第五十五話 シェイルガルム
ライオネルが住んでいるのは、アルストンから二駅離れたシェイルガルムという高級住宅が立ち並ぶ街だった。元は彼の父であるゲイリー・ラダーの持ち物であったそうだが、四年前に彼に譲られたとのことだ。結構な暮らしぶりだと思うが、ライオネルはけろりとしている。自分の環境が恵まれているという自覚はないようであり、それを感謝する風も、ひけらかすような風も一切ない。普通の、当たり前のことだと思っているようだ。たぶん比較対象を知らないか、気付いていないのだろうなと苦笑する。
自分はどうだっただろうと思い返す。義父は、私を愛しんでくれたが、金銭面では決して甘やかさなかった。彼は労働の大切さや、他人のそれの成果やその恩恵に対して、感謝することを忘れぬようにと、私に教えた。人は決して一人では生きられない、一人で生きていると思ったら大間違いだと。義父は私が幼い頃から、私を一人の人間として扱った。強制的に何かをしろと押し付けられたことは一度も無い。命令されたこともだ。それをするのは、いつでも義父以外の他の人間だった。どうやら義父以外の大人は、子供のことをまっとうな人間だとは見なしていないらしいと気付いたのは、何歳の頃だっただろうか。私はいつでも真面目で真剣なのに、その年齢のために本気にはされないのだということに気付いたのは、第四学年の半ば頃、担任であった女性教師に、愛の告白をした時だったような気がする。言葉は無力だと知った。彼女は私が本気でそれを言っているとは取らなかった。それを認めていたとしても、ひどく軽く受け止めた。子供であるということは、一種の罪悪であるのかもしれないと思った。大人は子供を軽んじる。ただ、自分が相手より先に生まれたというだけで。大人と子供に一体何の違いがあるのだろうと考えた。……全て子供の頃のことだ。自分が大人と呼ばれる年齢になってからは、それらのことを思い出したこともない。
子供扱いされたくないと、ラダーは言った。それはつまり、彼が若いために――本当は『崩壊』前文明の遺産である彼は、現在生きている人間の誰よりも年上なのだが――子供扱いされた経験が、少なからずあるということだ。それはつまり自分の意思を、あるいは尊厳を、損ねられた、無視されたといった不快な経験だ。不快でなくば、それに腹を立てる必要はない。
ライオネルはどうだったのだろう。彼は非常におおらかな、何に対しても、傷付いたり怒りや憎悪を覚えたりしない人物に見える。が、そんな人間は存在しない。私にはまだライオネルという人物が見えて来ない。彼が何故そんなにも兄弟を、私という見ず知らずの他人のような男を必要とするのか理解できない。自分がそれを必要としないからだ。私は過去も現在も、義父以外の家族や身内を必要としなかった。そんなものがなくとも、生きていくのに関係なかった。友人にも、部下にも恵まれ、仕事を愛している。私は満足し、充足していた。誰かを何かを、欲しいと思ったことはない。何かが必要だと思ったことはなかった。
私は静かで平穏な日常を愛していた。ラダーが来るまでは、そうだった。彼が来てからずっと、私は驚かされ通しだ。彼はエキサイティングで興味深い存在だ。それに非常に、出来すぎなくらい良く出来ている。しかし、私は彼を手に入れたいとは思わなかった。彼の構造には興味がある。彼の設計図や取扱説明書があるなら見たいと思う。そういう好奇心はあるが、同時に彼本人を目にすれば、そんな気持ちは四散する。心の奥底にはあるのだ。だが、それらを知ることで、まるで生きている人間のような彼の鮮やかさが、その彩りが色褪せてしまうことの方が恐い。最初から彼の正体を知って接していれば、罪悪感や恐れを感じることなく彼を研究できただろうか? しかし、私は他人の成果で、自分の研究をしたいとは思わない。無論、公開された他人の論文を入手して、検討し取り入れることはある。だが、明らかにラダーはオーバーレベルだ。参考どころの話ではない。たぶん知ってしまったら、絶対に無視できない。必ず影響されてしまう。そうすれば、これまでの研究の全てが混乱し、崩壊し、無に期すだろう。私は結果だけを求めているのではない。何より重視しているのは、我々の手で、我々の友と成りうる人工知能を作り上げることなのだ。アイクの年齢が八歳なのは、それが我々の技術の限界であるというのも理由の一つではある。しかし、私はそれ以上に、アイクを人間の便利な道具にしたくなかった。八歳という年齢設定は、自己と他者を区別できる意識や自我を持ち、なおかつ純真で汚れなく、また理由なくむやみに反抗することもなく、会話や意思の疎通が可能であるが、人間の――大人と呼ばれる人間に利用されるほどの知性や知能は持ち合わせない。私は天才を作りたいとは一度も思わなかった。自分より幾分劣った、けれどその自我を無視できない知性――それがアイクなのだ。
不意に、自己嫌悪に陥った。私はアイクを純粋に愛しているつもりだった。だが、本当にそうだろうか。自分のエゴやナルシシズムの集大成ではないと、断言できるか。
苦笑した。もし、アイクという、自分では純粋無垢な存在として作ってきた人工知能が、私の醜いエゴやナルシシズムによって成されたものであっても、この世にアイクが存在するのは間違いない。それにアイクは私一人で生み出し、作ってきたわけではないのだ。アイクは私たちの『祈り』で『希望』だ。アイクのプロジェクトは私が入社する半年前に発足した。私はその当時のことを伝聞でしか知らない。私が入社した頃には、アイクの根幹となる三つのプログラムはおおよそ完成していた。当時のアイクは無個性で、名前すら無かった。それでも、私は初めて彼の動作するところを見た時、感動した。いずれ、自由な会話が可能な人工知能として完成させるのだと聞いて、思いを馳せ夢に見た。先輩たちの夢も聞いた。数人のロマンチストたちが、最初にこのプロジェクトを立ち上げた。実験的な試みだった。しかし、完成までにこんなに長くかかるとは、誰もが思っていなかったのだろう。一人、また一人と抜けていって、最後には定年間近で発足者でプロジェクトのリーダーである、前任室長ナサニエル氏だけが残った。私は彼が定年退職する際に、アイクが完成したら必ず連絡すると言った。彼は穏やかに笑い、待っていると答えた。だが、彼はその半年後に脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
降車駅を知らせる電子音に慌ててモノレールを降りた。改札へ向かおうとしたはずなのに、誤って違うホームへ向かってしまった。階段を上りかけて、足を下ろし、身を翻しかけたその時、見覚えのある男の姿が視界をよぎった。ぎくりとしてそちらを見ると、ルグランだった。改札口へ向かっている。その後を距離をおいてこっそりつけた。彼をつけている他の人間は見当たらない。私に見つけられないだけか、本当にいないのかは判別つかなかった。
ルグランの自宅はシェイルガルムには無い。そもそも彼の給料でもここに住むのは無理だ。一体彼は何処へ行くつもりなのだろう。時計を見ると、時刻は午後7時47分だった。私は少し逡巡し、彼の行く先を確認してから、ライオネルの家へ向かうことにした。