第五十六話 窮地
私が最初にロバート・ルグランという男のことを知ったのはいつだっただろう。たぶん最初にその名を聞いたのは、入社後まもなく、同じ研究室の先輩からだ。他の研究チームに、私と同期でルグランという優秀・有能な男がいるらしいが、どういう人物か知っているか、と。私は基本的に、そういったことには非常に疎かったが、私と同期入社の同僚が彼のことを知っていた。「仕事ができるかどうかは知りませんが、プライドが高くエリート志向の強い、他人とつるもうとはしない、人付き合いの悪い男ですよ」と。「あいつに較べたら、エリックの方が親しみやすく、取っ付きやすいくらいです」と彼は続け、それを聞いた先輩は、「じゃあ、彼はうちには向かないな」と言った。私はぼんやりしながら、それらを聞いた。
それ以降、彼の名は何度も聞くようになった。七年前に彼が発案・考案した簡易作業用ロボットのプランは、最初はその内容は同じ社内にも伏せられていたが、それらが徐々に明確になり、実現可能なもので、有用かつ優れていることが判明してくると、一気に爆発的に噂は広まった。彼は大抜擢され、新しいプロジェクトチームを立ち上げる権限を得て、人材・物資などを集め指揮し、そのプランを開発、六年前に実用化した。そしてその商品が記録的な売れ行きを上げると、表彰された。
彼はほとんど一人でその最初の業績を成功させた。そんなことはアストでは、これまで一度も無かった。ルグランは天才、優秀、鬼才と褒め称えられた。結果や業績を上げれば、彼の傲慢と捉えられそうな態度も、気概と評価される。彼をあまり快く思っていなかった者もあっさり態度を翻した。私もすごいと思い、素直に彼を尊敬した。
だが、私にとって彼は赤の他人で、自分には全く関係のない男だった。彼は確かにすごい男だが、彼の目指すものは、私の目指すものとは異なる。
彼はロボットを道具として扱った。道具としていかに効率の良いものを作るかということに腐心した。彼は胴体以外のパーツを全てバラバラに外し、自由に付け替え可能にした。外観のフォルムや頭部なども含め、最初は一種類しかなかったが、今では二十八種類もある。現行ロボットに対応したアプリケーションソフトは他社のものを含めると、五十種を超えている。生産台数が増えれば、ますます増えるだろう。
彼の開発したロボットはあくまで作業用であり、そのために特化していたが、彼はカスタマイズ性にもこだわった。そういうデザインは部下にほとんど任せていたようだが、彼はより便利に、人間の都合に沿うように、道具化することに努めた。
ルグランは人型ロボットを一体何に利用するつもりなのだろう。彼の目的とするものと、ラダーはまるで違うものだ。彼はロボットに人間のような精巧さ、リアルさ、人格のようなものや、心の機微などのようなものを求めてはいない。彼はあくまでロボットを便利な道具として見ている。彼の研究や開発に、ラダーは全く参考にならない。彼は、人間に文句を言って従わず、自己主張をするロボットを作ろうなどとは、絶対に思わない。
ひどく精巧で人間的なロボットを、便利な道具として使う用途――そんなものは、想像したくも無かった。判っているのは、それはろくでもない用途で、人間をたばかるためでなければ、道具として人間の代わりに用いる――いずれにせよ、汚らわしくおぞましい目的だ。ルグランにせよ、その他の誰にせよ、自分と同じ人間が、良心の苛責も罪悪感もなくそういう事を考えるなどという事は想像もしたくなかった。
私はルグランが嫌いだったが、まだ軽蔑はしていなかった。理解できない――また理解したくない――が、彼がカーティスやジョーゼフ・ラダーの死に、直接・間接的に関わっているとしても、最初の彼のプランや業績は、彼自身のオリジナルだと思いたかった。それすらも盗んだものであるはずが無い。もし、そうだとしたら、彼は卑怯で恥を知らない、ただの犯罪者でコソ泥だ。
彼の笑顔はどこか薄っぺらいと、私は感じていた。それはおそらく作り笑いで、取り繕った笑みだからだ。人間は偽り、嘘をつく生き物だ。必ずしもそれは悪い意味ではない。世の中には嘘をつくべき状況と、つくべきではない状況がある。真っ正直に生きるのは大変困難だが、四六時中嘘をつき続けるのも大変だ。
ルグランは迷いない足取りで、改札を抜けると、駅を東に出る。そちらは高級住宅地ではなく、海辺の高級ホテルやリゾート施設が立ち並ぶ区域だった。彼は途中でハイヤーを拾う。一瞬迷ったが、私もすぐにハイヤーを拾い、後を追うよう、チップを握らせて頼んだ。彼が向かったのは、プライベートビーチや別荘などが集中する区域だった。人や車通りは少ない。だんだんと寂れていく風景に、私は少しだけ後悔した。一人で先走るな、とジェレミーに釘を刺された事も思い出した。やはり、これは先走りなのだろうか。急に不安になった。しかしルグランは一体何処まで行くつもりだろう。そう考えていると、ルグランはふと何もない道筋で車を停止させ、降りた。私はその先にある誰かの別荘らしき建物の近くで降ろしてくれと頼んだ。なるべく陰になるような場所で。そうしてハイヤーを返し、返した後で、帰りはどうしようかと考えた。連絡して誰かに来て貰うにしろ、連絡の取り方が判らない。シーズンオフの別荘地は閑散としていて人気がない。これは私も一緒に帰るべきだったろうかと思った時、背後から声をかけられた。
「こんなところで、何のご用ですかな」
ぎくりとして振り返ると、そこには見知らぬ壮年の男が、車椅子に乗り、ボディガードらしき数人の黒服の男たちと共に、こちらを注視していた。
「すみません。少し考え事をしていたもので。すぐに立ち去りますから……」
「何故、お前がここにいる!? ジーンハイム!!」
背後から、今度は聞き慣れた怒声が響いた。しまった、と思った。背後を振り返る前に、誰かに腕を掴まれた。
壮年の男はゆったりと笑って言った。
「とりあえず私の別荘でお話を聞かせていただきましょう」
今更ながら、誰かにこの事を伝えるべきだったとか、真っ直ぐ寄り道などせずに、ライオネルの家に向かうべきだったなどと考える。本当に今更だが――これはまずい、と脳裏で危険信号が瞬いている。そんなことは良く判っている。男は穏やかに笑っているが、この場にいる他の全員が剣呑な空気を発している。私でなくとも、実に判りやすい状況だった。背中に銃らしきものを押し当てられた、その時だった。轟音のようなエンジン音が鳴り響き、一台のバイクが突っ込んで来る。慌てて私の背後にいた男たちが避ける中を突っ込んで来て、最後まで私の腕を離さなかった男の逆の腕をバイクに跨り走行している状態のまま、グイと引いた。男は慌てて私の腕を離し取り落としかけた銃を支え、バイクの男を――ヘルメットを被ったままで、顔は判らないが、大柄で体格の良い男だった――ポイントした。が、バイクの男は、あっさり相手の手を蹴り上げ、銃は空高く舞い上がった。途端に銃声が鳴り響く。が、バイクの男は無造作にひょいひょいと避けながら、次々と銃を構えた男たちを拳や蹴りで、ほぼ一撃で戦闘不能にしていく。その様子を呆然と見つめていると、バイクの男が苛立ったように叫んだ。
「バカ!! さっさと逃げろ!! ボケっと棒立ちで突っ立っている場合かよ!!」
と言いながら、こちらをポイントしていた男を殴り倒す。
「……ラダー……」
夢でも見ているような気分だった。