ニブンノイチ
虹いろに輝く蝶達は消え、いつものムーン・ダストのように銀色の蝶が十数頭飛んでいるだけになる。
「とても綺麗な光の夜でした。最後に、あんな光景が見られて、本当に良かった」
ユキさんは、僕に背を向け、両手を左右に突き出して、そんなことを言う。
「最後? 最後ってどういう……」
「私、ここに来るのはもう今日で終わりにします。明日から、ちゃんと学校に行って、学生らしい生活に戻ります」
ユキさんは振り向き、決意に満ちた瞳を僕に見せる。
「私が初めてここに来たのは、とても小さい頃だったと記憶しています。父との唯一の思い出が、この場所です。その時はただ、月がとても美しく見える場所でしたが、家や学校から逃げるようにしてここに来た時、ここの蝶達が姿を現し、光の夜を見せてくれました」
ユキさんがおもむろに始めた思い出話に、僕は耳を傾ける。
少し潤んだ彼女の瞳を、銀色の鱗粉が照らす。
「思えば、ここの蝶達は私やレイさんの哀しみを拭いたくて、輝いていたのではないでしょうか。そして今夜、前を向いて生きると決めた私達を祝福して、様々な色に光り輝いた、と」
ユキさんはその頬を伝う感情の結晶を拭うことも、隠すこともせず、僕を見据えて言う。
きっと、僕の次の言葉を待っているのだろう。
「僕も、正しい生活に戻ります。それが、前向いて行くってことだと、思うから」
僕も心に宿った決意を外界へと吐き出す。ユキさんは満足したように大きく頷き、僕の手を取る。
「さて、今夜はここでお開きのようです。私がちゃんと、お家まで送ります」
そう言えば、僕はしっかり意識を保ったまま、ここから帰ったことはなかった。
恐らく本能的に、ここが幻想の場所で、現実では決して辿り着ける場所ではないと思いたかった結果だろう。
「レイさん、これ、渡すの忘れていました」
あの草原は、僕の家からそう離れていない場所にあった。
家から30分程歩いたところにある公園の、少し坂になった雑木林を歩いていると、草原に繋がるあの山道に出る、というふうになっていた。
僕の家の前まで送ってくれたユキさんが、1冊の本を両手で持って差し出す。
そういやそんな約束をしてた。ユキさんのオススメの本を読ませてもらうって。
「読み終えるのはいつになっても大丈夫ですよ。いつでも、学校で会えますから」
その言葉に、僕は強く頷く。
「ではまた明日。朝の7時半に、お迎えに上がります」
「えっ、それって……」
一緒に学校に行くってこと?
「寝坊したりしちゃダメですからねっ。それでは、お休みなさい」
ユキさんは僕の言いかけた疑問に答えず、踵を返して帰ってしまった。
僕も家に入ろうと、我が家の方に身体を向けると、玄関にはどこか哀しげな表情をした母さんが立っていた。
「……ただいま。お腹空いちゃった」
僕は努めていつも通りに、母さんに向かってそう言う。
僕の言葉を聞くと、母さんはハッとしたように目を見開いた後、いつものような朗らかな笑顔を僕に向けてくるわ
「おかえり。遅いからみんなもう食べちゃったわよ〜。温めておくから、手洗いうがい、ちゃんと済ませるのよ」
きっと、謝る必要はない。
だって、僕は「帰って来た」だけだから。
その代わり、居心地の良い我が家に入り、こう母さんに向けて言った。
「ありがとう、母さん」
母さんは、振り向かずに「ふふ、どういたしまして」と返してくれた。
翌日。
昨日色々あったお陰で、随分とぐっすり眠れた。
身支度を整えてリビングに入ると「いつも通り」の朝食の風景があった。
家族に軽く挨拶をして、朝食に手をつける。
半分ほど朝食をやっつけたところで、我が家のインターホンが鳴り響く。こんな朝から来客だろうか。随分と珍しい。
「礼くん。穂波さんよ」
「えっ!?」
僕は思わずご飯を口に含んだままそんな声を上げてしまう。あわやご飯粒が飛び出してしまいそうになるのを、必死で抑えた。
「幾ら何でも早過ぎるよ!!」
確かに昨日、ユキさんと一緒に登校する約束をほぼ一方的に交わされはしたが、まだ全然余裕のある時間帯だ。
