第四十五話 悪口雑言
ラダーを観察するのは何だか楽しい、と思っている自分にふと気付いた。ころころと表情や感情の変わる様は、慣れてみると可愛らしいと思う。本人に言ったら、怒られるだろうが。一人で目を白黒させている様は笑いを堪えるのにとても苦労する。息子や弟がいたら、こういう感じなのだろうか、と思って、苦笑した。
「……あんたさ、見てると時折一人でくすくす笑ってるよな?」
呆れたようにラダーが言った。今日はエイティーン・セクトではなく、その斜め向かいにあるパスタを出す喫茶店だ。私はここの珈琲が割とお気に入りだ。内装やBGM、雰囲気もとてもセンスが良い。珈琲の香りと味を楽しみながらすすっていたのだが、ラダーのその言葉で相手の顔を見ると、困ったような、呆れたような顔で注視されていた。
「……そうか?」
問い返すと、ラダーは握っていたフォークを皿の上に置いた。
「そうだよ。時折不気味なくらいにやにや笑ってんだ。こいつ、いったい何を考えてるんだろうなって時折思うぜ」
私は苦笑した。
「上司に向かって『こいつ』はないだろう?」
「悪ぃな。なんか、どうも、俺、口が悪くて。けど他にどう言えってんだよ? クソバカ丁寧な表現方法使えば不気味がられたり、何かあったのかと勘繰られるし。俺ちょっとめげるし凹むぞ?」
まだあれを引きずっていたのか、と思う。
「そんなに気にする必要はないだろう。皆だってもう慣れたさ。心配しなくても良い」
「だったら良いけどさ。……それより『こいつ』以外なら何て言えば適切なんだよ?」
「……せめて『彼』とか『この男』程度にしてくれないか?」
「判った、考慮しておくよ。……ところでさ、リック。あんた、俺が何故昼食にわざわざつきあわせたか判ってるか?」
「何故だ?」
「だぁっ! そ、そうじゃないかとは思ったけど!! くそ。……あのな、俺が何を知りたがってるかとか、あんたから何かを聞き出したがっているかとか、そういうの、あんた良いトシしたオッサンなんだから、察してくれよ?」
「判らないから聞いている」
「……まあ、あんたはそういう男だけどさ……なんかもう、俺、やっぱあんたとつきあっていけるか、自信なくなってきた」
「何故だ? 何か悪いことを言ったか?」
「……まあいいや。とにかくさ、今日の午前中の収穫について聞きたいんだよ。どうだった? あの砂の大将。弁護士の谷崎誠一郎だよ」
「…………」
失念していた。少し考えればすぐ判ることなのに。……私が彼に話せることなどほとんどないのだから、誘いを断るのが筋だったのだ。だが、今更もう遅い。ここで逃げたらラダーは怪しむだろう。何かあったと察してしまうに違いない。だが、ここでラダー本人にそれを気付かれ、彼自身に行動されては元も子もない。
「……そうだな。とても良い雰囲気の事務所だった。珈琲が旨かったな。カップも良かった。華美な装飾はないが、機能的で清潔だった。とても良い雰囲気で話もできたぞ」
「……あのな、そういう事を聞いてるんじゃねぇよ。あんた、わざとボケてんのか? あんまり俺を困らせるなよ?」
「…………」
やはり駄目か、と思うが、なんとか話を誤魔化せねばならない。
「谷崎氏の眼鏡のメーカーのブランドはどうやら私のものと同じようだな。彼とは割に趣味が合うかも知れない。まあ、あんまり焦らせてお前を怒らせるのも得策ではないしな、かと言ってお前の養父の行方や居場所については、やはり判らなかった。すると、お前はいったい何が聞きたい? お前の養父の現在の健康状態か?」
「……元気なのか?」
「ああ、そうらしい。映話で話した限りでは、私もそう感じた」
「……なあ、リック」
「なんだ? ラダー」
