第二十三話 不適切な発言
今日は金曜日、週末だ。この作業は一人でしようと決めた。誰かに手伝って貰っても良かったが、自分でもあまり自信がなかったからだ。アイクのデータベースに、三年前の我が社の商品情報を登録していく。
自分は一体今、何を探し、何を求め、何を期待しているのだろうと、心の中で呟いた。機械的にキーを叩く指は、思考の内容とは全く無関係に、データを入力していく。データを入力するだけなら、頭を使う必要もない。慣れた指が、目で拾い上げる情報を、自動的に入力する。この瞬間は、いつも自分が、自動機械にでもなったような感じがする。勿論、自動機械は思考しない。何かに心を馳せたりする事も無い。ディスプレイの中に表示される文字が、淀みなく同じペースで増え、端まで埋まると次の行へカーソルが移り、それに従って左脇に表示されているスクロールが自動的に下へ降りて行く。データを入力し終えて、エンター・キーを叩くと、一覧画面が表示され、マウスで新規登録を選択すると、真っ白な入力フォームが画面いっぱいに表示される。
「……室長、珈琲、ここへ置いておくぜ?」
「有り難う」
ラダーの言葉に返す私の声も自動的で、機械的だ。ふと、ラダーの溜息か何かを聞いたような気がしたが、指や目の動きが止まることは無かった。しかし、口は勝手に開いた。
「……どうした?」
「あ、いや。……後で良いんだ。今、忙しそうだから」
「問題があるなら、すぐ言ってくれ。そういうのは、なるべく早く申告して貰えると非常に助かる」
と、手をようやく止めて、資料に付箋を貼って、閉じた状態で机に置いた。マウスで保存を選択すると、画面を閉じ、データベース登録用プログラムを終了させて、端末の電源を落とした。そうしてから、ラダーの方へ向き直る。正面から相手の目を見つめると、ラダーが困ったように唇を歪めた。
「あ、いや、そんなたいしたことじゃないんだ。ただ……昨日も言ったけどさ、プログラミング、やってみたいんだ。簡単なので良い。勉強したいと思ってる。資料整理も、アイクの語録の登録も、監視プログラムのバックアップや扱い方も、全部覚えた。もっと色々覚える事はあるんだけど、それと平行して、プログラミングを覚えたいんだ。ただの手伝いだけじゃなくてさ、自力で出来るように、『戦力』として役に立つように、勉強したい」
「……そうか。じゃあ、アンリに教えて貰うと良い」
「アンリに?」
「ああ。アンリは人に物を教えるのが上手だぞ? うちでプログラミングが一番上手いのは、リカルドとロルフだが、リカルドは他人に判りやすく説明するのが苦手だし、ロルフは親切丁寧だが、言葉や余談が多くて少々まどろっこしい。二人とも頼めば快く教えてくれるだろうが、お前に教えるのはあまり向かないだろう。お前がそれを理解できないとは思わないが、手っ取り早く覚えたいのだろう? だったらアンリが一番だ。ただ、アンリは自分に少々自信がなさすぎるから、お前がいつものように強い調子で物を言うと、面食らってしまうかも知れないが、それにさえ気を付ければ、アンリはお前のとても良い教師になるだろう。私からもアンリに頼むよ。たぶん、嫌がられたりはしない筈だ。お前がアンリを故意にいじめていなければな」
「俺は弱い者イジメなんかしねぇよ。気に食わねぇやつをぶっ飛ばすだけだ。俺はアンリが嫌いじゃないし、気にくわねぇとも思わない」
「それは良かった」
「あんたがアンリは良い教師になるってんなら、間違いなさそうだな。あんたが俺をいじめたり、からかったりしてるんじゃなきゃさ。それに、アンリは良いやつだしな。昨日の夕飯、俺、アンリと一緒に食ったよ。アンリには可愛い妹がいるんだって。アンリそっくりのふわふわの巻き毛のさ。今度俺に、紹介してくれるって言った」
私は思わず苦笑した。
「仕事には支障ないように頼む。では、アンリのところへ行こう」
そうしてデータ入力していたアンリの元へ行った。
「仕事中、すまない、アンリ。今、大丈夫か?」
「あ、室長。それに、カース。はい、大丈夫です。……あ、電源落とした方が良いですか?」
「いや、とりあえず、そのままで良い。アンリ、現在、お前の状況はどうだ? 少し、時間が取れそうなら、頼みたい事がある。急ぎではない、ちょっとした、仕事に無関係でもない頼み事なのだが」
「え……あ、はい。ぼくに可能なことならば。一体何でしょうか?」
「そうか、有り難う。ラダー、お前はとりあえず空いている椅子に座ってくれ」
「室長は?」
「私はこのまま立って話す」
「じゃあ、俺も立って……」
「良いから座ってくれ」
「……はい」
