第五十三話 リカルド(一)
それから、駅構内の公衆電話から、リカルドの自宅へとかける。
『はい』
女性の声が出た。どきりとしながら、私は告げる。
「申し訳ありません。私は、アスト社のジーンハイムと申します。リカルド・バッジオさんはご在宅でしょうか?」
『……大変申し訳ございませんが、リカルドはただいま外に出ています』
女性が固い声でそう言った。ひやりとしたものが、背中を伝う。
「……では、いつ戻られるか判りますか?」
『さあ。……たぶん遅くなると思います。申し訳ありませんけど、これ以上は、私には判りかねます』
「…………」
赤錆びまじりの鉄を噛みしめるような、厭な感覚だった。女性の声は平坦で、感情が読みにくい。だが、リカルドは恋人と二人きりで暮らしているはずだ。確認したことはないが、彼自身がそう吹聴しているのだから、たぶんそれに間違いないだろう。
「そうですか。お忙しいところ、お手数おかけいたしました。失礼いたします」
『……あの』
「はい」
『……彼は今、その……』
その時、不意に電話の向こうで誰か男の声が聞こえた。どきりとした。一瞬、私も彼女も黙り込んでしまった──私は思わず狼狽し、慌てて言った。
「それでは失礼いたしました」
そうしてすぐに切ってしまう。心臓がドクドクと波打っていた。あの声は……リカルドのものではなかった。あまり部下のプライベートには立ち入りたくないと思っているのに、なんだか余計なことを知ってしまったみたいで、どうしようもなく後悔した。リカルドは、彼は今、どこでどうしているのだろう。急に不安になった。既に、ライオネルも、谷崎も、ラダーもいない。私一人だった。
とにかく、呆然としている暇は無い。すぐさまモノレールに飛び乗って、アルストンへと向かう。モノレールはほとんど無音だ。揺れることもなく高速で滑って行く。窓の外の景色はほとんど残像のように飛び去って行き、変わらずにいるのは、日が落ちた後の赤い空だけだ。背中が冷たい汗で濡れていた。握りしめた拳は白くなっていた。私は懸命に、昨日のリカルドの様子を思い出す。いつも通りだった。いつもと変わりなかったはずだった。私は多くのことを見逃している。ラダーが気付くことのできた、リカルドの出した幾つもの信号[シグナル]、警告[アラート]を。私は一体何を見てきたのだろう。私は何を聞いていたのだろう。彼のことは良く知っているつもりで、理解しているつもりだった。リカルドとの付き合いは、彼が私の研究室に配属されてから四年半、私が前任者に替わって室長となってからは三年近く、ずっと同じ職場で共に仕事をしてきた。なのに、私には、彼の変化がまるで感じられなかった。彼の変調に、ちっとも気付かなかった。私は、自分が脅えていることに気付いた。まるで、子供のように、不安に脅えて、震えている。もし、ラダーが教えてくれなかったら、私は全く何も気付かなかっただろう。申し訳ない気持ちで胸が詰まり、ふがいなさに眩暈がする。
どうして、と思う。どうして、彼は何も言ってくれないのだろう。リカルドは、私のことを信用していないのだろうか。それとも、頼りない上司だから、頼りたくても頼れない? 私はリカルドのことを良く知っている。彼は一見道化でお調子者に見えるが、根は至極真面目な努力家だ。無神経なように見えて、あれでロルフやユージンよりも気遣いが上手い。ロルフは善良で穏和で優しい男だが、少々鈍感で、気が回らないところがあるから。ユージンは良い男だが、少々神経質で、気分屋なところがある。思い返してみれば、彼が文句を言わないのを良いことに、私は仕事の面で、リカルドに色々負担をかけていた。リカルドは確かにいつもと変わりなかった。だが、少なくとも先週の彼は、つまり、ラダーが来る前の週の、アイクの企画書を作っている時の彼は、どうもどこか違っていた──あの頃、彼は連日、随分遅くまで職場に残っていたのではなかったか? そのために私は「大丈夫なのか?」と尋ねたことがあった気がする。だが彼は笑って「大丈夫ですよ」と答えて──だから、私は別段不思議にも思わなかったのだ。「大丈夫ですよ」と言われたから。