「……俺の養父の顔色はどうだった?」
「え?」
「……あの人は元々、色素というものが薄いんだ。あと、一人でいるとろくにメシを食わない。あの人の外見が健康的だということは、滅多にない僥倖なんだが、あんたは本当に俺の養父に会ったのか? 別人だったという事はないのかよ?」
「…………」
「……だがそれよりも、あんたが嘘をついてる可能性の方が高いって気がしてるんだが……まさか、養父に何かあったとか言わないよな? これで俺を騙したりしたら、俺は一生あんたを恨むぜ」
そう言ったラダーの琥珀色の瞳は、ぎらぎらと危険な熱を孕んで輝いていた。
「…………」
真剣な顔と口調に、一瞬言葉を失う。……そもそも、私が彼に隠し事をしようというのが無理だったのかもしれない。だが、どうやって本人に言えるはずがある? 狙われている対象が、彼自身であるということを知っていてだ。相手が、その目的対象をラダーだと認識しているかどうかはともかく、本人にそんな事を知らせることなどできない。
「……すまん、ラダー」
私は頭を下げた。顔を上げると、厳しい表情のまま、しかし、少々驚いた顔つきで、彼は私を見下ろしていた。
「……口止めされたから、これ以上は何も言えない。それに、私も、お前の耳には入れるべきではないと思った」
「だからそれは何だと聞いてるんだ!! まさか……まさか、養父が死んだとか言わないよな?」
「…………」
「あのさ、室長。あんた、俺に言ったよな? 何か判ったら、教えてくれるって。俺が頼んだら、あんた『ああ、そうだな』って言っただろ? それとも、あれは嘘だったのか? その場しのぎで言ったでまかせだったのかよ?」
「……すまない。軽はずみだった」
更に頭を下げる。
「……軽はずみ? あんた、俺に了承したこと、後悔してんのか? つまりそれって約束なんか守る気ないってことだよな? 俺をバカにしてんのか? 頼むよ、俺はあんたを恨みたくないし、蔑みたくもないし、疑いたくもないんだよ。せっかく仲良くなったと思ったのに、やっと養父の家以外に居心地の良い場所見つけたと思ったのに、また失うのは金輪際イヤなんだよ。……頼むから教えてくれ。この状態で放置されたんじゃ、気が狂いそうだ」
「…………」
たぶん、このくらいのことは予想してしかるべきだったのだ。それができなかったのは迂闊というか、軽率だった。謀ることができないのなら、最初から何も言わない方が賢い。確かに、谷崎は賢明で確実な方法を取ったのだ。
「……恨んでも良いぞ」
私は言った。
「恨んでも良いし、蔑んでも良いし、疑いたかったら疑えば良い。……だが、私は決してお前の悪いようにするつもりはないし、お前の敵に回るつもりも毛頭ない。許してくれとは言わないから、お前の好きなようにすると良い」
「……そう来るのかよ? 卑怯だぜ、あんた」
「そうだな。そうかも知れない。……お前に嫌われても仕方ないだろうな」
「……バカ野郎。それでも嫌いになれないから困ってるんだよ。結局あんたもあの谷崎と同じかよ? そんなに俺が信用できないのか? そんなに俺が子供だってのかよ? なんで、なんで判ってくれないんだ! 俺が、どんなに養父に会いたいと思うか、どんなにあの人を必要としているのか、あんたは知っているはずだろう? 頼むから、これだけは教えてくれ。養父は──ジョーゼフ・ラダーは無事なのか? そうなのか否なのか、それだけは教えてくれ。じゃなきゃ、養父の居場所を探し出すために、明日から無断欠勤するぞ」
「……本当のこと言ったら、ちゃんと真面目に出社するか?」
「するよ。俺はムダなことはしない主義だしな」
「……君の養父、ジョーゼフ・ラダー氏は死んでいた」
「……っ!?」