「待たせちゃダメよ。早く出なさい」
そう言って僕の前に弁当箱を置く母さん。その表情はどこか楽しそうで、またどこか悪戯っぽい。
「え、お兄ちゃん、いつの間に、え? えぇ!!?」
妹が朝から騒ぎ立てる。まあ昨日まで引き篭もってた僕に、いきなり女の子からのお迎えが来たとなると、驚かずにはいられないだろう。
「何だよ、友達と学校に行くくらい普通だろ? 行ってきまーす!」
僕は鞄に弁当箱を入れ、背中に行ってらっしゃいの声を聞きながら、急いで家を出る。
その「普通」が、僕はとても愛おしく感じた。
「おはようございます」
「おはようございます、レイさん。随分と大慌てですね?」
「いや、ユキさんが早いんですよ。じゃ、行きましょうか」
ユキさんの「はいっ」という明るい返事を受け、僕達は二人、朝の陽射しを浴びて歩き始めた。
校門まで着くと、1人の男性が立っていた。
ユキさんの方を見ると、何も訊いていないのに「担任の先生ですよ」と言う回答を頂いた。すごい。
「おはようございます」
ユキさんの挨拶に続いて、僕もその先生に挨拶をする。すると先生は露骨に目を輝かせて、僕達に歩み寄って来た。
「おお! 2人とも来てくれたんだな!」
見た感じでは、まだ経験の浅い教師らしいが、僕達を歓迎してくれるその姿は、とても好印象だ。
「はい。今日から頑張って通います。ね、レイさん」
「は、はい。頑張ります」
ユキさんに話を振られて、慌てて答える。僕達の言葉に満足したのか、先生は満面の笑みでうんうんと頷き、僕達の肩を掴んで「これから一緒に頑張ろうな」と、少し震えた声で言ってくれた。
「じゃあ、教室に上がっててくれ。8時半から朝のホームルームだからな」
ユキさんは軽く会釈をして、僕を学校の中に入るよう促す。やはり僕も彼女に次いで会釈し、足を動かす。
「ユキさん、緊張しないんですね?」
僕は純粋に、そう思った。いくら先生が良い人だからって、久し振りに来た学校で物怖じしないなんで、すごい、
「そ、そう見えましたか……?」
よく見ると、ユキさんの目は泳ぎまくっていて、汗で前髪が頰に引っ付いていたりした。実は、相当緊張していたんだろう。
これ、実は僕より前途多難なんじゃないか……?
教室で2人でいると、突然ドアが開かれた。
「あーっ、いたいた! 冬木!」
僕を呼ぶ声は、とても人懐っこさがある、少し高めな男声だ。
「あ、アキラくん……?」
「そうそう! 覚えててくれたんだ。あの時、ゴメンな。その後も、全然助けたりできなくて……」
アキラくんは僕に向かって平謝りだ。
彼は僕の思い描いた通り、とても良い人だ。少しでも僕のことを気に病んでくれていたのが、申し訳ないけど、少し嬉しい。
「良いんだ。僕が勝手に思い込みしただけだから。アキラくんは謝らないでよ」
「そうか……? まあ冬木がそう言うならもう謝らないぜ」
アキラくんはニカっと笑った後、ふとユキさんの方に視線を向ける。
「穂波さんも久し振り〜。まさか2人が知り合い同士だったなんてな」
アキラくんを前に、穂波さんが遂にはち切れて、僕の背中に隠れ「うぅぅぅぅ……」と呻き声を上げ始めた。
「そんな緊張しなくても、アキラくんは良い人でしょう?」
「それはそうですけど、もう緊張し過ぎで死んじゃいますぅ……!」
ユキさんは今にも泣き出しそうなご様子。その姿を困惑しながらどうしようかと考えていると、突然大きな笑い声が発される。
「あは……ははは! 穂波さんも、冬木も面白いなぁ! ははははは!!」
僕達を見て笑うアキラくん。
僕も釣られてか、もうお手上げな状態で開き直ってか、笑い出してしまう。
そして、ユキさんも釣られて「うふふ」と笑い出す。
そんかユキさんを見てると、時間はかかりこそするけど、きっと何とかなるんじゃないか、って思える。
だって、こんなに眩しい笑顔ができるんだ。この笑顔を絶やさなければ、不幸なんてどこかへ行ってしまうだろう。
そしてできれば、その笑顔の傍には、僕が居られればな。
なんて、考えていた──。