大丈夫? 何が大丈夫だったのだろう。あの頃の彼は、疲れているように見えた。けれど、私は彼が仕事で疲れているのだと思っていた。実際、彼は忙しくしていたし──だが、それが、プライベートの問題から逃避するために、わざとそうしていたのだと、そうではないと、断言できるだろうか。無論、それは憶測だ。私の勘違いかも知れない。リカルドは他人に弱音を吐かない。あれで、結構プライドが高く、頑固で融通が利かない。私にはそれほどこだわる必要などないように思える事にも、彼はこだわり、固執する。私は彼がどういう男なのか、知っていたはずだ。思っている事は言葉にしない。悩んでいても誰にも言わない。そういう時ほど、彼は仕事に遊びに力を入れるのだ。それが彼の、リカルド・バッジオという男のやり方だ。彼は決して他人に弱味を見せないのだ。……おそらくは、恋人にさえも。
「…………」
ぎりりと、下唇を噛みしめた。じんわりと血の味が滲み、薄く広がる。アルストン駅で降車して、カースが書いてくれた地図を内ポケットから取り出して見た。その店は、駅東口の、飲み屋ばかりが建ち並ぶ小さな路地裏にあるようだった。改札を出て東口へと向かい、それから二本目の小路を右に曲がる。そこから二軒目に『ドリンク・アンド・ドランク』はあった。随分な店の名だな、と思う。地下へと降りる穴蔵のような外観の店だった。ドアは木製でオークだった。それを押し開けると、中は薄暗いシェイドランプの明かりに満たされていた。思ったよりも静かな店だ。と思ったら、途端にどっと沸く歓声と拍手が聞こえてきた。どきりとしてそちらを見ると、人だかりができていた。厭な予感を覚えつつも、そちらへ向かう。
「いらっしゃいませ」
店に入って四歩目でようやく店員の声が聞こえた。その声の方を見ると、カウンター裏に立って、グラスを拭いている店の主人らしき男のようだった。店には他に店員らしき人物はいない。店に一度に入れる客は、二十〜三十人というところだろう。それにしても、店員の数が少なすぎる。この店の規模ならば、少なくともあと二・三人の店員が必要だろう。でなければ、全てのテーブルをカバーする事はひどく難しい。
私は軽く会釈して、男の方へ近寄る。
「すみません。ここに、リカルド・バッジオという男は来ていますか? 黒髪の、たぶん良く目立つ男なんですが……」
すると、男は、頷いて、目線で人だかりを指し示した。その方角を見遣って、私は思わず唖然とした。
「……はーい、皆さん。ここにコインが一枚ありますね? ほら、どこからどう見ても一枚です。種も仕掛けもありません。表も裏も……っておや、両方表じゃないですか」
客がどっと笑い転げた。……私には何故それがおかしいのか理解できない。
「あー、コレ、テープで二枚が一緒に貼られてるみたいですねぇ。というワケで一枚に見えるけどコレは二枚のコインです。これを、このグラスに入れて、ハンカチをかぶせて、数を数えます。ズルしないように、皆さんも一緒に数えましょうか。はい、一、二、三、四」
そして「五」と唱えると同時に、ハンカチを取り除くと、グラスの中は空になっていた。客が「おーっ」とどよめくと、リカルドはハンカチをひらひらさせながら言う。
「おっと、さっきのコインが消えてますね。さあ、どこに行ったのかな? さあ、そこのお兄さん、悪いけどちょっとポケットの中を探らせていただきますよ。……おや? おやおや? おかしいですね。おかしいですよ? ……ほら、見てください。さっきのコインが……おっと、これは、表裏ありますね。お兄さんここにこのコインを入れた記憶は?」
その客は首を横に振る。
「全然、全く」
「そうですね。これは硬貨ではなくさっきのコインの片割れのようです。表が羊で、裏が狼。さっきのコインは両方表でどちらの面も羊だったワケですが……さて、もう一方はどこに行ったかな。というわけで今度はお姉さんの胸元……うそうそ、嘘です。殴る真似しないでください。今度はそのお手を拝借。ええ、手の平だけで結構ですよ。余計なところを触ると、お姉さんだけじゃなく、ここにいるお客さん皆に叱られちゃいますからね。はあい、何も何もありませんね。でも、本当に何もないのかな? というわけでここにハンカチをかけます。さて、一、二、三」
ハンカチを取り除くと、そこにもう一方のコインが出現していた。そこで、客達がまた歓声を上げる。その手品を披露していた青年──リカルドが、仰々しくお辞儀をして、二枚のコインを胸ポケットに仕舞った。
