第二十二話 月明かりの下
「……随分、遅かったんだな」
寮の自分の部屋の扉を開けると、ベッドの上に転がっていたラダーにそう言われた。
「……寝ていなかったのか?」
「話がしたかったからな」
そう言って、ラダーは起き上がった。
「俺、あんたが俺を子供扱いしてんじゃないかって思って、思わずキレちまったけど、男子トイレでアンリに会ってさ。アンリに話したら、『それは無理な話だよ』って。……あんた、俺のこと、何も判ってないガキだって呆れてる?」
「いや」
「……そっか。なら、いいや。悪い。俺が悪かった。……おやすみ」
「え?」
聞き返した直後に、ベッドの上から寝息が聞こえてきた。呆気に取られ、それから呆れ、溜息をついた。着ていた物をハンガーにかけて吊し、電灯を消し、シャツを身につけたまま、ベッドの中へ滑り込む。
「……あのさ」
闇の中で響いたラダーの声にぎくりとする。
「……俺、子供扱いされたくねぇんだよ、知ってた?」
「…………」
「そんだけ」
それからすぐ、寝息が聞こえてきたが、暫く私は眠れなかった。私はラダーを子供扱いしていないか? 答えは否だ。軽んじているとまでは言わないが、何をバカな事を言い出すのだ、と思った事だけは確かだ。それに、たぶん他の研究員達と彼を、同じには扱っていない。できるだけ区別しないようにと思っていたが、そうではないと思う。私は、他の研究員達に対しては、言えば理解してくれると信じているが、ラダーに関してはそうでなかったと気付いた。言っても理解しないだろう──相手は十八歳の子供だから。言うだけ無駄だ。暫く放っておいて、頭に上った血を、冷まさせる必要がある──そう、思っていた。自覚しなくとも、たぶん私はそう考えていたのだ。
赤面した。ラダーが知ったら怒り狂うだろうな、と思う。ラダーは確かに子供だ。感情に振り回されがちな無知な子供で、けれど、とても優しい。私などより余程、融通も利く。私に比べたら、彼の方が人格者だろうと思う。もっとも、私と比較すれば、誰だって人格者で、とても優しい。私はたった一人すらも、まともに愛せなければ、信頼することもできない、性格破綻者なのだから。
例えば父を、愛している。とても尊敬している。だから、その死に際しては、私としては珍しく、涙を流した。こぼれ落ちる涙にふと、ああ、私にはちゃんと涙を流す機能があったのだ、感情も心情もある人間だったのだ、とふと安心もした。不謹慎だ、と思いつつ、微笑みながらも、悲しみに浸った。私は自分が肉親の──敬愛する父の死にも──泣いたりすることはできない人間なのではないかと、密かに怖れていたから、涙する自分には安堵した。大丈夫、私の心は枯れていない。父の死を悲しむと同時に、私は自身を慰撫していた。仮定するまでもなく、私のような人間は『ナルシシスト』と呼ぶのだろう。しかし、父の死を知り、その葬儀を執り行っている間よりも、その後の方が、喪失感は深かった。
葬儀を終え、父の遺体を墓地に埋葬し、帰宅した際に、私はうっかり父にただいまと言いかけて、もう父はこの世にいないのだと思い返した時、胸を貫く寂寥と悲しみ、喪失感に声も涙もなく泣いた。そちらの方が、純粋に『泣いた』と言えるだろう。その時の私は、父の死とその喪失のみを、嘆いた。傍にいてくれた親友、ジェレミーはそんな私をそっとして、無言でとっておきの紅茶を入れて薦めてくれた。「疲れた時は甘い物を入れた方が良い」と、父がお気に入りだった庭の杏で家政婦が作ったジャムを入れて、渡してくれた。一人ではないという事が、あれほど嬉しく、心強かった事は、他に無い。「ところでこれは要るか?」と笑って振って見せたウォッカの瓶に、私は無言で頷いた。飲みたい気分だった。
でも、私は、ラダーのように父を慕って甘えた事はただの一度も経験が無い。人それぞれだと思いながら、私は本当に父を愛していたのだろうかと、疑問に思う。もし、私が父を愛していなかったというのなら、私は誰も──その存在を有り難いと思い、常日頃感謝しているジェレミーですらも──愛していないという事になる。
嫌な考えだ、と思う。シンプソン夫人は「あんたは考えすぎだね」と笑って言った。「そういう時は何も考えずに寝るのが一番さね。寝ている間に、もう一人の見えない自分が、そういったごてごてしたものを、全部きれいに掃除してくれるのさ。だから人間に睡眠は必要なんだ」
それを聞いた時、私は思わず笑ってしまった。面白い比喩だ、と思いながらも、確かにそういう事はあるかもしれないと思った。『もう一人の見えない自分』というのはともかく、それに似た『何か』が、自分の心に沈殿した嫌な感情や、細々とした思惑と呼べない小さく淡く茫洋とした思いの切れ端を、集めて綺麗に整理し、まとめてくれる。それは無意識下の『自分』が行っているのだろうから、それを『もう一人の見えない自分』と呼ぶのは、あながち間違いとは言い切れない。私達の身体と心は、自分では意識しない、見えない場所で、常に活動し続けているのだ。それを人によって、小さな小人や妖精に例えたり、もう一人の自分と例えたりするのだろう。なんとなく、そう思った。非現実的だと笑い飛ばすのは、いささか浅薄だ。
