第三十九話 吐露
「大丈夫か? ジェレミー」
谷崎の事務所を出て、私は言った。
「……大丈夫かだと? お前と谷崎の二人がかりでいじめられて、さんざんだぜ」
「私がいつお前をいじめた?」
驚いて聞き返すと、ジェレミーは肩をすくめた。
「……まあ、お前がわざとじゃないのは良く知っているしな。俺の愚痴だ。忘れてくれ」
「……忘れてくれって……だったら最初から言うなよ、ジェレミー」
「だから愚痴だと言ってるだろ? それで納得できないって言うなら、八つ当たりだと思ってくれ」
「八つ当たりなのか?」
「……今更だから、諦めてるよ」
「…………」
どういう意味だろう? 首を傾げる。
「……それより少し早いけど、メシにしようぜ、リッキー。俺は疲れた。栄養補給と休息が欲しい。じゃないと、午後からとても使い物になりそうにない」
「それはまずいな。……午後から勤務なんだろ?」
「ああ。一時には入らないとダメだ。谷崎から聞いた話の記憶や印象がまだ薄れない内に聞き込みして回りたかったんだが、とてもそんな気力はない。残念だが、時間もあまりないことだし、午後に備えて休憩する事にするよ。とりあえず、それまでの間に、情報や問題を整理しておきたいところだしな」
「……そんなに疲れたのか?」
「半分はお前のせいだ。反省しろ」
「私のせいなのか?」
「……すまん、リッキー。八つ当たりだ。……どうも余裕がないらしい」
「そうか。それは大変だな」
「…………」
「どうした? ジェレミー」
「いや。……得な性分だと思って」
「何がだ?」
するとジェレミーは苦笑する。
「……俺はお前がとても好きだよ、リッキー」
「急にどうした? おかしなやつだな。昼食を奢って欲しいのか?」
「いいや。俺より薄給の人間に、奢らせる気は毛頭ない。いつも通り割り勘だ」
「そうか。……しかし、私はお前と違って、あまり金を使わないから、それほど苦労もしていないぞ?」
「……俺が浪費家だと言うのか?」
「いいや。私が無趣味で、金の使う必要などないからだ」
「……自分で無趣味と明言するのもどうかと思うぞ? それに……お前は、お前なりの趣味を持ってるじゃないか。現に、俺には、今こうやっているのも、お前の趣味の一環なんじゃないかと邪推しているぞ?」
「……私の趣味?」
「他人に対する『お節介』ってやつだ。別にそれが悪いとは言わないが、お前の場合は少し度を過ぎている。それはもう、相手への友情とか親愛の情とかいうものを超えて、既に『趣味』かその類のものだと俺は思うぜ。……やりすぎなんだよ」
「……やりすぎに関しては、自分でも、少しは自覚がある」
「だったら少しは加減してみろよ」
「それは無理だ。やるか、やらないかのどちらかしかない」
「じゃあ、何もするな。何もやるな。たぶん俺だけじゃない。皆がそう思うはずだ。世話を焼かれる当人を含めてな」
「……そいつはひどいな」
「ひどいのはお前だ。俺をさんざんいじめやがって。俺のか弱い神経と心臓は、ダブル眼鏡の連続精神攻撃でズダボロだ。あと一息で天国行きだぜ?」
「…………」
ダブル眼鏡?