「二年半前の話だ。……いくら私でも、死者とお前を会わせてやることはできない。本当に申し訳ないと思う。相手が生きてさえいてくれれば、命に代えても会わせてやるつもりだった」
「……あんたの命なんかいらねぇよ! それよりも……養父が死んだって!? なんでだ!? なんで死んだんだ!! どうして!?」
「……気持ちは判る。私も理不尽な理由で義父を亡くしたからな」
「……判る? 判るって……判るならどうしてそれを、俺に隠そうとした? 隠さなきゃならない理由があるからか? 何だって言うんだ? 谷崎もあんたも気分悪ぃよ! 俺がいったいあんた達に何をした!? どうしてこんな、養父の死を、たった一人の家族の死を、赤の他人のあんたが知って、当事者の俺に隠されなきゃならないんだ!?」
「……そうだな。もっともだ。……私も、自分の父の本当の死因を知りたがった」
「…………どういう、意味だ?」
「私の父は強盗殺人、ということになっていた」
「……『なっていた』だと? 実際は違ってたって言うのかよ?」
「金銭や利権が絡むと、時に人は、恐ろしいことを考えつくものでな。義父は、貧乏な頃に世話になった親族達のために、関連会社や子会社などの経営を親族に任せていたのだが、その親族達の幾人かが、その上にいる義父がいなくなれば、もっと甘い汁が吸えると思ったらしくてな。どうやら裏家業の連中に、仕事を依頼したらしい。実行犯の下っ端はすぐ捕まった。だが、その証拠はどうしても掴めなかった」
「あんたはそれで何かしたのか?」
「蛇の道は蛇というやつだ。私は無知だったのだが、とりあえず、そういう裏家業の連中の事は、その他の裏家業の人間に聞けば判るだろうと単純に考えた。実際それはすぐ判ったのだが、相手の方にも、私の動向が筒抜けだったようでな。倉庫のようなところに飲まず食わずで監禁されて暴行受けて、死にそうな目に遭った」
「……ちょっ……待てよ!! あ、あんた……バカか!? そういう事は警察に任せろよ!!」
「……そうした方が良いと気付いた時はちょっと遅くてな。逃げ足が速ければ逃げられたのだろうが、この通り、腕力も筋力も体力もないのでな。すぐ捕まった。……まあ、でもこの通り幸い五体満足だ。思ったより早く見つけてもらえたのが幸いしたな。あともう少し遅かったら、本気でやばかっただろうが」
「……バカか!? あんた、俺の他に言われたことないかよ!!」
「友人にはしょっちゅう言われているな。時折首を絞めて殺したくなるとも言われる」
「…………ああぁ、あんた、もう、いったい何なんだよ……? もうちょっと俺はあんたがマシな人間なのかと思ってたぜ? いったいもう、なんなんだよ? それじゃ俺の養父より余程タチが悪いじゃねぇか。あの人も本当どうしようもない男だったけど、あんたほど無茶しねぇよ。つうか、あんた、なんでそれで生きてんだよ」
「……なんで生きてると言われても……助かったから生きているに決まっているじゃないか」
「……ううぅ、そ、そりゃそうだろうけどさ……なんか俺、俺の周りってこんなろくでもない大人ばっかりなのか!?とかちょっぴり神様を恨みたくなってきたぜ……」
「ろくでもないか?」
「ろくでもねぇよ!! 自覚しろよ!! あんたは!! 子供にだって判る理屈だろう!? あんた本当はすっげーバカだろ!! 俺より頭悪いんじゃねぇか!?」
「……お前に比べたら大抵の人間の頭のできはあまり良くないと思うが」
「バカか!? 俺のは記憶力だけだろうが!! 言っておくけど、俺はそんなに頭良い方じゃねぇぞ!? 理解は悪いし、察しは悪いし、勘違いやとんちんかんなことだって結構多いし!! だけどな!? 犯罪者に武器も持たずに生身で単身突っ込むようなやつは大バカだよ!! 考えなしか、自殺志願者に決まってるだろ!? 自虐趣味のヤツでも実行に移さねぇよ!! そんなこと!!」
