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孤高の天才  作者: 深水晶
第一部 嵐の予兆
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第二十五話 クラブサンド

「ラダー、お前は何が食べたい?」

「え? あ、いや、俺は別に何でも……って外で食べるのか?」

 驚いた顔でラダーは尋ねた。

「食堂じゃ落ち着いて話ができないだろう。外へ行くのが一番だ」

「といって、あんまり遠くには行けないだろ? この辺の地理知らないから、どこが良いかなんて、判らねぇよ」

「そうか」

「あんたは何が食べたいんだ? 好きなとこで良いぜ」

 はて、と考え込む。食べ物に好き嫌いを言った事は、一度もない。私の食事は、父が死に、社員寮へ入寮するまでは、住み込みの家政婦が作ってくれた。私は、彼女が作るシンプルな味付けの田舎料理が好きだった。父の仕事の関係で、オードブルを取って、家でパーティーを行う事がしばしばあったが、そういう料理は酒を飲むのには適していても、腹を満たすための食事だとは思えなかった。たぶん、料理にではなく、その場の雰囲気に、どうしても馴染めなかった気がする。

「……おい、黙って考え込むなよ。同行者が不安になるだろ?」

「そうなのか?」

「真顔で言うなよ。頼むから俺が隣にいる事、ちょっとは考慮してくれ。……まさか、決められないのか?」

「ああ、そう言えば、何処へ行くかという話だったな」

「って忘れてたのかよ!?」

 ラダーは素っ頓狂な声を上げた。

「いや、忘れてなどいない。他の事を考えていた」

「それを忘れてたってんだろ、クソっ。ちっ、しようがねぇなぁ。じゃあさ、ロルフがほら、言ってただろ? 『エイティーン・セクトのクラブサンド』。あれってどうなんだ? うまいの?」

 ああ、と思い返す。ロルフは、エイティーン・セクトというファーストフードチェーンの、鴨肉に粗挽き胡椒を効かせた、ボリュームたっぷりのクラブサンドが大好物だ。そう言えば、ラダーに初めて会った日、机の上に置かれていたクラブサンドは、エイティーン・セクトのものだった。すると、あれはロルフの差し入れだったのだろうか? そう言えばすっかりその後のごたごたで失念していた。

「エイティーン・セクトは、アスト本社の斜め向かいだ。ラダー、君は行った事がないのか?」

「あれって、かなりデカイ看板で遠くからでもあの18って赤い縁取りした黄色のロゴが目立つよな? 俺、駅から出て、あれを目印に、本社へ来たんだ。なんか派手派手しいけど、一体何の店かなって思いながら」

「目玉商品のクラブサンドのイラストも描かれているだろう?」

「その隣に水着の姉ちゃんが描いてあるじゃねぇか。だから、俺、そういう店かと最初思った」

「……こんなオフィス街に、そんな店は堂々と建ってないよ、ラダー。裏通りにひっそり並んでるんだ。ひっそりと言うには、少々色鮮やかで賑やかで、派手過ぎるが」

「教えてくれてありがとう。でも、俺、化粧臭い姉ちゃんは、男も女も苦手だから」

「男?」

「いや、そういうのがいたんだよ。……あ、いや、それはまあ、とにかくな」

「もう行ったのか?」

「好きで行ったんじゃねぇよ! リ、リカルドがさ……良い店知ってるからって……でも、俺、行きたくて行ったんじゃねぇぞ? リカルドがどうしてもって言うからな……」

「……十八歳の少年をそういうところへ連れて行くのは、あまり感心できないが、お前も一応社会人だしな。私も酒を浴びるほど飲ませた前科があるから、何かを言う筋合いはないが」

「一応ってのは何だよ? しっかりきっちり、どこからどう見てもばっちり社会人だろ?」

「そうだな。すまなかった。しかし、嫌なら断っても良いんだぞ? リカルドは別にそれを根に持ったりはしない」

 すると、ラダーは真っ赤になった。

「わ、悪かったな。ちょっと……ちょっとだけだぞ、興味があったんだよ。だから一時間くらいなら付き合っても良いかな、と」

「一時間で効かなかったのか?」

「二時間半めで別の店連れ込まれそうになったから、慌てて逃げたよ。量はそれほどじゃなかったけど──ああ、あんたみたいな顔色一つ変えない化け物級のウワバミ、他にいねぇよ──テンションすげぇ高くてキツかった。俺、どうもいくら飲んでも酔わない体質みたくて、ああいうのって居たたまれねぇよ。なんだろ、周りが乱れてくのに、一人だけ冷静で。リカルド、すぐ服を脱ごうとするし、俺、そんなもの死んでも見たくねぇし、なんか酔ってるくせに、やたら力あるし、途方に暮れたぜ」