「とにかくあの極悪鬼畜冷酷黒眼鏡とは二度と会いたくない気分だが、お前が手を引かないと言うならば仕方ないと諦めるさ。次回は胃腸薬と鎮痛剤を持参でな」
「……聞いても良いか? その『極悪鬼畜冷酷黒眼鏡』というのは谷崎氏のことか?」
「それ以外に誰がいる? とにかくだな。俺はあの男は好かん。弁護士だからじゃない。人間として大嫌いで、叶うことならもう二度と会いたくない。だが、お前を見捨てたり放置したりするのは、もっと耐えられないからな。恩に着ろとは言わないが、最後までちゃんとつきあってやる。……でも、あの冷酷眼鏡との対決に、俺の余力をあまり期待するなよ? なんだか異様に疲れた。酒でも飲んで、シャワーでも浴びて、ぐっすり朝まで一眠りしたい気分だ」
「今晩あたり飲みに行くか?」
「……そんな気力と体力は残りそうにないな。っていうか、お前と酒飲むのも、結構疲れるんだぜ?」
「そうなのか?」
「いや、飲むのは良い。別に俺はお前と違ってウワバミじゃないが、加減して程々に飲むし、酒量を超えたりはしないが、酔ったお前と帰る途中が一番胃がキリキリする」
「……そうなのか?」
「こういう時、美人の胸で思い切り甘えて、溺れたい気分だぜ」
「……すまない、役に立てなくて」
ジェレミーはにやりと笑った。
「別にそんなのお前に期待してないよ。って言うか、お前も疲れた時無条件で慰めてくれる美人の一人でも捕まえておけ」
「……慰めてもらうために、女性とつきあうのか?」
「いや、そういうわけじゃない。でも、そういう一面もある。俺は、恋人というのは、互いの足りない部分を補うために存在するのだと思うよ。自分に欠けている部分を、相手に欠けている部分を、互いに補い、潤し満たす──そういう関係が理想的だと思ってる。誰かとつきあって苦しいと思うのなら、何かが足りないか、何かが違ってるんだよ。お互い求めるものが同じなら、いずれかが負担に感じる必要なんかないはずだろ? でなかったら、努力の仕方が足りないのさ。俺は楽がしたいとは思わない。そういうのは失礼だと思う。だから俺は愛情を惜しまないし、愛する恋人のどんな表情も、言葉も、仕草も全て愛おしいと思う。……上手く言えないんだが、例えば、好きな人に笑ってもらえたら、すごく嬉しいだろ? そういう気持ちは、一生忘れちゃダメだと思う。忘れてしまったら、何のためにつきあってるんだか判らなくなるだろ? 相手が苦しいんだとしたら、俺が悪いんだし、俺が苦しくなるようなら、相手の何かが噛み合わないんだ。俺は自分の好きな人にはいつでも笑っていて欲しいけど、笑うばっかりが幸せとは限らないからさ。泣き顔も、怒った顔も、それが愛する人のものなら、なんだって幸せさ。一緒にいたくないと言われたら、引くより他に仕方がない。俺は、自分がどれほど望んだって、相手の負担にはなりたくないからな。嫌われるくらいなら、格好付けるさ。バカでも間抜けでも、道化でも。相手とずっと一緒にいられないなら、せめて良い思い出になりたいからな。別れてしまったら、すぐに忘れられるのでもいい。格好つけるところで格好つけなきゃ、男なんか格好つける場なんて他のどこにもないからな。他のヤツはどうあれ、俺はそう思ってる。……お前は、たぶん、色々トラウマとかしこりとかそういうものがあって、女というものを信用しないし、心を開くこともできないだろうと思うんだけどな、俺は……悪くないって思うぜ? 相手を信じて、傷付けられたり、裏切られたりするのもさ。傷付けられた痛みさえも愛おしいと思えるような、そういう相手にお前が出会えることを、心の底から願っているよ、いつでもな」
「…………」
「俺はお前がどんなバカでも、時折本気で見捨てたくなるくらいどうしようもなく救いがたいドジでお人好しでも、やっぱりお前が好きだからさ。お前が俺以外の誰かに心開いて、心の底から笑う姿を、そりゃあ少しは淋しくなりはするだろうけど、見たいと本気で真剣に思うよ。小学生のガキの頃からのつきあいだけどさ、俺は一度もそういうのを見たことがないからな。俺は……お節介だろうけど、本気で心配してるんだぜ?」
「…………」
「まあ、この際だから相手が誰でもいい。ああっと、あの例の化け物婆さんだとか、極悪鬼畜冷酷眼鏡とかだったら、絶対死んでも断固阻止するが、それ以外の、悪人でもなく、犯罪者でもなく、その他のヤバイ要因が一切ない相手だったら、相手が女でなくて男でも人間以外の何かでも何でもいい。お前が幸せになってくれるからな。でも、俺の希望としては、なるべく相手は女で美人で、それからとびきり性格が良い方がいい。俺が思わず羨ましくなるような、そういう相手をだな、あまり期待はしていないが──そういう相手を、お前が好きになって、相手もお前を好きになって、それでその──上手くまとまってくれると良いなと思う。まあ、お前には心外で迷惑かもしれないが」
「…………」
「だから、俺がお前に女を紹介する時は、その辺は慎重にちゃんと吟味しているからな?」
思わず苦笑した。
「……自分が口説いた後でもか?」
