過去
「今日は、はやく帰ってきてね! 今日は瑛太クンの16歳のお誕生日なんだから!」
大きめのキッチンから話しかけてきたのはオレの母親だ。朝早いというのに妙にテンションが高い。
「俺も有給をとったからな! 今日は祝い倒すぞ! お前たちがいない間は存分に家を満喫しておくから安心してくれ!」
「……父さん、それ社会人として許されるの?」
「いいじゃないか、今日ぐらい。これでも部下からの信頼は厚い方なんだ。彼らも笑って許してくれるさ…………納期の三日前だが」
両親は家族間での祝い事を大切にする性格だった。そして、今日はオレの誕生日だ。
母は普段よりも張り切って朝から料理の準備をしているし、父に至っては先程からコーヒーカップを持つ手が震えている。余程の覚悟をもっての所業なのだろう。
父の言葉の終わりとカチカチと音を鳴らすカップと皿の不協和音に若干の不安を抱きながらも高校に向かうために靴を履く。
時刻は八時三十分だ。いくら高校が家から近いと言えどもこの時間は少しまずい。そう思い少し準備を急ぐ。
「お兄ちゃん待ってよ! 私も一緒に行く!」
「わかった、分かったから毎朝背後から頸椎にダメージを与えるのはやめてくれ」
靴紐を結んでいる最中に首にとびつかれて大きな衝撃が走った。ゴキッと体の内部から鈍い音が響いて聞こえる。もう日課のようになっているが、蓄積されるダメージは決して許容できるものではないので妹に対しなるべく優しく諭しておこう。
「理奈、そういうことはもう少し胸を大きくしてからしなさい。頸椎が痛むだろう」
「瑛太クーン、小学五年生の妹に何を教えているのかな〜?」
母親に怒られた。どうやら行為自体を辞めさせるべきだったようだ。どうも親心と言うものはどうも解りづらい。
胸が大きくなっても首を痛める? だからどうした。それは正義だ。それが、正義だ。
「理奈ちゃーん、マッサージはお兄ちゃんとお父さんの見てないところでやろうね~」
見ると、理奈が必死に胸周りの肉をかき集めている。がんばれAAカップの少女よ。
「瑛太、理奈、はやく行かないと遅刻するぞ。そうだ、学校が終わったら理奈を迎えに行って一緒に帰ってくること。あと連絡を寄越すこと。そうじゃないとサプライズにならないからな」
「もうそれはサプライズじゃないんじゃないの?」と口にしかけたが、我慢して呑み込んだ。この親はなんだかんだ言って思いもよらない手でオレを驚かせてくる。
ちなみにオレ達が通っている学校は小・中・高の一貫性なので迎えに行くことはさして苦でもない。
「わかった。じゃあ行こう、理奈。早くしないと門が閉まる」
「そうなのか、お兄ちゃん! ならばおぶって!」
「だから、もう少し女性特有の部分が突出してきて「瑛太く~ん?」──なんでもない」
「けちー!」
仲睦まじい様子を見て父母が笑う。親にとって兄妹中が良いのは安心できることなのだろう。
「「いってらっしゃい」」
「「行ってきまーす!」」
普通の、仲のいい家族の見慣れた一コマだった。
☆
時刻は午後5時をまわっていて、学校から聞こえてくる吹奏楽部の音楽が町を包んでいる。普段は友達と馬鹿な話をしながら帰る道も今日は妹の手を引きながら歩いていた。少し茶色がかった理奈の髪が夕陽によってより朱く染まっている。
「お兄ちゃん、ご飯何かな?! ケーキもあるかな?! っていうか、あるよね!」
「誕生日だからなあ、あるんじゃないか」
少し適当に返事をしたオレに対し理奈があまり面白くなさそうに頬を膨らませる。
「お兄ちゃん、お父さんから連絡が返されてないからって心配しすぎ! きっと二人っきりだからいいことを……あいたっ!」
「どこでそんなことを憶えてきたんだ」
理奈の頭に軽くチョップを落とす。年頃の女の子がそんなこと言ってはいけない。最近は変態さんが起こす物騒な事件も増えているし、妹を危険に晒すような真似はしたくない。
ついでに言うと、想像することも憚られることが中学にも上がっていない妹の口から出てきたのも理由の一つだ。だって、ねぇ……?
