胡蝶の夢
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私にしては、随分と思い切った行動だと思う。
昼間に外へ出るのも久しぶりで、太陽の光が痛く感じる。昨日は夕方だったから幾分かマシではあったけれど、真昼の太陽は凄く眩しい。
昨日、生徒がほとんど帰ったであろう時間に学校へと赴き、私のクラスの担任を務める先生に会った。そして「冬木礼」の自宅の住所を教えてもらった。
彼の状況を話すと、先生は何の疑いも持たずに住所を教えてくれた。とても真面目な人で、私のことだってよく考えてくださっている。
私の「目」にも、そう映った。
真昼の静かな住宅街に「冬木」と書かれたプレートを見つける。ここだ。
プレートの横に取り付けられたインターホンを押す。すると、程なくしてエプロンをかけた女性がドアから姿を現す。
「何のご用かしら?」
柔らかな雰囲気を醸した、とても綺麗な女性だった。
恐らくは、レイさんのお母様だろう、その人はやや細い目で私を見て、首を傾げている。
私は覚悟を決めて、口を開いた。
「私、冬木礼さんのクラスメートの、穂波優季と申します」
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あれから数日して、今度はアキラくんに「不登校の女生徒はいないか」と訊いたけど、アキラくんの返答はやはり「知らない」というものだった。
これは、少しおかしいと思った。情報通のアキラくんが、同級生の情報、しかも特別な境遇にある人の情報を聞き逃しているとは思えない。
でも、ユキさんは夢じゃないことは、この前のムーン・ダストの時に明らかにはなった。
──ふと教室の一角から窓の外を覗くと、先ほどまで晴れ渡っていた空は雲に包まれていた。
窓から視界を外し、ユキさんについての矛盾に、僕は思考を組み立てる。
ムーン・ダストの現象やあの草原は、やはり現実の世界のものではない。
ただ、僕の想像だけであんな世界が構築されるとは思えない。根本的に、あの場所に立つまで「銀色に光る蝶が踊る草原」なんて見たことはおろか、想像したことすらない。
あの草原は、きっとユキさんのものだ。
ユキさんの夢か、想像か、心象風景かは分からない。とかくあそこはユキさんの場所で、僕が夢を見る内に迷い込んだか、ユキさんが想像の世界に浮遊する僕を連れ込んだのだろう。
そして、ユキさんは僕にとって身近な同級生という設定を被り、親交を深めようとした。
その理由は? 恐らくあの目のせいでまともに会話などをする人がおらず、寂しかったのだろう。そして同じように常人ならざる力──僕の場合は想像力だ──を持つ僕を見つけ、あの場所へ誘ったんだ。
結論は、出た。
今夜、またあの場所に辿り着いたら、ユキさんに言おう。
僕の推理と、ユキさんはもう、僕の友人だってこと。もう寂しくないってことを。
何か「外」から物音がした気がして、また窓の外を見ると、そこには銀色の蝶が、ほんの一瞬だけ見えた。
夜。最早いつも通りと言った感じで山道に立っていた僕は、しかしいつもより強い足取りであの草原へと向かっていた。
今夜は三日月。おかげでかなり暗く、ハッキリと前が見えない。
草原に出ると、平らな岩にはセーラー服を身に纏った美少女が座していた。
顔にかかるほどの長い黒髪が特徴的で、赤いカチューシャが印象的だ。
長い睫毛を抱いた黒い瞳は少し垂れ気味で、優しげな印象と共に物憂げな印象もあり、とても儚そうだ。
膝丈程度のスカートの下には黒いタイツ。履いている靴は黒い革製と、いかにも学生然としている。
膝の上には一冊の本を置き、その上に真白で、触るとスベスベしているんだろう、しなやかな手が置かれている。
背景の草原も相まって、ユキさんを中心とした今の僕が見ている風景は、絵画になっていてもおかしくない美しさだ。
「こんばんは。レイさんレイさん。昨日言ってたご本、持ってきましたよ。お貸ししますから、お読み──レイさん?」
僕とユキさんは、よく本の話をする。僕もそれなりに読書家のつもりだったが、ユキさんの読書量にはとても敵わなかった。
そしてユキさんが僕にオススメの本を持って来てくれる、という約束を昨日していた。のだが、それはもう、僕の頭の中にはなかった。
ユキさんもそれを察したのか、嬉々として突き出していた本を、また膝の上に置き直す。
「ユキさん。僕にはあなたや、ここについておかしいと思ったところがあった。だから僕の考えを、聞いてもらえますか」
僕の真剣な言葉は届いたらしく、ユキさんは少し悲しげな表情を見せて、ゆっくりと頷いた。
僕は語った。クラスにユキさんを知る者がいなかったこと、故に僕が到達した結論のことを。
「今はもう、僕はユキさんを掛け替えのない友人だと思っています。だから……本当のことを言ってください」
僕がそう言い終えると、ユキさんは俯く。顔が隠れきってしまい、表情が読めない。
「レイさんが言ったことは、残念ながらほとんどがハズレです。私が持っている人と違うものは、この目だけです。夢の世界にあなたを連れ込む力なんて、ありません」
ユキさんはぽつぽつと語る。未だ俯いたままで、やはりどんな顔をしているかは分からない。
「ではあなたの望み通り、本当のことを言いましょう」
そう言うと、ユキさんは顔を上げて、何か決意したような目を僕に向ける。
その少女の口から、思いもしなかった真実が降り注がれる。
「あなたが送っている学生生活こそが、あなたの想像の世界なのです」