すれ違った同僚を全員覚えている人はたぶんいない 3
ドルは、ツァーレン兵として出会ったことはないと答えた。だが、前にシュピーツェたちが話を聞いた謎の両性族『親父』の子孫の部隊について知っていた。
施設の反乱で逃げ出したドルは、反乱に協力した人のつてで、最初に助けてくれた医者と再会したことがあった。
その医者はアーシェの言葉のひとつで名前がないという意味のネモという単語を普段の名前にしていた。ドルは気にしていなかったが、言葉を習ううちにネモという語感が気になって質問し、ネモは自分がそう名乗っている理由を話した。
ネモは、自分には名前が三つあると言った。まずは、生まれたときに親からもらった名前。二つ目は、あの『親父』のような非合法で人目に触れてはいけない研究者としての偽名。そして三つ目は、二つの名前つまり人生を捨てた意思表示としてのネモ。
「彼は話していた。アーシェの小説を読んでネモという人物に出会い、自分もそう名乗るべきだと思った、と。名前を変えながら恐る恐る暮らすより、すべてを捨てて新しいネモという町医者として残りの人生を生きようと強く誓ったのだと。
復讐はしないが、これまでの自分ではない、残りの人生を全くの別人として歩む決意を簡潔にはっきりと表現できる、素晴らしい名前だ、と。私は読んでいないのですが、きっといい名前なのでしょう」
そして、ネモは時折、自分がしてきた恐ろしい仮説やそれを確かめる実験、はばかられるような研究内容の数々について、亡くなるまでの数年間、ドルに少しずつ話して聞かせたのだった。
「ネモ先生が亡くなってすぐ、私は残されたメッセージを頼りに逃げて、ここにかくまってもらうことができました。あとは、ただここで簡単な治療の手伝いをして生きていくつもりです。
君も、もしあの実験体の子孫なら、きっとまだ身体も若い。今の身分を大切に育て、過去の探求なぞしないでおきなさい。
もう何十年もたっているだろうに、未だに、アメリア軍の施設で見聞きしたものを、夢に見る。君はせっかく忘れているんだ。気味の悪いものをわざわざ思い出す必要はあるまいて」
シュピーツェは礼を言い、もう日が暮れているにも関わらず、食事や宿の提供を辞退して、借りている住居まで戻った。
次回は6月中に投下します。