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孤高の天才  作者: 深水晶
第一部 嵐の予兆
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第五話 養父

 人間不信になりそうだ。それとも単に日頃の行いが悪かったのだろうか。この年齢──三十一歳──にもなって、他人の目や中傷が恐いと言って、出社拒否するのはおとなげないだろうか。

「諦めろよ」

 ラダーは言った。

「あんたの気持ちは判らないではないし、元の原因が俺の不用意な発言だってのは責任感じるし、あんたが俺に腹を立てて口も利きたくないとか思うのも当然だと思うけど、責任ある役職に付いてるあんたが、おかしな噂流されてるから、仕事に行きたくないってのは、かなり激しくマズイだろ? そんなの世間知らずで学校出たての新入社員の俺にだって、判るぜ? いい加減諦めて腹をくくれよ。どうせ寮にいたって、状況は変わらねぇだろ?」

「……十三回」

「はぁ?」

「昨夜、寮内を歩いていて、飛び退かれた回数だ」

「…………」

「……安易に『判る』なんて言葉を使うな。別に今更、お前が言ったいくつかの暴言なんか気にしてないし、どうだって良くなってるし、お前に謝られたいとも、慰められたいとも、思わない。私のことは放って置いてくれ」

「……重症だな」

 ラダーは呆れたような口調で言った。

「あのさ、あんた、酒飲むのが好きなの?」

 私は無視して布団の中に潜り込んだ。

「俺はさ、アルコールは脳細胞を破壊させ、人間を堕落させる諸悪の根源の一つだとか教育されて、一切アルコールを摂取したことがないんだよ。アルコールだけじゃない。煙草とか珈琲とか紅茶とかいった嗜好品全て含めてさ」

 その言葉にぎょっとして、思わず飛び起きた。ラダーはほとんど無表情といっていい真顔で続ける。

「だから、アカデミーへ進学して、養父から離れて初めて一人暮らし始めて、すげぇビビったよ。それまで俺が常識だと思ってたことと、他のやつらの言う常識は、天と地以上にかけ離れてたからな。最初は本当に怖くて生きた心地がしなかった。あれだぜ、気分は狼の群れの中に放り込まれた羊ってやつだ。羊よりもわけが悪かったぜ。俺はただでさえ、最年少入学だのなんだのって鳴り物入りで、そんなのどうってことでもねぇのに天才少年とか言って騒がれてた。俺は何も知らない子供で、それまでありとあらゆる外部の情報を遮断した、養父以外の人間とは一切接触することのない、無人島のような環境で暮らしていたわけ。養父以外の人間を見たのも、養父以外の人間と言葉を交したのも、それが初めてだったんだ」

「……ちょっと待ってくれ、ラダー。それじゃまるで……」

「俺はびっくりしてさ。それでもその勝手のの判らない恐怖に満ち溢れた世界で、友人と呼べる関係を築いたんだ」

「……そうか」

「年齢は相手の方が上だったけど、そういうこととか一切関係なく、自分の考えたこととか何でも話せる関係を築けたんだよ。それって俺にとっては初めてで感動的で、すごくドキドキして興奮したことでさ、初めて友人と遊ぶ楽しみとかも知って、すげぇはしゃいでたんだよ。でさ、俺は世間知らずで考えなしだったから、つい話したんだよ、それまでの本当のことを。つい、ぽろっと。後先考えずに、相手がそれをどう思うか考えずに」

 その先はおおよそ想像がついた。

「……ラダー」

「大騒ぎになった。でも、俺は何故そういうことになったか判らなかった。たぶん今でも本当には判ってないんだと思う。養父は児童虐待の罪で逮捕された。俺は養父が好きだった。尊敬してる。今でもだ。でも、それは間違ってるって言われたんだ。誤った認識だって。俺は世間知らずで、常識を知らなくて、特殊な環境でひどくねじ曲がった教育で、知識は勿論、人格も歪められて育てられたから、おかしなことを考えるし、正しいことが判らないんだって。……でもさ、子供にとって、血の繋がりがあろうがなかろうが、親ってのは大切で、一つの世界みたいな存在なんだ。それなのに急に全てを否定されて、お前は間違っているのだから目を覚ませ、正しい道を選び直せとかって言われたって無理なんだよ。少なくとも俺には無理だった。だから、俺は結局その時得たと思った友人全員と決別した。頭がおかしいとか異常者だとか、果てには犯罪予備軍だとか、テロリスト志望だとか邪教集団の教祖だとか、どこから考えつくのかおかしなことをたくさん言われたよ。でも、俺は養父を否定されるような事だけは絶対嫌だったからさ……それに、アカデミーを首席で卒業して、立派な社会人となって、社会のために尽くすことってのは、養父にさんざん口をすっぱくして言われたから……俺にはそんなのどうだって良いことで、養父さえ喜んでくれれば、何だって良いんだ。なれと言うなら、テロリストにも、宗教家にも、犯罪者にもなんだってなれた。でも、養父はそんなことを望んだりしないから……会わなくても判る。あの人は本当に清廉潔癖で曲がったことが大嫌いなんだ。ただ、ちょっとばかり行きすぎてて、思い込み激しくて、頑固で融通きかなくて、それに何より不器用で要領悪いだけなんだ」

