第四十話 ウェイトレス
しかし、ジェレミーのタフさというか切り替えの早さには、本当呆れるくらい感心する。確かムール貝のレストランの彼女の話を聞いたのは、昨夜のことだが――私はどのウェイトレスが彼の本命かは判らなかった――今日はもう違う女性――イタリアン・メニューを出す軽食カフェ――を好きだというのだから。とても私には真似できない。さすがはジェレミーだ。私の知る限り、他に同じ事ができる人間はいないと思う。
私が感心していると、ジェレミーは言った。
「おい、いつまで何を考えてるんだ? 早くメニューを決めろよ。それともまた目を開けたまま寝惚けてたのか?」
「……私がいつ、目を開けたまま寝惚けたと言うんだ」
「しょっちゅうだろ。俺はペスカトーレを頼むつもりだ。お前はどうする?」
「ボンゴレにするよ。あさりが好きなんだ」
「そうか。じゃあ、ウェイトレスを呼ぶぞ」
「ああ」
するとジェレミーはわざわざ立ち上がり、ウェイトレスを呼び止めた。
「ああ、君。注文したいんだが」
「かしこまりました」
ウェイトレスが頭を下げる。その時、おや、と思った。ジェレミーが彼女の手に何かを握らせているのが見えたからだ。
ウェイトレスが一瞬立ち止まる。
「……というわけだから」
ジェレミーが彼女の耳元で何かを囁いた。それから、無言でジェレミーを見るウェイトレスに背を向け、席に戻ってくる。
素知らぬ顔だが楽しそうだ。たぶんもしかしなくても、お目当ての女性は彼女なのだろうと予測できる。
ところで、彼女は私が知る限り、今までジェレミーが告白し付き合った女性とは、明らかに傾向が違う気がするのは気のせいだろうか。
「ではすまないが、ペスカトーレとボンゴレをお願いできるかな?」
「はい。ペスカトーレとボンゴレ、お一つずつでよろしいでしょうか」
「ああ。その通りだ、お願いする。……ところで」
ジェレミーが何かを言いかけるが、ウェイトレスはにっこり笑って、
「それでは失礼いたします。暫くお待ちくださいませ」
と、立ち去ってしまう。
「…………」
ジェレミーは女性の後ろ姿を目で追った。彼女は厨房の方へ消えてしまう。
「……彼女か?」
私の言葉にジェレミーは頷いた。
「判らないな。どうして彼女なんだ?」
尋ねると、ジェレミーは苦笑した。
「どうしてだ? 今までお前が俺の好きになった女性のことで何かを言った事はなかったように思うが」
「……だって、彼女は……その」
はっきり言ってしまうと、今までジェレミーが『美人』と言ってていた女性たちに比べると、明らかに見劣りがする。見劣り、というと語弊があるが、あまりにも化粧気やお洒落気がなさすぎる。純朴と言えば聞こえは良いが、色気や派手さはない。確かに色白で肌はきれいだ。口紅を塗らなくとも、唇は十分赤みが差していた。髪の艶も良いし、丁寧にとかれている。だが、アクセサリーの一つもなく、髪型もひっつめ髪でそっけない。地味な、どこにでもいそうな感じの二十代前半くらいの女性だ。
「言いたい事はなんとなく判るよ。俺は今まで、どちらかというと派手な女とばかり付き合ってきたからな。でもな、リッキー、彼女の姿を良く見ろよ。化粧なんかしなくたって美人だろ? たぶん俺が今まで付き合って恋人の化粧を落とした顔と比べたら、一番の美人だ。……確かに見た目の派手さはないけど、性格は良さそうだし、接客は丁寧で真面目で手抜きをしない。ポーカーフェイスも完璧だ。姿勢も歩き方も、声も発声・発音も良い。プロポーションだって申し分ない。あれほどの逸材はなかなかいないと思うぞ?」
「……良く見てるんだな」
「お前が見てないだけだろう。とにかく俺は、彼女こそが俺の運命の女神だと思うんだ」
「…………」
その台詞を何度言ったか、ジェレミーは覚えているのだろうか。しかし、指摘はしないことにする。
「さっき彼女に何を渡したんだ?」
「ああ、見てたのか。ちょっとラブレターをね」
「ラブレター? そんなものいつ用意したんだ?」
昨日の今日だというのに。
「今朝、ここで朝食メニューを食べたんだ。その時、彼女を初めて見知ってね、直感が来たんだ。彼女こそが、俺の運命の恋人だって」
「…………」
思い込みが激しすぎる、と思う。もっとも、それくらいでなければ、ジェレミーではないという気もするが。しかし、同じ男として、ちょっとそれはどうかと、時折思わないではない。
