夏と汽車と蜜柑と夏。
かたたん、かたたん、と汽車は海沿いの線路を走っていた。
いや、正確に言えばこの窓の向こうに見える水平線は海じゃない。
本当は「河」なんだ。
全然向こう岸が見えないからここに居る人達は「海」って呼んでるけどね。
そういうことが大事な場所なんだ。
「それが本当は何であるか」
よりも。
「それが自分にとってどう見えるか」
そっちのほうが大事なのさ。
「正確」
よりも。
「性格」
が、重視される。
……面白いでしょ?
君の居る場所とはちょっと違うかもしれない。
かなりいい加減な場所なんだ。
ああ、でも。
「見えている世界が全て」
これだけ見れば、そんなに変わらないかもしれないね。
河の向こう岸は見えないけれど、波に踊る光の群れが賑やかだ。
僕の目の前の座席には、窓から差し込む日差ししか座っていない。
他の座席も似たようなものだ。
これ幸いに、と汽車の窓を開ければ、夏の匂いが入ってきた。
……これは、日本の夏の匂いだね。
それも夏休みの匂いだ。
海辺のおばあちゃんの家にでも行ったのかな、そんな感じの空気だ。
きっと誰かがこの「河」を見て思い出したのだろう。
良い記憶をお持ちのようだ。
通路を挟んで反対側の窓には青々と茂った森が見える。
山肌じゃないのが少し惜しいところだ。
日本の海沿いと言ったらやっぱり瀬戸内海の山と海が近い、あの感じだと思うんだけど。
それは、こないだやったゲームの影響かもしれない。
と、その時。
ころん、と足元に何かが転がってきた。
それは手にとって見れば、何とも鮮やかな蜜柑だった。
「ああ、ごめんなさいね」
と、僕から見て2つ前の席からひょこっと一人の女の子の顔が出てきた。
歳は十四、五歳程。黒くて長い髪を一つの太いお下げにしていて、そばかすがちょっとある可愛らしい女の子だ。
ただ、その声だけは嗄れた老人のそれだった。
「お嬢さん。美味しそうな蜜柑ですねえ」
とりあえず呼び方に困ったので、無難な感じでね、日本語って便利だねえ。
「あらやだ、お嬢さんだなんて」
「いやいや、ここでは見た物が全てですから。その歳の頃が、一番『貴女』だったんでしょう?」
「そうねえ……。やっぱりそうなるのかしら。良かったらこっちに居らっしゃいな。蜜柑が沢山ありますから」
そんな事言われたら、ご一緒するのはやぶさかではない。
何より僕は食べることが好きなのだ。
僕は足元の蜜柑を手に取り、お嬢さんの座席まで揺れる車内を歩いて行った。
お嬢さんはさっきの僕と同じように先頭に向かって座っていたので、その反対側の座席によいしょと、腰を落ち着ける。
後ろ向きに進むことはあんまり好きではないけれど、まあ、隣に座るのもねえ。
「ほらほら、蜜柑も伊予柑もありますよ」
お嬢さんはちょっとだけお洒落な白いワンピースを着ていて、横の大きく膨らんだ風呂敷から次々と橙色の美味しそうな果実を取り出した。
「わあ、これは豪勢だなあ」
「実家の方が、柑橘が盛んな土地柄でねえ」
「あ、ひょっとして、瀬戸内海の方ですか?」
「あら、やっぱりわかります?」
「いやあ、親戚の家がそっちの方にありましてねえ~」
まあ、ゲームの中だけど。
「あらあ、そうですか。良いところでしょう? 沢山の緑が海に浮かんでいて」
お嬢さんがそう言って窓の向こうに目をやれば。
案の定、河には大小様々な島が浮かんでいた。
「ああ、ちょうどあの島ですよ。私が生まれた島は。あの蜜柑畑。ここからでも良くわかる」
目を細めて懐かしそうに笑う。
すると、その島の周り以外の島々は蜃気楼のように消えてしまった。
「……その島には、まだご家族はいらっしゃるんですか?」
蜜柑の皮を剥きながらそう尋ねると。
「ええ、息子と孫が三人。つい最近帰ってきたんですよ」
と、嬉しそうにお嬢さんが笑う。
