第三話 十八歳
社員寮に向かうまでの間、私たちは無言だった。もし、一方が口を開いても、険悪な空気に更に拍車をかけるだけだっただろう。辺りはすっかり暗くなっていた。寮は歩いて通える距離にある。その建物の前に辿り着いたのは、十時二十一分だった。寮監に挨拶して、男を紹介する。
「遅くにすまない。今度、うちの研究室に配属された新人、ラダー君だ。既に聞いているだろうが」
「ああ、リック、話は聞いてる。カルディックのセントラルアカデミーを最年少の十八歳で首席で卒業した天才少年って噂だな。しかし、こんなゴツくてデカイのが来るとは思わなかったよ。これじゃまともに大学出た連中よりフケて見えるんじゃないか?」
それを聞いた瞬間、私は思わず背後を振り返った。そこには撫然とした表情で、私と寮監を見つめるラダーがいた。
「十八歳だと!?」
私が叫ぶと、寮監は首を傾げ、ラダーは溜め息をつきながら首を振った。
「なんだ、知らなかったのか、リック。相変わらず無頓着というか、仕事中毒というか。ここ一週間、寮内で一番の噂だぞ。たぶん知らないのはお前と本人だけだ」
「信じられない」
私が呟くと、ラダーは呆れた口調で言った。
「それは俺の台詞だ。部下の経歴も年齢も知らずに、上司面だけはするような人間がいるとは知らなかった。俺はつくづく世間を知らない」
それを聞いて寮監は好奇心を示す。
「うん、なんだ? リック、お前でも上司ぶったりすることがあるのか?」
私はカッと頬が熱くなるのを感じた。
「それよりもジェフ、彼の部屋は何処なんだ?」
そもそも、こんな時間に寮監を訪ねたのは、ラダーの部屋が何処なのか、本人も知らなかったからだ。荷物は業者が既に運び込んでいるという話だったから、寮監は確実に知っている筈だ。
「おいおい、それも知らないのか? それとも新手の冗談なのか、リック。君と同室だろう?」
「「……………」」
私とラダーは同時に固まった。
「え、本気かよ、リック。今日一日、寮内はその話題ばかりだったんだぞ。誰もお前にその話をしなかったのかよ?」
「あんた、嫌われてるんだな。友達いないんだろ」
追い討ちをかけるようにラダーが言った。寮監はきょとんとする。
「友達がいない? まさか。リックにとって一番の友はアイクかも知れないが、寮内でリックを嫌ってる人間なんて一人もいないだろう」
「大袈裟に言うな。それはジェフがそう思ってるだけで、私は人から好かれるような性格じゃない」
「だよな」
とラダーが相槌を打つ。
「ところでアイクってのは?」
「アイクは仕事オタクのリックがこの世で一番夢中で愛している人工知能の名前だよ」
ラダーの疑問に寮監が答える。
「だから、大袈裟に言うな、ジェフ」
「相変わらず、照れ屋で恥ずかしがり屋だな、リック。人工知能だけじゃなくて、たまには人間にも目を向けてくれよ」
ラダーは白い目で私を見る。
「なるほど。確かにあんた、俺の見る限り三時間はキーボードで人工知能と会話するのに夢中だったもんな。それじゃ、人間付き合いなんて面倒になるだろう。人間との会話や約束なんか当然どうでも良くなるわけだ」
ラダーの言葉に寮監が興味津々な顔になった。
「なに、なんだ? リックのネタか?」
「判った、ジェフ、また今度飲みに行こう! じゃあ、またな」
慌ててそう言って、ラダーの腕を引き掴み、寮監室を出た。廊下に出たところで手を離す。ラダーは楽しい事でもあったように、ニヤニヤ笑っている。その顔は、確かに老けてはいたが、十代の少年のように見えないこともなかった。
「部屋へ行くぞ。もう十時五十分だ」
「あんた、寮監と友達なのか?」
「別にそれほど親しいわけじゃない。たまに一緒に飲みに行くだけだ」
私がそう言うと、ラダーは奇妙に顔を歪めた。
「え、でも、寮監のやつとは随分仲よさげだったじゃないか」
「ジェフは誰にでも、そうなんだ」
そう言うと、ラダーは顔色を変えた。
「……待てよ、あんた、本気で人間の友達いないのか?」
「お前には関係ない。余計な詮索する暇があるなら、さっさと寝ろ。明日寝坊などしても、私は起こしたりしないからな」
言い捨てると、一人で部屋へ歩き始める。
「ちょっと待てよ。一つだけ聞かせてくれ。あんたが人工知能の開発・研究をしている理由は、人間に友達がいないからか? 愚痴も文句も言わない人工知能を自分で作って、それを友達にするつもりなのか?」