「……それは疲れただろうな。リカルドに代わって詫びよう。すまなかった」

「いや、あんたに謝られたってしようがないし。でも、二度とリカルドとは飲みに行かねぇと決心したぜ。あれは乱れるなんてレベルじゃねぇよ。崩れてくんだ。養父がアルコールは人を腐敗させる原因の一つだって言った理由が、あれ見て良く理解できたよ。冷めれば正気に返れるのが麻薬と違ってまだ救いだな。飲み過ぎるとやっぱヤバイらしいけど」

「そうか」

「でも、俺は酔えないみたいだから、それがちょっと淋しいかな」

「淋しい?」

 問い返すと、ラダーは照れたように苦笑した。

「なんてのかな? 俺だけ取り残されて行くような気がする。皆が俺の知らない庭園へ流れて行くのにさ、一人だけ置いてきぼりにされて、俺は遠くからそれをじっと眺めてるだけなんだ。混ざりたいのに、混ざれない。俺は混じっちゃいけないって、誰かに最初からそう決められてるみたいなんだ。……酒を飲んでる席で、一人だけ正気でいるのって、そういう感じだよ。皆が乱れて困るのより、そっちの方がなんとなく嫌だ。まあ、あんたの酔い方は独特で……あまり有り難いとは思えないけど、一人きりにされてるって感じはしないかな。俺は酒席はほとんど経験ないから、あんたみたいのが少数派なのか、リカルドみたいのが少数派なのか、見当付かないけど」

「飲み方なんて、人それぞれだろう。私は、リカルドのように楽しく騒いで酔う事より、一人か少数で、ほとんど無言で静かに、つまみなどなく酒だけを楽しむ方が良い。酒席の空気ではなく、酒の味と香りと、酔いそのものを楽しみたいんだな」

「酔いってどういう感じ?」

「……ラダー。お前は全く感じないのか?」

 そう言うと、ラダーは困ったように笑った。

「ああ。全然何も感じない。だから、皆がどうして、あんな風になるのか、ちっとも判らないんだ。だから困ってる」

「いくら強いと言っても、舌に乗せれば、何か感じないか? 味覚や嗅覚の他に、ふわりと漂ってくる心地よい酩酊感が……」

「いいや。俺には、味覚と嗅覚しか感知できない。そして、その中にアルコールなどの他、うま味成分や水分がどういう割合で含まれているのか理解できる。数値に書けるかどうかはちょっと自信ないけどさ。……それをうまいか、まずいか、判断できるけど、酔いは来ない。あんたの、さ、秘蔵の酒とか言ってた、XOとかいう酒。あれ、すごくうまかったよ。あの後飲んだのも含めて、一番飲みやすくてうまいと思った。匂いもなんか甘いんだけど、甘ったるくなくて、むしろ爽やかな樹のような香りがして、なんだか変な酒だなって思ったけど」

「変な酒は余計だ。……あれはな、大昔に、フランス西部のシャラント地方と呼ばれたところを原産地とする酒でな、ワインには向かない酸味の強いブドウを原料に、ポット・スチルで二度蒸留され、オーク樽で八年寝かせたものを瓶に詰めて、数百年を経たものだったのだ。ブランデーであるのは間違いないが、その有名な原産地であった村の名を取ってコニャックとも呼ばれる。コニャックの規格は厳しくてな、余程の逸品でないと、XOとは冠されないのだ」

「げ……何それ? 数百年? 腐ってねぇの? それ」

「腐ってたら飲める筈がないだろう。おかしな事を言うな」

「だってそれ……そんな年代物、『崩壊』以前の文明の発掘品みたいじゃねぇか」

「その通りだ」

「え? その通りって……まさか、本当に……発掘品?」

「そう。非常に貴重で、この世に他に一つと見つかるかどうか判らぬ逸品だった。私の薄給では、次回はいつ入手できるかは、良く判らない」

「…………本当、悪かったよ」

「だから、お前のことは責めていない。私が悪かったのだ」

「……あんたの言い方、すげぇ嫌なんだよ。判った、奢りじゃなくて割り勘で行こうぜ。なっ、そうしよう!」

「別に、サンドイッチの一つや二つ、奢ってやる事くらい容易いものだ。二十個注文しても百連邦ドルで釣りが来る。あのXOに比べれば五十分の一以下だ。安心しろ」

「……うう、クソ。もう、勘弁してくれよ」

「だから責めてはいないと言っているだろう?」

「あんた、目が笑ってねぇんだよ。かえって恐いから、やめてくれ」

「そうか。それはすまなかった」

 頭を軽く下げると、ラダーは恨めしそうに私を見た。

「あんたの気持ちは良く判った。あのブランデーがうまかったのも、実に納得できた。俺は二度と飲めない、大金持ちのパーティーの酒席か、博物館に陳列されてもおかしくない逸品を黙っていただいた。だから、あんたにいつまでも恨まれて根に持たれてもしようがないと、こういう事だな?」