「ほら……あの一番大きな蜜柑の木の下に」
そう言って指差す先を見ても、もう僕にはその島は仄かに輪郭しか捉えられなかった。
しかし、なるほど。
これで合点がいった。
皮の向いた蜜柑を一口で頬張ると、僕は一気に窓を開けた。
「ほうほっ……ゴホ。すいません。どうぞ、僕にお気を使わずに。その為に、声はそのままにしていたんでしょう? 今日は他に乗客は居ませんから。それにもうすぐトンネルに入ってしまいます。ほら、早く!」
最初は驚いたお嬢さんもすぐに歳相応(見た目準拠ね)の笑みを顔いっぱいに浮かべてすぐに窓から身を乗り出した。
そして、その小さな胸にいっぱいの夏の空気を吸って。
大きなおさげを風に靡かせながら。
「ありがとう! ありがとう! 蜜柑、美味しかったよ! 身体に気をつけて!」
と、叫んだ。
ここのトンネルは少し長い。
鎌倉の江ノ電のトンネル位の長さだったら良かったのに。
……さて。
「お嬢さん。本当にあれだけで良かったんですか? もうちょっと時間はありましたけど」
「ええ。ええ。あれだけで、充分です。本当はこの汽車に乗る前に沢山話していたんです。わざわざ私の介護をするために東京から家族を連れて帰ってきてくれてたんですよ」
「左様でございましたか。これは余計な気遣いでしたね」
「いえいえ。お陰様で蜜柑のお礼を言えましたから。私、実がなるまで、持たなくてねえ。孫達が初めて収穫した蜜柑だったんで、どうしても褒めてあげたかったんですよ。ありがとう」
「なるほど……。確かに美味い蜜柑でした。よほど収穫の腕が良かったと見える」
「あら、褒めたってもう何も出ませんよ」
そう言って、おほほと笑う。
うーむ。その顔を見て思う。
見た目とのギャップがちょっとだけあるなあ。
「さて、ところでお嬢さん。こちらに用意しますは魔法のサイダーでございます」
そう恭しく言うと、鞄の中から一本のラムネ瓶を取り出した。
まあ、なんだって良かったんだけどさ。
なんてったって、ここはそういう場所なのだ。
自分にとって、それが何であるか、が大事なのだ。
「これを蜜柑のお礼にあげましょう。それに大きな声で叫んだから喉が乾いてるでしょう?」
「まあ、これはご丁寧にどうも」
そう言って、その青くて綺麗な液体を一気に飲み干す。
いい飲みっぷりだ。
「ふう。美味しかった。……あら」
「豪勢ですねえ。惚れ惚れしました」
「あの、私の声……?」
「見たところ、おめかしをして、駅に待ち人が居るのでしょう? もう家族に遠慮することもないんです。どうせだったら思いっきりお洒落しちゃいましょう」
歳相応の声に戻ったお嬢さんに今度はつばの広い、控えめな花飾りをあしらった白い帽子を手渡した。
「まあ、素敵……。ありがとう。正直、ちょっとだけ不安だったの。あの人は今の私の声を知らないから」
うむ。
そう言って少し恥ずかしそうに笑う帽子の下のお嬢さんは、とってもキュートだ。
「恋人ですか?」
「いえ、夫です。と言っても、ちゃんと結婚してはいないんですけどね。結婚する前に戦争に行ってしまったから」
「あら。そうなると今の旦那さんとは別の?」
「いえ」
と、帽子の下の笑顔が急に大人びる。
「戦争に行く前にね。押し倒しちゃったんです。私があの人を。もう十五でしたもの。せめてあの人の子供を、てね」
わーおー。
「肉食系ですね……。いやはや逞しい。それじゃ、さっきのは……」
「ええ。あの人との子供ですわ。片親でしたけど、立派に育ってくれました」
トンネルを過ぎると少し空気が変わる。
僕の住んでいる街の空気だ。
海岸線沿いの線路を走る汽車は、やがて古びた一つの駅にたどり着く。
少し悲しい響きの汽笛をあげて、ゆっくりと汽車はホームに滑り込み、止まった。
案の定、そこには一人の学生服の少年が待っていた。
「夏菜子!」