「ところが、彼女はとても真面目なんだ。話しかける隙も与えないし、無駄口も利かない。そこで考えたのが、手紙作戦だ。内容はわざわざお前に話したりしないがな。これで、上手く行ったら、祝ってくれ。シャンパンを奢るよ」
「…………」
「なんだよ? その顔は。何か言いたげだな?」
「……別に。ただ、ちょっと疑問に思っただけだ。ジェレミーは彼女のどこが気に入ったんだ?」
「判らないのか? 彼女の内面からにじみ出てくる、彼女の美しさだよ。彼女はきっと、真面目で誠実で優しい女性だ。芯がしっかりしていて、ちょっとした物事には動じない。恋人として、あるいは妻としては最高の女性だ」
「…………」
それは、全てジェレミーの思い込みなのだろう?というツッコミは、やはりここで入れてはならないのだろうな、と思う。
「想像しただけで、うっとりするよ。彼女の声で、愛を囁かれたら、それだけで天国へ行けそうな気がする」
「おい、ジェレミー」
さすがに耐えられなくなって、私は声をかけた。
「あのな、ジェレミー。お前が惚れっぽいのは良く知っているし、好きになったら一途で一直線なのも良く判っているけどな、相手のことも良く知らない内から、色々盛り上がるのはどうかと思うぞ。相手がその気になりもしない内から、あんまり思い詰めても、相手の負担になるだけだと思うぞ?」
「俺は思い詰めてなんかいないさ」
そうだろうとも。思い詰めてるんじゃなくて、思い込んでるんだよな。それは判っている。判っているが。
「ジェレミー。お前は私に冷静になれとか言ったが、お前自身はどうなんだ? 自分が今、冷静だと思えるか?」
「何を言ってるんだ? リッキー」
「お前はちょっと今、夢中になりすぎだ。もう少し、落ち着いて、少しだけ引いて見てみたらどうだ? お前の台詞じゃないが、私は、お前が心配なんだよ」
「リッキー。悪いが、俺はお前に心配されるような事は何もしてないぞ?」
「…………」
「俺が思いを募らせるあまり、彼女をストーキングしたとか、夜道で彼女を襲ったとか言うなら、そう言われても仕方がないが、何故、彼女にラブレターを渡したくらいで、そんな事を言われなくちゃならないんだ?」
「行動の問題じゃない。お前は、意外なところで冷静沈着で、仕事人間で、真面目な男だから、決して犯罪になるような真似はしないだろうと信じているがな、なんというか、その……一度思い込むと、周りが見えなくなるというか、一途すぎるというか、そういう点がだな、少し──余計なお世話だとは思うが──心配なんだ。目の前の状況も見えずに溺れ込むように見えて。私は、そういう時のお前が、少しだけ恐いと思う。私の見えない場所で、私が気付かない内に、取り返しのつかない事になりそうな気がして」
「……お前にそこまで言われなきゃならないほどか?」
「私も、ジェレミー。お前のことが好きだ。だから、いつも、幸せになって欲しいと思う。確かに私は恋愛に関しては不得手だが、人間関係にならば、一応社会人になってもう八年になるし、人の上に立つ上司となって三年目になる。だから、思うのだが、外見だけで人を判断するのは、とても危険だぞ? お前は、彼女と一言でも会話したのか?」
「だから、話しかける隙も与えないって言っただろう? これから話し合えば良いんだ。要はきっかけさ。きっかけさえあれば、いくらでも互いに知り合うことができる」
それは勿論そうだ。その通りなのだが。
「ジェレミー。お前は仕事の上では間違いを犯さない、犯さないよう注意深く慎重に振る舞うくせに、どうして、恋愛に関しては同じように行動できないんだ? なんていうか、お前が仕事に対するように、恋愛方面に向き合えば、たぶんきっと、今よりずっと上手く行くと、私は思う。客観的に見れば、そう見えるぞ。自分でそう思う事はないか? お前は頭が悪いわけじゃないし、観察力も洞察力も分析力も鋭いと思うのに、どうして恋愛に関してだけは、目の前にあるものが見えなくなるような、そういう危ない橋ばかり渡るのか、私は、それがとても気になる。お前の幸せを、願っているからだ。心の底からそうなって欲しいと思うからだ」
私がそう告げると、ジェレミーはしばし黙り込んだ。