ラダーはおとなしく従う。アンリはきょとんとして私とラダーを見比べる。私が声をかけたのだから、この場にいるのは判るのだが、ラダーがいるのが何故か、見当が付かない様子だった。私は手短に話そうと、口を開く。
「端的に言うと、ラダーにプログラミングを教えてやって欲しい」
「ぇえっ!?」
アンリは目を大きく見開いた。
「そんなに驚く必要は無いだろう。私は、君が適任者だと思っている。リカルドに物は教えられないし、ロルフは説明が明快ではない。シエラは……あまりプログラミングは得意ではないし、人に教えるとなると、必要以上にプレッシャーを感じてしまうだろう。アンリ、君はおそらくラダーを混乱させるような特殊な専門用語を用いて説明したりはしないし、説明途中で話が脇道に逸れたり、一つのコマンドを説明するのに一時間もかけたりしないし、苛立って人に当たったりもしない。ラダーにプログラミングを教える教師としては、一番最適だと、私は思っているのだが……君は、どう思う? アンリ」
相手の目を見て言うと、アンリはごくりと喉を鳴らし、それでもこくりと頷いた。
「……判りました。彼にプログラミングを教えます。初歩的な事だけになるかもしれませんが、それでもよろしいですか?」
「それは、ラダーに質問した方が良いかな。……ラダー、君はどう思う?」
「最初からゴチャゴチャ説明されても困るから、最初は初心者向けの説明で十分だよ。やってる内になんとかなるだろ? 俺は早く使えるようになりたいんだ」
「だ、そうだ。アンリ、君が納得できるならば、話を受けて欲しいと思っているのだが、どうかね? 出来そうかな?」
「はい。やります。……あ、それで、それって今すぐ……」
「じゃなくて良いぜ、アンリ。あんたもやる事があるんだろ? あんたの暇な時で良いんだ。俺、このまま『厄介者』になりたくないんだが、『厄介者』以上に『邪魔者』にはなりたくねぇからな」
「そんな、邪魔だなんて、そんな風に思ったりしないよ。ぼくだけじゃない。皆、そうだよ、カース」
アンリの言葉に、ラダーは嬉しそうに笑った。
「そう言って貰えると、助かる。俺、すっげー嬉しいよ。これからよろしく頼むぜ、アンリ先生」
「えぇっ!? 先生はやめてよ! カース!! ぼく、そんな呼ばれ方、されたくないよ!!!」
アンリは甲高い悲鳴を上げた。その声に、シエラが無言でじろりと睨み付け、アンリは慌てて口を手で覆った。私は苦笑し、ラダーはごめんと謝る。
「……けどさ、俺、本気で感謝してるぜ? アンリ」
「まだ、ぼくは何もしていないよ。話を受けただけだ」
「いや、でも断られてもしようがねぇかなって、ちょっと思ったから。でも、受けて貰ったから、俺、一生懸命真面目な良い生徒になるぜ? 俺、見てくれはこんなだけど、根は至極真面目なんだ」
ラダーがにやっと笑って言うと、アンリは笑いながら頷いた。
「うん、知ってる」
その様子を微笑ましく見つめながら、なんとなくちょっと、淋しく感じた。嫉妬ではなく、疎外感。……ラダーもアンリも、私にはそれほど親しく接してくれないのにな、と、ちらりと思った。
すると、ラダーが急に私を振り返った。
「サンキュ、室長。あんたのおかげだぜ。やっぱ、ダメ元で言ってみて良かった。キスしても良いくらい感激してるぜ?」
「……やめてくれ」
私が思わず後ずさりすると、ラダーは声を噛み殺しつつ笑った。
「本気で嫌そうな顔すんなよ。冗談だろ? ったく、このオッサン、本当冗談通じねぇんだから」
「……カース。さすがにその言い方は、室長に失礼だよ?」
堪えかねたように、アンリが言った。
「ん、悪ぃ。……上司に対し『オッサン』呼ばわりをして、大変申し訳ありませんでした、ジーンハイム室長。以後、職場で二度と、このような不適切な言動をせぬよう、身を引き締めて心がけますので、ご理解いただきたく思います。大変失礼いたしました」
と、ラダーがぺこりと頭を下げた。その瞬間、私も含めて、室内の全員の視線が、ラダーの顔へと集中した。
「あ? ん? 何? 今の台詞、なんかどっか変だった? 俺、間違った公用語使ったか? たぶん、これで良いんだと思ったんだけど……もしかして、ものすごく不適切なこと、言った? クソっ、なんか本当言葉って難しいな。言語だけの問題じゃねぇみたいだ」
「……あ、いや、そうじゃない……そうじゃなくて、今の言い回し。一体いつ、何処で覚えたのだ?」
半ば呆然としながら、私は呟いた。尋ねるというよりは、呟いた、と表現した方が良い。実際、私はその言葉を、ラダーに言っていたが、ラダーに向かって言ってはいなかった。
