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孤高の天才  作者: 深水晶
第三部 波瀾の幕開け
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第四十八話 事情一

 私はテーブルの端を見つめながら、もの思いにふけっていた。

「しかし、今日は良い天気ですね。暑くて喉が渇きます」

 そう言いながら、ライオネルはウェイトレスに珈琲を注文する。

「カースくんも、ジーンハイムさんも珈琲でよろしいですよね?」

「ああ、構わないぜ」

「…………」

 私は、義父に、ただの一度も実母の話を聞いたことがない。彼は終始、私の父は彼であり、私の母は彼の妻であるという態度を崩さなかった。そうではないと、私が知った後もだ。私の実の母である、彼の姉については、一言も洩らさなかった。

「…………」

「……おい、可哀想だから返事してやれよ」

 ラダーがそう言って、私の肩を叩いた。

「うん、なんだ? どうかしたか?」

「……また、何も聞いてなかったんだな? 注文は珈琲で良いかって聞かれたんだよ」

「ああ、それで結構です」

「……あ、ああ、そうですか。じゃあ、先のと合わせて珈琲三つお願いします」

「かしこまりました」

 ウェイトレスは立ち去る。私はまた、自分の思考に戻る。

「良かった。怒っていて無視されたんじゃなかったんですね」

「そういうやつなんだよ。俺も苦労してるんだ」

 私が知っている実母に関する話は全て私と私の実母を疎み、嫌っている親族達から聞いたものばかりだ。その内容は、派手で金遣いが荒く、行きずりの男に身を任せるようなふしだらな女で、一族の鼻つまみ者で厄介者で、婚姻することなく、行きずりの、どこの誰とも知らぬ男の子供を身篭り出産し、その子を、当時新婚だった弟である私の義父に押し付け、別の妻子ある男の元へ走った、といった内容だ。

「いつもそうなんですか?」

「たいていそうだよ。逆の方が少ないかもな。基本的に自分が興味ないことはだいたいああなんだ。諦めるしかないよ」

 今まで、その話の全てが本当なのだと思っていたのだが、果たしてそうだったのだろうか。私は一番信用できるはずの義父の話を聞いていないため、確認のしようがない。だが、一つだけ判っていることは、少なくとも、私の母が、私を義父に預けて去ったということだ。私はてっきりその後すぐに死んだのだと思っていたが、そうではなかったらしい。

「ってことは、僕は全く興味持たれてないってことなんですか? 今までずっと会えなくて、やっと会えた、この世でたった二人きりの兄弟なのに。僕は大学に入って、一人暮らし始めてからずっと探していたのに、唯一の手がかりだった住所には他人の家が建っているし、古い経済誌で見つけた会社は人手に渡っているしで、近所の人に訪ねても、判ったのは彼が大学卒業後にどこかの会社に入社して、今は両親を失い、行方を誰にも告げずに姿を消したということだけで、僕は谷崎先輩から、彼の名前を聞くまでちっとも手掛かりを得ることができなかったんです」

「あんたも苦労したんだな」

 私は自分を生んだという女性にも、名義上私の母であった義父の妻である女性にも全く興味がなかった。だから、自分で調べようとも思わなかった。

「色々な話を聞きましたよ。昔から頭の良い無口でおとなしい優等生で、そのくせ誇り高く、ただ一人の友人以外とは一言も口を利かず、にこりともしなかったとか、誰に何をされたり言われたりしても、全然怒らずに、逆に相手をさとしたとか。そうそう、石を投げつけられて、額からだらだら血を流しながらも、少しも動じることなく、真顔で相手をさとして、相手が恐ろしさのあまり粗そうをしたとか」

「うわぁ、想像できるような、したくないような……」

 少しでも自分で調べてみれば、異なる事実や事情が判明したというのだろうか。だが、それが判ったからといって何になる? 全ては終わったことで、既に取り返しのつかない過去の話だ。どういう事情であれ、私を生みの母が、私を捨てて去ったことだけは間違いない。そのために、義父が迷惑を被ったことも。

「あと、小学校で、教師が誤って間違った内容の授業をしたら、それをすぐさま指摘して、代わりに解説したため、その教師は泣きながら授業放棄してそのまま退職してしまったとか」