揶揄の色はそこにはなかった。代わりに非難するような、一途で真摯でひたむきな何か切実で真剣なものが籠められていた。だから、私は答えた。
「人工知能は人間の代わりにはならないし、人間は人工知能の代わりにはならない。なれると思ったら大間違いで、了見違いだ」
そう言うと、ラダーはほっとしたように力を抜き、僅かに微笑んだ。
「……良かった」
抑えた声音だったが、それに安堵と喜びの色を感じて、おやと思った。振り返ると、ラダーはついと顔を横に反らし、言った。
「あんたが人工知能やロボット相手に抜くような変態じゃなくて、本当に良かったぜ」
聞き捨てならないその言葉に、年甲斐なく景色ばむ。
「なんだと?」
相手が自分より十三歳も年下だという事実は、頭から吹き飛んでいた。
「……私が何だと?」
カッと熱くなる。
「何を相手に、何を抜くんだ? 言ってみろ、ラダー。今、何て言った? 聞き間違いかも知れないから、もう一度言ってみろ」
「だから、あんたが人工知能やロボット相手に、マスターベーションするような変態じゃなくて、本当に良かったって。そんな変態野郎と一緒に仕事するのは、死んでもお断りだからな。想像しただけで反吐が出る……」
そこまでが限界だった。その瞬間、力加減なしで思い切り殴りつけていた。ラダーは勢いで吹き飛んで、廊下の壁に背中を強く打ち付けた。重い身体だった。右拳が痺れて、ジンジンと痛む。
「くそっ」
ラダーは背と腰をさすりながら立ち上がる。
「油断したぜ。ヒョロヒョロ青白い学者面で、こんなに手が早いとはな。だが、やられっ放しは性に合わないんでね。目には目を、歯には歯を、拳には拳をだ。この陰険不意打ち野郎!」
そう叫ぶと、ラダーは殴りかかってきた。その瞬間、私ははっと我に返る。次の瞬間、私は宙を舞っていた。床に後頭部から打ち付けて、目の前が真っ暗になった。
「おい、ちょっと待て! なんで受け身を取らないんだよっ、くそっ。おい、意識はあるか? 声が聞こえるなら返事しろ!」
慌てたようなラダーの声が遠くに聞こえるが、指一本動かせない。いくつかのドアが開く音がして、寮監や救急車を呼べといった怒鳴り声が飛び交うのが、聞こえてくる。まだ暗いままの視界に、ようやく動くようになった腕を、ゆるゆると伸ばすと誰かの手に掴まれる。
「良かった! 意識があるんだな? 目立った傷はないように見えるが、どこか痛むところはあるか? 気分はどうだ?」
その声に聞き覚えはあったが、誰のものか突差に思い出せない。
「……気持ち……悪い……吐く……」
「…………え?」
突如こみ上げてきたものを堪え切れず、その場に吐き散らしてしまった。苦い胃液と先程のクラブサンドの味が入り混じる。いつの間にか視界が復活していることに気付いたが、生理的な涙が溢れ、世界が歪んでいて、目の前であたふたしている男が誰かはまだ判らなかった。
「あぁっ、一張羅のスーツがっ……じゃなかった、おい、まだ吐きそうか? 身体は起こせるか? 吐瀉物で窒息死しないようにって、そりゃ意識のない場合だ! この場合意識はあるんだから……」
「……ラダー?」
上着を脱いだワイシャツ姿で、私の腕を取り、あたふたしているのは、ラダーだった。目が合うと、赤く狼狽した冷汗をかいている顔で、
「あ、あんたが悪いんだぞ……っ、じゃなくて……えぇと、その……っ」
頭の下に誰かの上着が敷かれている。それは私の胃液と吐瀉物で、ドロドロしわしわになっている。
「……ああ、くそ。そんな顔すんなよ、気色悪い。別にあんたのためにしたわけじゃないからさ。どう考えても俺が悪いし。でもあんただって悪いんだぜ? いつもは俺、こんなに短気じゃないのに。だいたい、八時間も人に待たされたことなんて、女相手にだってないんだからな。常識的に言っても二時間が限度だ。それ以上は相手が魅力的な美女だろうと、絶対お断りだって。……つーか俺、一体何を口走ってんだ。そうじゃなくて、この場合は……」
「独り言か?」
尋ねると、ラダーは耳まで真っ赤に染めて、信じられないという目つきで私を見た。
「お、俺がどんな思いをして……っ」
と、絶句する。私は変なやつだ、と嘆息する。と、慌てたようにラダーは尋ねる。
「そうだ、気分はどうだ? 病院行った方が良いか?」
その問いにこう答えた。
「病院よりも、酒とベッドが欲しい」
アル中かよ、とラダーがぼやいた。そこへ寮監がやって来た。