「……そ、そうか。そんなにひどいか」
ちょっと傷付いた。
「あのさ、あんた首に縄付けて、どっか縛り付けておかない? 二度としないって言うなら、野放しでもまあ良いけどさ……勘弁してくれよ、あんたみたいな特別級の大バカ、初めて見たよ。救いがたいぜ。救えねぇよ。俺には絶対無理。フォロー不可能だよ」
「……別にフォローしてくれとは頼まないが……」
「ああっ!! なんかもう!! あんたって本当ムカつく!! あんたほどムカつく男もこの世にいないよ!! ひどすぎるぜ!!」
「……そ、そこまで言わなくても……」
さすがにめげる。
「……でもまあ、見捨てたいけど、見捨てられねぇよな、こんなバカ。見捨ててどこかゴミ捨て場ででも見かけたらシャレになんねーからな」
「…………」
ゴ、ゴミ捨て場はないだろう、と思う。
「なんかもう、本当呆れるけど……仕方ねぇな。もう、会っちまったんだし。諦めるさ。……でもな、俺はあんたと違うから、そんな無茶しねぇよ。だから、どういう風に殺されたんだか、教えてくれよ?」
「……私はジョーゼフ氏が殺されたとは一言も言ってないはずだが?」
問い返すとラダーは泣きそうな顔で苦笑した。
「やっぱりな。そういう話を出すってことは、養父もそういう死に方したんだな?」
「…………」
「だけど、あの人、本当どうしようもないダメ男で、どうやってメシ食ってんだか謎なヤツだが、あんたと違って人畜無害なやつだから、人に殺されるほど恨まれるとかってのはなかったはずだぜ? それにあの人の研究そのものも、たいして注目されてなければ、重要視もされてない、ほとんどあの人の道楽でやってるような代物でほとんど金にはなってなかったはずだから、金銭目的や利権目的ってのもありえねぇだろ? だったらいったいなんで養父は殺されたんだ?」
「……彼の……発掘した遺跡から、とんでもない代物が見つかったからだ」
「へ? 何ソレ。俺、そんなの養父に聞いたことないぜ?」
「……彼はその重要性を知ってはいたが、他者にとってそうだとは、殺される直前まではたぶん思っていなかったと思う。それは、そのままであるなら、それこそ人畜無害で、とりわけ金になったり、人の命と引き替えにしてまで、何かの誰かの役に立つというものでもなかったからな。だが、彼自身はそれを大切に思っていた。だから、その遺跡を守るためにおそらく、屋敷を建てた」
「え? あんた、養父が発掘していた遺跡がどこにあるか知ってるんだ? 俺と谷崎のオッサンくらいしか知らないと思ったのに。……待てよ? 谷崎のオッサンから聞いたのか」
「それを狙っている連中がいる。だから、迂闊な事は何も言うな」
「……誰もいないぜ?」
「そう見えてもな。……どこに誰の耳と目があるか判らない。つい先程、教えてもらったところだ」
谷崎の手の内の人間が、私とラダーの動向を知ることができるというなら、敵である誰かの──ルグランとか、ゴードン兄弟とか、デュバルなどの──目と耳がないとは限らない。
「ラダー、お前はもう怒ってはいないのか?」
「バカに本気で腹立てるのも、本当バカだからな。バカらしくってやってられるか。それは怒ってるけど、一応話してくれたしな。まだ何か色々隠してそうだが、それはまあおいおい問い詰めることにするよ」
「…………」
「早く食わねぇとパスタが冷めるな。あんたもほら、珈琲冷めちまうぜ?」
切り替えが早すぎる、と思った。だが、思わず笑みがこぼれた。
「そうだな」
頷きながら、珈琲を口に含んだ。冷めかけの珈琲は、それでも旨かった。