメラのレンズを僕に向けたようだ。
僕は、スタスタと歩いていたから、その動作にまったく気がつかなかった。
「ねぇ!」
彼女は大きな声を出して、僕を呼ぶ。
僕は、無意識にそして、反射的に彼女の方を見た。
彼女は、ファインダー越しに僕を見る。
そして、シャッターを切った。
とってつけたような電子音とともに僕の姿はデジタルに切り取られた。
「ふふふ」
彼女は、微笑みながらカメラの液晶画面に映し出された僕を見て笑った。
微笑ましい彼女に僕は近く。
「見せてよ」
「やだよ」
「見せなさいって」
「だから、嫌だってば」
彼女は、ネックストラップのついたミラーレスカメラを縦横無尽に動かし、僕の両手にカメラが捕まらないように見事に逃げ回った。
僕は、諦めてズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
「大人ってなんだろうね。難しいなぁ」
彼女は、意識が高そうな質問をした。
「知らないよ、そんなこと」
僕は、質問をぶった切る。
「そうだよね」
無地の紺色のワンピースを着た彼女は、大股で歩き始めた。
さっきまでの歩幅では無くなっていた。気がつくと僕と同じくらいの歩幅である。
「誰と結婚するの」
唐突な質問に彼女は、僕の方を見る。その眼差しは、驚きを隠せないと言った表情だった。
結婚する気がない男が、結婚する気のある女性の相手を気にするわけだから無理もないのかもしれない。
「気になるのかしら」
彼女は、僕を焦らす。
「話の流れから聞かないといけないのかと思いまして」
彼女は、小走りで走っていった。そして、僕の前に立ちふさがった。
ここは、橋の上ではないのだけれど、一本道であった。
右手にはそれなりに大きな川が流れているし、左手にはそれなりに急な土手があった。
さながら、牛若丸と弁慶であった。
彼女は、両手を腰に添えてたった。いわゆる仁王立ちである。
僕は、両手をぶらんと垂らして立っている。いわゆる直立不動である。
「教えてあげないけど、少しだけヒント」
「ヒント」
僕は、復唱する。
「今付き合っている人ではないことは確かだよ」
僕は、無表情で彼女の顔面を見る。その表情は真剣であったし、どこかはずかしそうだった。
「リアクションに困るんだけど」
リアクションに困った僕は、ポツリと呟くようにしていった。
しかし、あまり大きな声でなかったのか、僕の声は彼女には聞こえてはいなかったようだ。
「そうだ、なんか真剣なところ悪いんだけど、一つだけいいかな」
彼女の頭にビックリマークが見えたような気がした。僕は、彼女の意表をつくのが、どうやらうまいらしい。
「結婚する気はないって言ったけど、実は嘘。君とだったら結婚したいと常々思ってたよ」
彼女の顔面が次第に赤くなっていくのがわかった。
「って、私たち付き合ってはいないよね」
冷静に、彼女は切り返す。そう、僕らは付き合ってはいない。単なる友達である。
彼女は、次第に僕の方へと近づいてきた。
そして、首から下げていたカメラを僕にぶっきらぼうに渡した。
「え、なに」
僕に渡した瞬間、彼女は走って土手を駆け下りていった。
紺色のワンピースの裾がフリフリと揺れながら真っ白い日本の足が、土手の中へと消えていった。
僕は、渡されたカメラの再生ボタンを押した。
すると、さきほど撮ったであろう僕の写真が写っていた。
青い空と入道雲の下で、すました顔の男が立っている。
そして、僕は思った。
「今度、このカメラ返さないとなぁ」