「今年はどんなお誕生日になるかな?!」
今年の趣向か……そうだな……
「去年は終始動画を撮られたし、一昨年は家の外で祝われただろ。あれは恥ずかしかったなぁ。近所の人達に招待状を配りまくってたらしいし。んで、三年前は幼稚園時代の映像を無言で鑑賞させられたし……」
「よくぐれてないね、お兄ちゃん……」
理奈の憐みの視線が突き刺さる。友人に話した時も同じような反応を示されたので慣れてはいるものの、妹からの視線には耐えられない。君も一緒になって祝ってたよね? と言うと理奈は気まずそうに目線を逸らした。
「エへへ、あ! 家が見えてきたよ! ほら早くしないと私が先に祝われちゃうよ!」
理奈の強引な話題転換に、少しばかり溜め息をつく。
パッチリとした二重に加え鼻立ちはスッキリとしている。屈託のない笑顔はみんなを明るくさせるし、元気いっぱいの声は活発な様子が見て取れる。女性特有の部分の成長は遅いものの、母の胸を見る限り将来的には問題ないだろう。要するに、どこに出しても恥ずかしくない可愛い妹だということだ。
しかし、誰にでも欠点と言うものはあるようで頭だけは少し残念なのだ。あんな風に嘘が下手だと友達間での付き合いが心配になる。友達の女子たちも『女のいじめって怖いんだよ』とか言ってるので、過保護なのかもしれないがやはり心配なのだ。
家に着き、鞄の中から鍵を取り出す。家に明かりがついていないので、今年のコンセプトは案外ちゃんとしたサプライズなのかもしれないな。
「「ただいまー!」」
やはり両親の返事はない。驚かせようとしているのだろう。
「ほら、お兄ちゃんが先に入って! サプライズなんだから!」
「え、あ、うん」
理奈に急かされて靴を脱ぎ捨てる。少しサプライズの意味を取り違えているような気がするが置いておこう。
家に入ると玄関のライトが自動で点いた。父が「家族が疲れて帰ってきても大丈夫なように」と家を建てるときに要求していたことを憶えている。
──自分の家からにおいがする。自分の家のにおいは確か自身では分からなかった筈だ。母が用意する料理のものでもない。
何だ? この臭い? もっと身近で、嫌いなにおい──
「あれぇ? 帰ってきたんだ。もう、今日は予定が狂いっぱなしだよ。折角下調べまでしたのに、何でかお父さんもいるんだもん」
見慣れたリビングに佇んでいたのは見知らぬ一人の男。年齢は二十代くらいだろう。
目につくのは男の手に持つナイフ、付着した血で紅く染まっている。男の足元で無造作に転がされているのは何箇所も刺されたであろう父と母だった。
「なっ……! 何だよ、これ……なんだ、お前!」
「そんなに震えられたら傷付いちゃうなぁ」
精一杯の威嚇をするが、目の前の男は飄々とした雰囲気で怒気を躱す。
オレの怒声に驚いたのか理奈がこちらへ駆け寄ってくる足音が聞こえる。
「お兄ちゃーん、サプライズに怒っちゃダメだよ~」
「理奈、理奈! こっちに来るな! 家から出て警察に行って警官を呼んで来い! 走れ!」
「へっ?! あ、うん」
理奈がリビングに向かおうとしているのを制して警察へ向かわせる。走れば三分程度で交番に着くはずだ。もし時間が経ったとしても、そこで保護してもらえば問題ないだろう。
「妹思いのいい子だねぇ。心配しなくてもいいよ。僕はちゃんと自首するから」
「信じられるわけないだろうが……」
「そりゃあそうか。そりゃあそうだね。自分の親を殺した犯人の言葉をはい、そうですかって聞く方がどうかしてるよね」