 それは人間として困った性癖・性格で、なんであろうと行きすぎてしまえば犯罪で、そのために法というものがあるのだが、この際それを口にしても、誰も何も救われない。見かけ通り、物騒で暴力的で短気な男だと思っていたけれど、十分過ぎるくらいしっかりと、相手の地雷を踏んでいたわけだ。ラダーが私に対して腹を立てたのも、嫌悪や憎悪を感じたのも仕方ないかもしれないと思う。ラダーが私の気持ちが完全に理解できないように、私も彼の気持ちを完全に理解することはできない。けれど、偽善でも虚偽でも、でまかせでもなく、なんとなく理解できる気がした。逆立ちしたって、ラダーが養父を慕い愛する気持ちなど判らないが、それに似た感情なら知っている。

「ラダー」

 私は布団から出て、立ち上がる。

「私は孤児なんだ。しかし、私は母の弟だという人に育てられた」

 そう言うと、ラダーは軽く目をみはった。

「その妻である私の叔母に当たる人は、私が物心つく前になくなった。当時の叔父である私の義父は、今の私より十歳も若かった。そのため、周りから私を養子に出して再婚するよう、さんざん勧められたらしい」

「あんた……室長って年齢いくつだ?」

「三十一歳だ」

 私が答えると、ラダーは眉間に微かな皺を寄せた。

「今の俺と三歳違いか」

「そうなるな」

 と私は答えた。

「今から二十九年前の話だ。だから、当然私は当時のことなど何も知らない。私の義父はそういった事を子供に話す人ではなかったから、私は他人に指摘されるまで、父が養父であることも、母だと思っていた人と血縁関係が全くなかった事も知らなかった。私はバカな子供だったから、それを告げた他人の言葉をそのまま受け取って、父に何故自分を捨てて幸せになろうとしなかったんだと言ってしまった。父は泣いた。後にも先にも、父が泣いたのを見たのはそれ一度きりだ。さすがにバカな子供にも言ってはいけない事を言ってしまったのだと判った。過去に戻れるならば、今でも取り消したいと思う。でも、私にとっては忘れたくない大切な思い出でもあるんだ。少なくとも泣かれるくらいに愛されてるんだといったね。私はバカだから、そんなことでもなければ父の愛情を信じることができなかった。でも、とても後悔したから、それ以降、父は勿論、その他の全ての人を誰一人として泣かせたくないと思ったんだ」

「それは無理だろ?」

 ラダーは呆れたように言った。

「勿論無理だ。でも誰かが泣くと、どうしても父の泣き顔を思い出す。嬉しかったけれど、そう感じることすら罪の意識を感じるから、どうしても見たくないんだ。父は愚かな私を許してくれたが、普段泣かない人が泣くというのは、特に子供にとっては衝撃的で。まさか大人が子供のたった一言で泣くなんて事が現実にあるなんて思っても見なかったからね。取り返しのつかない過去ほど忘れられない。私が泣かせたくないのは父であって、ろくに知りもしない他人じゃない。だから、私がやっていることは、偽善ですらない虚偽だ。誰のためでもない。自分のためだ。他人に親身になれるほど親切な人間には、なりたくてもなれないし、したがってこんな自分が誰にも愛されなくても、信頼されなくても仕方ないと思う。だから、別にこんなことでめげてなんかいない。ただ、自分にちょっと失望して逃避したいと思ってるだけだ。誰のことも恨んでないし、自業自得だ。でも暫く一人で考えたいから放置して欲しい。いないものだと思って無視してくれないか?」

「バカだろ、あんた」

「……なっ!?」

「でなきゃマゾだ。俺にはあんたの気持ちなんかちっとも判らねぇし、判りたくもねぇよ。あまりにネクラ過ぎて、背中から蹴り飛ばしてやりたくなる。でもまぁ、そういう事しても、あんたには何故俺がそうするか理解できねぇんだろうし、体力筋力精神力の無駄使い、時間と労力の無駄ってことなら、蹴り飛ばすよりはマシな選択をせざるを得ないからな」

「……どういう意味だ?」

「とりあえず、あんたの好きな酒を飲ませろ。結局まだ、一度も口にしたことがないんだ。菓子や料理の中に入ってるやつも含めて」

「……は?」

 意味が理解できず、ぽかんとした。

「ま、興味があるんだよ。色々な意味で」

 ラダーは唇に薄く笑みを浮かべた。その顔はやはり、美青年とか好青年とかいう言葉は似合わなかった。

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