「以上で、今日のショーは終了です。というわけで、皆様貴重なお時間ありがとうございましたー」
そして、再度、まるで本職の手品師のように、お辞儀をして、その人だかりをかき分けるようにして、こちらへと歩み寄ろうとした。
「……っ!? しっ……室長!?」
ぎくりとした顔と声で、リカルドは私を見つめ、立ち止まった。
「……少し、一緒に飲まないか?」
固まっているリカルドにそう言い、私はカウンター席の一つに腰掛けた。リカルドは一瞬視線を彷徨わせたが、おとなしく私の隣に腰掛けた。
「……お前に手品師の才能があったなんて、初めて知ったよ、リカルド」
そう言うと、リカルドはかぁっと顔を赤らめた。
「あ、いや、その。別にそういうんじゃ……ただの余興で、具にもつかない代物です」
「マスター、水割りを頼む。リカルドはどうする? 良ければ奢るが」
「あ! いえ! 良いです。それくらい自分で出します。……その……どうして、ここに……」
隠しても仕方ないだろうと思い、正直に白状する。
「実は内緒と言われたが、ラダーとこの店で飲んだのだろう?」
すると、リカルドは舌打ちした。
「……飲ませ方が足りなかったか」
私は苦笑した。
「たぶんラダーはいくら飲んでも酔わないぞ。飲ませるだけ損だぞ。私は秘蔵のブランデーを四本以上空にされた。それも全て氷なしのストレートで。それだけ飲んでも彼は素面だった」
「……こっ……氷なしのストレート?! それも四本!? ど、どういう化け物だ」
私は苦笑した。
「そう言えばリカルドと二人きりで飲むのは初めてだな」
「……あ、そう言えばそうですね。でも、カースとはいつ飲んだんです?」
「寮の部屋でだ。同室だからな」
「ああ、成る程。……でもまた、なんで、室長が、こんな店に?」
「こんな店? お前のお気に入りの店なのだろう?」
「ああ、そうですけど……室長の好みとは違うかと」
「たまには良いんじゃないか? 気分を変えて、知らない店で飲むのも。お前がいれば、そう居心地悪いこともないだろう、リカルド」
その時、マスターが、水割りのタンブラーを私の目の前に置いた。
「はい、水割り」
リカルドは苦笑した。
「……いや、正直、ちょっとびっくりしましたよ。まるで夢でも見ているのかと」
「夢を見たというよりは、夢から現実に引き戻されたって顔のように見えたのだが? ……まるで、悪戯を見つかって、叱られることに脅えている子供のような」
「……室長……」
「今は勤務外だ。なるべくなら、ジーンハイムまたはエリックと呼んでくれないか?」
「え……?」
「プライベートの時間だろう? 今日は土曜日だ」
「……名前は、ちょっと照れくさいですよ」
「お前たちは互いにファーストネームで呼び合っているのに?」
「室長は……室長ですから」
「私が室長になる前には、エリックと呼んでくれていたんじゃなかったかな。……それとも、記憶違いか?」
「……今更、恥ずかしいですよ。どうも、慣れちゃったし。その……」
「拗ねるぞ?」
「へ?」
リカルドはきょとんとした顔になった。
「仕事以外の時間に役職名で呼ぶと、拗ねるぞと言ったのだ」
「……室長。もしかして、既に酔ってます?」
「まだ酒は一滴も飲んでいない。酔っているように見えるか?」
「……いえ」
そう言うと、リカルドは肩をすくめた。
「……じゃあ、エリック」
私は微笑み、頷いた。リカルドは戸惑うような表情で私を見つめ、それから溜息をついた。
「カースがこんなお喋りだと知っていたら、連れ込むんじゃなかった」
「私が来てはいけないのか?」
「いけないというわけじゃないですが……お説教は聞きたくないですよ」
「説教されねばならないような事をしているのか? リカルド」
「…………」
リカルドは私を見つめ、それから慎重に言葉を選ぶように話し出した。
「カースがあなたに何を言ったか知りませんが、別に俺は、何も悪いことなんかしてませんよ。勤務時間以外に、酒を飲もうと、遊ぼうと、仕事に支障がなければ、文句を言われる筋合いも、口出しされる必要もない」
「……実は、ここに来る前に、お前の家に電話した」
「…………っ!?」
ぎくりとしたように、リカルドは私を見た。
「彼女は何も言わなかったよ。ただ、ちょっと……たぶん、聞いてはいけないことを、聞いてしまったと、思う。すまない。先に謝っておく」
「…………」