「くそ。その件については本当に悪かったよ。悪かったと思うけどな……俺じゃなけりゃ、お前が良いと思ったんだ。本気でだぞ?」
「……気持ちと言葉だけありがたく受け取っておくよ」
「お前は優しいヤツだ。俺は、お前ほど優しい人間を見たことがない。それに出来すぎるくらい出来たヤツだとも思っているよ」
「……問題ばかり起こす人間でもか?」
「それについては、本当頭が痛いがな、基本的にお前は、普通と外れた部分で異常に優しいんだよ。ニブくてボケててぽけーっとしてるくせに、妙なところで行動的で、破壊的で、衝動的で。お前はな、自分に何をされたって平気なくせに、自分が気に掛けてるものに何かされると、すぐカーッと熱くなって無茶するんだ。だから、お前はそういうところをもう少し気をつけろ。もう少し冷静になれ。お前自身に危害を加えられたわけじゃない。他人が他の誰かに危害を加えられたとしたらだ。それは、その他人の責任であって、お前の責任じゃない。お前は他人と自分の違いが、区別できてないようなところがあるんだ。なんとなくだが……お前は意識した他人という存在を、自分の延長上にあるように感じてるんだよ。頭ではなく無意識下の領分でな。でも、それは全く別物で、そんなに強く感じる必要なんてどこにもないんだ。他人の心配なんかしている暇があるなら、自分のことを心配しろ。俺はいつも、お前にそう言いたくなる。……判っているのか? お前がこういう事をするのはいつも、誰か自分以外の他人のためなんだぜ?」
「……私は、別に優しくなどないよ、ジェレミー」
自分勝手な人間だと思う。だいたい、誰かを助けようと思って、行動した事など、生まれてこの方、一度もない。
「私は誰のことも、救おうと思ったことも、助けようと思ったこともない。ただ、自分がしたいことを、するだけだ。誰かのことも、何かのことも、本気で心配したことなど、三十一年間、ただの一度もない」
「……俺がな、お前が本当にどうしようもないやつだと思うのは、こういう時だよ、リッキー。自覚がなさすぎるんだ。途方に暮れる。俺には荷が重すぎると感じてしまうことすらある。でも、まあ、自分の演じる役割に、ちょっぴりまあ、誇りや喜びや自信を持っている部分もあるからな。こういうところは、もう自分でも仕様がないなと思いつつも、はい降参と投げ出したり、誰かに譲ったり明け渡したりするつもりもないからな。……時折、自分がマゾなんじゃないかと思わないでもないが、でもまあ、好きでやってるんだから仕方がない。俺は心底格好つけで、目立ちたがり屋で、仕切りたがり屋なんでな。それでもお前は俺を見捨てずにいてくれるイイヤツだし、そういう恩人を見捨てるような男は、百人の女性に振られても仕方がないと思っている」
「……百人はとっくに超えてるだろ? たぶん私の記憶によれば、つきあう前に振られた女性の数を合計すると、軽く百三十人は超えるはず……」
「だあっ! うるさいっ!! そういう余計なことは指摘するな!! 本人が忘れてるんだから、お前が覚えたり思い出したりする必要なんぞどこにもないんだ!! 本気で嫌いになるぞ!! リッキー!!」
「……本気で嫌われるのは、私も困るな」
そう言うと、ジェレミーは溜息をつきながら言う。
「そう言ってくれると、俺もありがたいぜ、リッキー。でも、本気で自分がマゾヒストなんじゃないかと、ちょっぴり思ってきたけどな」
「お前がマゾヒストだなんて悪い冗談だろ?」
「……そう願いたいね。さて、と。昼食は何か希望があるか?」
「いや、特には」
「そうか。では、ここからそう離れてもいない場所に、パスタの旨いカフェがあるんだ。そこへ行こうぜ。この店に、ちょっとそこらにはいない美人のウェイトレスがいるんだ」
「……ちょっと待て、ジェレミー。先日のムール貝の店のウェイトレスはどうした?」
すると、ジェレミーは情けない顔になって、肩をすくめた。
「それは禁句だ」
「……まさか、もう振られたのか? っていつの間にアタックしたんだ?!」
「……うるさいな。仕方ないだろ。恋人がいるからって言われたんだ。だが、俺は次の新しい恋に今は夢中なんだ。おっと、小言はなしだぞ? 俺が好きでやってるんだ。文句は言わさない」
「…………」
つくづく、呆れるというか、感心する。どこでどうやって、そう次から次へと見つけるのかということも、すごいと思うのだが、その回転率と素早さには、脱帽だ。とても誰にも真似できない、と思う。
「……お前はタフな男だよ」
私が言うと、ジェレミーは頷いた。
「俺もそれが自分の取り柄だと思っている」
私は嘆息しながら、ジェレミーに言った。
「じゃあ、ちょっと興味もあるから、そのパスタの店へ行こうか」
「そうか。しかし、本当にパスタも旨いんだぞ?」
「判ってる。……お前は嘘は言わない」
私は苦笑した。そして心の中でそっと思った。たぶんきっと、百三十人でも足りない。もしかしたら、とっくの昔に二百人くらい軽く突破している可能性だって有り得る。
つくづく、今度の恋人こそが、彼の運命の相手であることを願った。
暫くジェレミーとの話が続きます。