扉が開くなり、お嬢さんはホームに飛び出し少年に抱きついた。
少年は威勢よく名前を呼んだくせに、目を白黒させている。
しかし、すぐにぎこちなくではあったけど、ゆっくりとお嬢さんを抱きしめた。
何とも声をかけ難い。
しかし、僕だって仕事をしなければならない。
仕事と僕が思っている事をしなければならない。
「あの……。お取り込み中、申し訳ないんですが。どうします? このままお二人共この街に居ますか? なんだったら新婚生活にピッタリのお部屋もご紹介しますけど」
確か大通り裏の平屋が一つ空いていたはずだなあ……なんて算段を付けていたのだけれど、どうやらそれは無駄なことのようだった。
「いえ、大丈夫です。二人で汽車に乗ります」
答えたのは凛とした少年の声だった。
「いいんですか? 別に急ぐ必要も無いんですよ。せっかく会えたのに」
「会えただけで、充分です。それに……」
「それに?」
「……子供は、もう居ますから」
あらららら。
お嬢さんの顔が真っ赤になっている。
少年の顔はまるで沸騰したヤカンのようだ。
しばらくそんな二人の顔を堪能した後、僕は鞄から切符を二枚、取り出した。
「左様でございますか。それならこれをお渡ししましょう」
そしてそれを少年に渡した。
ちょっと悩んだけれど、あれだけお嬢さんが張り切っていたので。
その時に、こう耳打ちした。
「……今日は、あなた方二人だけです。そして汽車が目的地に到着するのは、あなた方の心次第。ここに時間は無いのです。二人が着きたいと思うまで汽車は到着しません。因みに寝台だって思うがままです。僕の言ってる意味わかりますよね?」
また顔を真っ赤にしている少年の手を「ほら、行こう!」と言ってお嬢さんが引っ張って行く。
ああ、なるほど。
そんな感じであの最後の夏休み、君は喰われちゃったんだねえ。
汽車が汽笛を鳴らす。
今度は出発の合図だ。
ホームが蒸気に包まれ始める。
「本当にありがとう。お陰で、あの夏の私で、一番の私で夫に会うことが出来ました」
窓からお嬢さんと少年が顔を出してホームの僕を見下ろしていた。
「いえいえ。美味しい蜜柑を頂きましたし。……あ、そうだ」
一番最初に足元に転がってきた蜜柑を懐からだす。
少年の知らない、少年の家族の味だ。
流石にこれは食べられなかった。
お嬢さんが一人で実らせた果実だ。
これは、少年が食べるべきだろう。
「これを」
「蜜柑ですか?」
「ええ、君の奥さんが育てた蜜柑ですよ」
「夏菜子が……」
そう言って隣のお嬢さんの顔を覗き込む。
「随分と立派に実りましたよ」
「……そうですか。ありがとう御座います。道中二人で頂きます」
「ええ。ええ。そうすると良いでしょう。きっと極上の味がしますよ」
そこでまた汽笛がなった。
そして汽車がゆっくりと動き出す。
「ありがとう! ありがとう!」
お嬢さんがあの白い帽子を大きく振っている。
「貴方も蜜柑を実らせてね! さようなら! またあう日まで!」
「道中、お気をつけて! またあう日まで! 少年、男を見せろよ!」
そして最後にまたもう一度汽笛を鳴らすと、二人を乗せた汽車は煙を吐きながら遠くへと消えていった。
後に残ったのは古びた駅と、目の前に続く「海」と呼ばれる「河」。
そして、二人を見送った僕だけだ。
あの汽車はこの河の向こうからやって来て、そしてまた向こうへと渡る。
まあ、そういうことなんだ。
それだけは、思うとおりにいかない。
ただ、乗るタイミングだけは自分で決められる。
あの二人もここでグダグダしていったら、良かったのに。
……まあ、詮無きことか。
「さーってと、とりあえず帰りますか。あ、食堂でご飯食べてこ」
大きく伸びをして駅のホームを後にする。
なんとなく、改札越しに振り返る。
水平線の向こうに、蜜柑畑のある島と、銀色の機影が飛ぶ夏が見えた。