「げ。何ソレ。っていうか、よくそれで、自分のこと出来が悪いとか言うよなぁ」

 別に自分が捨てられたということに関してはなんら思うところはない。子が育つのに、必ずしも母は必要ではない。必要なものは、義父が与えてくれ、足りないところは家政婦が補った。義父は忙しい人だったが、私は何の不満もなかった。義父は私を大変良く面倒をみてくれたし、可愛がってくれた。押し付けられた義理の子など、もっとおざなりに扱ってくれても良かったのに。私が恩返しをしようと思った矢先に義父は殺された。銃で後頭部を一撃。眠っているようにきれいな死顔だった。第一発見者は、通いの家政婦。帰宅した時、彼女の泣き声を聞いた時、私はテレビドラマの音声が玄関に流れているものだと思い、居間へ向かった。テレビはおろか、照明すらつけられていなかった。不審に思い、明かりをつけると、血に濡れた床に横たわる義父の姿と、床に座り込み、泣きじゃくる家政婦の姿があった。警察と救急に連絡したことまでは覚えているが、その後病院でジェレミーの顔を見るまでの間の記憶がぽっかり消失している。だが、家政婦のに話では、私は傍目にはひどく冷静に、主だった親族への連絡や、義父と共に通っていた教会への連絡、葬式の手配などを滞りなくてきぱきと手配していたらしい。

「他にも、六歳の時に、教会のシスターにプロポーズして断られたとか色々聞きましたよ。どうやら近所では伝説と化しているみたいで至るところに足跡というか、逸話が……」

「シスターにプロポーズ? そいつはすごい。ぜひこの目で見たかったぜ。って俺はまだ生まれてないな。それにしても、伝説ってのはなんなんだよ。そんなに有名人だったのか?」

「義理のお父上が、その地区の大変な出席頭だったのと、私たちの母が一部では非常に有名な歌姫だったので、それは非常に目立ったそうです。それに彼自身、私と違って、非常に人目を引く容姿で、頭の回転が早い秀才ですからね」

「いや、俺は室長が秀才というのは似合わないと思うけど。それとも、バカと天才は紙一重ってやつか?」

「その言い方はあまりに辛辣過ぎると思いますよ、カースくん」

 どうして父は、私に生母のことを何一つ教えてくれなかったのだろう。私が聞かなかったからか? 全てに抜かりのなかった完璧な父だった彼が、私に故意に伏せていたというなら、何か特別な理由があったはずだ。少なくとも、私には聞かせたくないと思う何か決定的な理由が。

 そこへ谷崎が現れる。

「お待たせしました、ジーンハイムさん、カース、ライオネル。ところで、仲直りはできましたか?」

「え? 仲直り? どういう意味です? 先輩」

「このバカ。私の無言の気遣いにちゃんと気付け。いったい何年の付き合いだと思ってるんだ。まったく出来の悪い後輩を持つと苦労する。こんなやつの世話を押し付けたジョーゼフが少々恨めしくなる」

「えぇっ!? 先輩は兄さんに頼まれたから、僕の面倒みてくれてるんですか!?」

「当たり前だ。他にこんなバカな学習能力のない世話のかかるやつのお守りをする理由があるものか」

「セントラルアカデミー出の秀才とくらべられても困りますよ、先輩。僕は普通の人間なんですから」

「私が普通じゃないとでも言うのか?」

「当然です。自分を物事の判断基準にするのはやめてくださいよ」

「お前に言われると、この上なく不快だな。……ところで、ジーンハイムさん。ジーンハイムさん?」

「おい、室長、リック! 呼ばれてるぞ」

「……え?」

 気付くと、ラダーと谷崎とライオネルに、顔を覗き込まれていた。

「あ、はい、なんでしょうか?」

「すみません、ジーンハイムさん。まだ、ご気分が優れないのでしょうか?」

「……気分?」

 きょとんとする。

「つまり、ライオネル・ラダーのせいで、ご不快なのではないかと」

「何故ですか?」

 尋ねると、谷崎は一瞬真顔のまま硬直し、ラダーは大仰に天を仰ぎ、ライオネルは苦笑した。

「何故って、それは先程の件で」

「……先程?」

「ムダだよ、谷崎さん。室長の記憶の中にはとっくの昔に消えて、頭にないよ。キレイサッパリ忘れてるんだから、わざわざ思い出させることはないぜ」

「なるほど、寝た子を起こすなというわけですか。有り難いのか、どうなのか。……それはともかくご気分はいかがですか?」

「どういう意味です?」

「ご不快でなければ、結構です。とりあえずこの愚かな後輩は、後で適当にしめておきますから」

 そう言って、谷崎は人の好さそうな笑みを浮かべた。

「せっ……先輩?!」

 ライオネルは泣きそうな顔で悲鳴を上げる。

「それはともかく、これからどうしましょうか」

 私が言うと、谷崎は頷いた。

「とりあえず彼がいるのに、核心に触れるような話題はできませんからね。いかなる問題が生じるか判りませんし」

「本人の前で噂話するなよ」

 ラダーが抗議する。

「とりあえず、私の分の珈琲を注文することにしましょう」

 そう言って、谷崎はウェイトレスを呼んだ。

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