リカルドは溜息をついた。
「……マスター、ジン・トニックを頼む」
リカルドが言った途端、目の前にそのタンブラーが置かれた。
「って既に準備してたのかよ?!」
リカルドが言うと、マスターは頷いた。
「いつも最初はこれだろう?」
「……そりゃそうだけどさ……」
リカルドは不満そうに、ぶちぶちと呟いた。
「良いじゃないか、リカルド。注文した品がすぐに出てきたんだぞ? 感謝の言葉ではなく、不満や文句を言うのか?」
私の言葉に、リカルドは深い溜息をついた。
「……なんか、本当……」
リカルドは呻きながらぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き乱し、カウンターテーブルに顎を乗せた。
「……明日が日曜で、本当良かったと思いますよ」
「良かった? 何故だ?」
「明日はきっと二日酔いが酷いでしょうから。……って言うか、聞いちゃったんですか? 室長」
「……聞く気はまるで無かったのだが、な。すまん」
「いや、謝られても。俺のせいじゃないし。……いや、俺のせいか。すみません、今、俺、モーテルで一人暮らし中なんです。『二人寝』とか見栄張った嘘ついて、すみませんでした」
「……私に謝られても困る。……本当は、プライバシーの侵害になるといけないから、あんまり関わらないようにしていたんだが。たぶん、私のミスだ」
「室長……いえ、エリックの? そりゃ違うでしょう。まあ、俺も迂闊というか、こんなのすぐに片付く問題だと思って軽く見てたせいなんですけどね。放っておいてもなんとかなると思ったら、放っておいてる間に振られちゃいましたと。……まあ、端的に言うと、そういう事です。一度、アルコール抜きで真面目に二人で話し合わなきゃならんなぁとか思ってたんですが。どうもそういうシリアスなのは苦手で。どうせ結果が決まってるんなら、話し合う必要も無いんじゃないかとも思うし。結局まあ、俺が寮に入れば済む事じゃないかなと思うんですが、どうも今、寮に空き部屋は無いようだし」
「私の部屋なら、あと一人くらい入れるぞ?」
「……それがイヤだから、逡巡してたんです。代わりの下宿もアパートも見つからないし」
「だからと言って、モーテルじゃ余計高くつかないか?」
「あー、実は、姉貴のやってるモーテルで、宿泊料金タダなんです。学生時代から酔うとちょくちょく利用していて。でもまあ、そこに住むとか抜かしたら、料金払えと姉貴にどやされるのは目に見えてるし」
「私と同室は厭なのか?」
「いや、別に室長と同室がイヤだってことじゃぁなくて、その……色々と、ちょっと、思うところがありまして」
「思うところ?」
「俺、寮とか共同生活、苦手なんですよ」
「…………」
私は一瞬、固まった。
「室長、いやエリックはご存じでしょうけど、俺、他人に調子を合わせたり気遣ったりとか、すごく苦手なんですよ。神経疲れるし、自分のペースが狂うから。面倒……もあるんでしょうけど、どうも、俺、自分勝手な人間で、なんていうか、他人と一緒の空気が苦手なんですよね。俺、五人兄弟姉妹の一番末っ子で、ガキの頃はいっつも部屋の隅っこだったんですけどね。その時からずっと苦手で。皆家族できょうだいなのに、自分以外の人間が傍にいるのがどうも苦手で──これって、おかしいのかな、と思う事はしばしばあったんですけど、いつまで経ってもそれに慣れないんです。だから、きっと俺、他人と同じ部屋で、他人の呼吸を聞きながら夜寝るのは、無理です」
「……ちょっと待て。それじゃ、恋人とは……?」
「あ、いや。女は平気なんですけどね。男のはダメなんです。困ったことに」
「…………」
つまり、それは。
「一人部屋じゃないと駄目だと?」
「……たぶん最初から無理だとは思ったんですけどね。ジェフに聞いたら、一人部屋はやっぱり無理だと。二人部屋とか三人部屋とかなら、余裕あるって言われましたけどね」
「……それは、何か、トラウマ、とか……?」
おそるおそる聞くと、リカルドは失笑した。
「いや、そんなんじゃないですよ。そんなんじゃなくて……なんだろう。なんで苦手なのか、考えてみたことなかったんで、良く判らないんですけど……俺、たぶん、マザーコンプレックスなんですよ。そういう事だと、思います」
「…………」
リカルドはにやりと笑って、タンブラーを一気に飲み干した。