「だから、恨んではいないし、根に持ってもいないと言っているのに」

「……もういいや。この話題はもう、やめよう。なんか不毛だ。それより、さっさと店へ入ろうぜ?」

「そうだな」

 と頷いて、二人で店内へ入った。さすがに近所なだけあって、同じ社内の顔見知りもちらほら見える。

「二階席で食べる事にしよう。……お前は何が食べたい? あれがメニューだ」

 と、私は天井付近にあるパネルを指で指し示した。

「え? なんで? 今決めなくちゃダメなのか?」

「先に行っていてくれ。注文は二人まとめて私がする。混み合っているようだからな」

「いいよ。俺、自分で注文したいし」

「そうなのか?」

「ああ。そういうの、俺、好きなんだよ。あと、一人で席に座ってるのって、全員裸の宴席で一人だけ服着てる気分に似てないか?」

「……そういうものか?」

「俺にとってはな。って事で、悪いけど、一緒に並ぶよ。気ぃ使ってくれてありがとう」

「いや。単にその方が、効率が良いと思ったからだ。二人並ぶと時間がかかるし、場所も取る。まあ、会計が一緒ならば、二人が別々に会計するよりは、幾分ましだろうが」

「……あんたは、そういうやつだったな」

 ラダーは嘆息した。

「ま、とにかく並ぼうぜ。それが先だ」

「同感だ」

 二人で同じ列に並ぶ。会計が同じなので、別の列に並ぶ必要は無い。

「結構人がいるんだな」

「それはそうだ。昼食時間だし、ここはオフィス街だからな。アスト本社の他にも様々な会社のビルが建っている。近くに軽食を食べられるレストランや喫茶店もあるが、ここは安くて早いからな」

「うまくはないのかよ?」

「うまいという者もいる」

「……あんたは?」

「特別うまいとも思わないが、まずいとも思わない」

「……そうか。もしかして……あんまり好きじゃなかった?」

「いいや。そんな事は無い。悪くないとは思っている。この店の野菜は新鮮でシャキシャキして歯ごたえが良いし、特製パンは柔らかいのにべたっとしていなくて、食感が良いし、甘すぎずしょっぱすぎず、丁度良い。何より使用している肉類の質が良いな。焼き加減も問題無い」

「それでどうして評価が『うまいとも思わないが、まずいとも思わない』なんだ?」

「手頃な値段で、片手で簡単に食べられるのが、多忙な時には簡便でスマートでとても良いと思うが、時間に余裕があってゆっくりできる時にわざわざ足を運んで、列に並ぶのが苦手でな。味は全く問題ない」

「……ああ……なるほど……列に並ぶのが嫌なんだな?」

「別に嫌とは言っていない。苦手なだけだ」

「……あんたのことは屁理屈大王と呼んでやるよ、室長」

 それから仕事の事で細々と話していると、私達の番が来た。

「ラダー、先に注文すると良い」

「じゃあ、クラブサンド、Lで。ロルフの分もいるから、二つかな?」

「いや、ロルフはMで、私の分と合わせてMサイズ二つだ」

「了解。じゃ、クラブサンドはLを1つ、Mを二つで。……で、あと、ターキーと、卵と、ツナのMサイズ1つずつ」

「……そんなに食べるのか?」

「育ち盛りだぜ?」

 それ以上育つ気なのか、と心の中で呟いてしまった。

「あとドリンクはホット珈琲かな。ソースはバジルで、卵だけトッピングにチェダー付けて。う……ん、それくらいかな? あ、やっぱクラブサンドだけソースはトマトで」

「……ラダー」

「え?」

「お前、本当に初めてこの店へ来たのか?」

「なんで?」

「なんでって……その」

 随分慣れてないか?と思う。

「別に良いじゃん、そんなの。それよりほら、後が詰まってるんだから、注文しろよ?」

「私はクラブサンドだけで結構だ」

「飲み物は?」

「……こういう店の珈琲はあまり好きじゃない」

「店員の前でそういう事は言うなよ」

「お前が聞いたんだろう」

「あ。スープがあるじゃないか。あれ、どうだ?」

「すまないが、スープも必要ない」

「……サンドイッチ飲み物なしって結構きつくないか?」

「じゃあ、ミネラルウォーターを」

「メニューにないもの注文すんなよ。子供じゃねぇんだから。判った、ミルクにしとけよ。それなら問題ないだろ? じゃ、すみません。もう一つドリンク、ホットのミルクで」

「…………」

 店員が金額を告げ、私は五十連邦ドル札を出して、釣りを貰った。それから暫く呼ばれるまで待ち、トレイを抱えて二階へ上がった。

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