その通りだ。ここでこいつを逃がせば理奈にも被害が及ぶかもしれない。大人と子供の脚力の差があるのだから逃がしたら追いつかれる可能性が十分にある。
「じゃあ妹ちゃんが呼びに行って警察が来るまで軽く話でもしようか。僕はね若木って名字なんだけどさ、小さい頃からあだ名が『ジャック』だったんだよ」
まるで友達と話すような感覚で目の前の男が語り出した。静かにゆったりとした口調で何事もなかったように──
「君は【ジャック・ザ・リッパー】って知ってる? 彼はねぇ、美しい。僕の理想ってやつかな。だから今までも彼に則って女性しか殺さなかったんだけどさ、今回は君のお父さんを殺してしまったでしょ。襲い掛かられたから正当防衛なんだろうけど、僕と彼の美徳に反するんだよねぇ」
は? 正当防衛? 何が? 人の親を襲っておいて、殺しておいて……おかしい、こいつはおかしい。こいつは狂ってる。
時間はどれほどたった?
若木の一人話を聞いていると重々しく家の扉が開く音がする。少しけだるそうな男性の声と理奈の声が同時に聞こえた。きっと理奈が警察の人を連れてきてくれたのだろう。
理奈には玄関口で止まるように指示して、警察官の方に上がってもらう。
警官は部屋の中を見て軽く悲鳴を上げていたが、その後応援を呼んだようで、街にはサイレンの音が鳴り響いた。
若木は何の抵抗もなく捕まっていった。窓からは警察車両の赤いランプが乾いた音を出しながらクルクルと回っている。オレは若木と両親の遺体を理奈に見せないようにすることしかできなかった。
◆
「瑛太くん、犯人に死刑判決が下されたって!長かったよね~、もう六年も経ったものね」
「……そうですか。教えていただきありがとうございます」
ジャーナリストの美月さんが朝早くに興奮した様子で家にやってきた。彼女は両親が殺されてからの付き合いで、今まで事件の経過を報告してくれている。
最初は鬱陶しく思っていたが、彼女はまだ十七と十だった俺たち兄妹に何かと世話を焼いてくれたので今では家族の様に思っている。お世話になっていたので敬語だけは抜けないが……
彼女によると、若木は両親の前にも何名も女性を殺害しており、その刑も加算されたようだ。だが、判決が下されて気持ちが軽くなることはなかった。
六年も経てば人は変わるものでオレは社会人、理奈は高校二年生になった。
あの事件以来、理奈はオレに頼ることがなくなっていった。兄妹仲が悪くなったわけではないが、あの娘の口数が少なくなったことにはかわりない。
多分オレに心配を掛けないように、と無理をしているのだろう。しかし妹とはいえ、あの年頃の女の子にとやかく言うのは気がひける。
理奈は美月さんを信頼しているので何かと頼りにしているようだ。オレも頼りにしています。
そんな美月さんに一礼し会社へと向かう。美月さんにはそのまま家でくつろいで行くように言っておいた。今日は土曜日なので理奈の話し相手にでもなってあげてほしい。
◆
「瑛太くん、死刑が執行されたらしいわよ。あの男がまだ牢に入ってたったの四ヶ月だったのにね! これは凄いことなの、類を見ない速さなの!」
「……そうなんですか」
外回りの最中に美月さんから電話がかかってきて、そんな報告を受けた。
死刑が執行された、つまり若木が死んだという事だ。この六年間ずっと望んでいたことだ。だというのに気分は晴れなかった。実感が湧かないのも理由の一つだろう。
あいつは死んだ。もうこの世にはいない。
そう思っていた。
またあの男が嫌らしく頬を歪ませながら現れるまでは──