「あん? 何処って……ここ以外の何処で覚える暇があると思ってんだ? あんた、いや、室長が話してるのとか、ロルフとかユージンとか、アンリとか、アストの社員の言葉を参考にしたつもりだったんだけど……何か間違ってたんだろ? だったら何がどう間違ってたんだか、教えてくれよ。そういう反応一番恐いんだよ。俺、バカだから、理解できねぇんだよ。頼むぜ、何が間違ってたんだ?」
「いや、言葉は正しい」
「あ? んじゃ、なんでそんな反応になるんだ? じゃあ、表現が不適切だった?」
「いいや、適切だった」
「じゃあ、T.P.Oにそぐわなかった?」
「いいや、それも十分だった」
「なら、一体なんだよ!? 俺を混乱させて楽しんでんのか!?」
「……そうじゃない。そうじゃなくて、すまない。お前を見くびっていた。お前がそういったきちんとした公用語を操れるとは思っていなかったのだ。とても、失礼な事をした」
「…………ええと」
ラダーはぽりぽりと額を掻いた。
「つまり、何か? 俺がきちんとした公用語を使えるはずがないと思っていたのに、俺がまともできちんとした公用語で喋ったから、皆ビビって固まってんの? そういうこと? つまり俺が失敗したわけじゃなくて?」
「……完璧だった。私以外の上司でも、お前のあの言葉を聞けば、お前を許すだろう。許さないというなら、それこそ上司失格だ。……すまない、ラダー。私はまだ混乱している。私の方こそ、不適切な事を言っていないか、心配だ」
「大丈夫。今のところ不適切に聞こえる発言はしてないと思うぜ。俺の主観だから、怪しいけど」
「だ、大丈夫です。室長。おかしくありません」
頷くラダーに、ユージンも口添えする。そういうユージンも私以上に混乱し、驚愕している。良かった、と言って良いのだろうか? 私だけでなく、ラダー以外の全員が、非常に驚いているようだった。
「いやぁ、さすがカースだな」
何とか立ち直ったリカルドが言った。
「今の、カッコ良かったぜ?」
と、リカルドがウィンクすると、ラダーは少々ぶすっとした顔でぼやくように言った。
「だったら、どうして皆、そんな反応するんだよ。俺、さすがにちょっと僻んじゃうぜ? すねて落ち込むかもしんねーよ。今ちょっと、凹んだ」
「判った! カース、お前にとびきり美人を紹介してやる!! 他の社内のキレイどころ集めて合コンしよう!! 大丈夫、お前が主役なら、よりどりみどりだぜ? そういう事は俺に任せとけ! 絶対確実だ。飲み会の幹事やるなら、俺以外の適任者はそうそういないぜ? あぁ、すみません。申し訳ありませんが、室長はお呼びできませんが、結構ですか?」
「え? 私は駄目なのか?」
別に行きたいとも思わなかったが、何だか少しショックだった。
「駄目ですよ、ラダーが主役なんだから。それに室長が行くって言ったら、シエラも来るかも知れないでしょ? そしたら小言うるさくて、羽目外せないじゃないですか」
あれが小言か?とラダーがぼそりと呟いたが、シエラとリカルドの耳には聞こえなかったようだった。
「いや、でも、リカルド。俺、アンリに妹紹介して貰う予定なんだけど」
「バカ言うな! アンリの妹が美人なわけあるか!! 俺が紹介する方がずっと美人でイイ女だ!!」
「……それ、不適切な発言だぞ?」
ラダーは呆れたように呟いた。
「いや、ぼくの妹だけど……そんなに美人ってわけでもないから」
アンリの言葉に、ラダーはガリガリと頭を掻きむしった。
「あぁ、もう、いいんだよ、アンリ。俺は年下で、くるくる巻き毛で色白で小っちゃい子が好みなんだ。年上のお姉様は苦手なんだよ。この会社に俺より年下いるか? お色気ムンムン系なんか、特にご免こうむるぜ」
ぼやくようにラダーが言うと、リカルドが一瞬硬直した。
「くっ……そ、そう来たか。確かに、アストに十八歳未満はいない。いないが……そうだ、清楚で上品な、優しい癒し系お姉様はどうだ? 疲れた時は膝枕以外に、胸枕までしてくれるんだ」
「む、胸枕……? そ、それってどんなのだよ?」
ラダーの顔が真っ赤に染まった。私は咳払いをした。
「リカルド、ラダー。頼むから、職場でそれ以上、不適切な発言はやめてくれないか? 特にリカルド、ここには女性社員もいるんだ。品に欠ける話題は控えてくれないか? 特に、昼食休憩でもない、勤務時間は」
「「……はい、すみません」」
ラダーとリカルドは揃って頭を下げて謝った。
「判ってくれれば良い」
そう言ってから、そっと静かにシエラの方を伺うと、彼女は下を向いて何か書き物をしていたが、その肩が怒りに震えていた。