ラダーに弁護士の事を聞いてみよう。その方が、私が社内で動くよりも話が早いかも知れない。職業柄、またその職務上、色々知っているだろう。守秘義務はあるだろうが──それこそ、年の功というやつだ。ラダーよりは上手く聞き出せる自信がある。ラダーは、と考えて、思わず苦笑する。きっとラダーはあの性格だから、直球で詰問したのだろう。そして見事に玉砕したわけだ。可愛らしいけど、少々バカだとも思う。でも、彼の年頃なら、まだそれで良い。
自分の場合はどうだっただろう? あまり可愛らしい子供とは言い難かった。むっつりとして、無愛想で、父とジェレミー以外とはほとんどまともに口を利かなかった。お高く止まっているなどと陰口を叩かれた事もあったが、そういうつもりはまるでなかった。単に、興味がなかっただけだ。それをお高く止まっているというのならば、間違いはない。本当のことを指摘されただけだ。それに対して反論・口論する気も全く起きなかった。ジェレミーは呆れていた。彼はしょっちゅう喧嘩をした。私にはあまり理解できない理由で喧嘩をした。大切な恋人の肩に触れられたからと言っては相手を殴り、相手と目が合って自分が睨まれたからと言っては殴り、「女にルーズ」と言われては相手を殴った。本人には言えないが、客観的に第三者として、詳しい事情も知らずに観察すれば、最後のはあながち間違いではない。ただ、どの女性に対しても等しく深い愛情を、一秒あれば抱けてしまうというのが、ジェレミーなのだ。軽薄に見えても、その都度、本気だ。彼は女性に恋するために生きていると言っても間違いではない。それだけではないが、生活の大半は、まだ見ぬ女性、あるいは最愛の恋人のために費やしている。その姿は健気さや律儀さすら、感じるほどだ。もっとも、当の恋人にそれが伝わっていないようであるのが、いささか気の毒だと思う。
しかし、ジェレミーは私がそれをフォローする事など考えてもいないし、望みもしないだろう。残念ながら、そういう事は私の得意分野ではない。したがって、私は彼が入れ込み、没頭し、破れ、傷付き落ち込む姿を、ただ黙って、観察するしかない。何かできることがあるなら、やっても良いが、かえって藪蛇になりそうだった。不得手な事には、下手に手を出すものではない。事をこじらせれば、私は親友を一生失う事にもなりかねない。許してくれたとしても、気まずい思いをすることになるだろう。
私はラダーのベッドをそっと見遣った。もそり、とラダーが寝返りを打つ。右肩と腕が、布団からはみ出していた。窓から差し込む月明かりが、それを照らしている。私は苦笑しながら、ラダーのベッドに音を立てぬよう気配を殺して近寄り、そっと布団を掴んだ。その瞬間、ラダーの目がぱっと開いた。
私は思わず、息を呑んだ。ラダーの琥珀色の瞳は、月光を受けて、きらりと金色に光って見えた。その眩しい強い光に見据えられて、私は硬直した。
「……何だ?」
不機嫌そうな、とがった声。
「ああ……すまない、起こしてしまったようだな。肩と腕が、出ていたようだから……」
「……あぁ、これか」
瞳は緩み、引き締められていた唇も緩んだ。そうすると、ラダーの顔は、とても優しく見えた。
「これくらい、気にするなよ」
ラダーは言った。いつもの口調だった。
「でも、風邪を引く。……部下が体調を崩すのは、上司としては困る。それが不用意な原因であるなら、尚更だ。避けられるトラブルは、事前に避けたい。肩と腕を布団の中にしまったからと言って、必ずしも風邪を引かないとは限らないが、可能性は低くなる」
「……あんた、そういう言い方しかできないのかよ?」
ラダーは呆れたように、けれど表情は緩ませたままで言った。
「私は何かおかしな事を言っているか?」
「そうじゃなくて。もうちょっと言い方ってもんがあるだろ? 別に俺に優しくしろって言ってるんじゃねぇよ。誤解されないように言えって言ってんの。まあ、なんとなく言いたい事も、考えてる事も判ったけど、そんなんじゃあんた、誤解されるだろ? 幸い、あんたの部下は優しくて、あんたの事もある程度は、理解してくれてるみたいだけど、世の中そういう心の広いやつばっかじゃねぇだろ? あんた、オッサンのくせして、本当バカだな。救いようがねぇよ」
「……そこまで言われなくちゃならない程か?」
「ま、俺はあんたのこと嫌いじゃないけどさ。嫌な野郎だとは思うし、本当ムカつくオッサンだけど、嫌いじゃない。あんた、おっかしいしさ。バカで、オッサンのくせに、なんか俺より危なっかしくて、心配だ」
「……私は、お前に心配されなくてはならないほど、危なっかしくなど無い」
「あんたには少し、自覚が必要だな。面白いけど、呆れるよ。でさ、一言だけ忠告」
「……何だ?」
「寝ている時の俺には、例え腕や腹が出ていようとも、近寄らないこと。俺、神経質だから、その状態で寝ていられる程鈍感じゃないんだ。風邪なんか絶対引かないし、引いたことねぇから気にすんな。もし、風邪引いたら、裸で逆立ちして、寮内練り歩いても良いぜ?」
「バカなことを言うな」
「本当だって。俺、頑丈なんだ。でも、睡眠は必要だから、それを邪魔される方がまいるんだ。頼むよ、勘弁してくれ。俺を殺す気かよ? 室長さん」
「…………」
「養父も、睡眠だけはきちんと六時間、確実に取れって言ってたからな。これだけは、何があっても絶対なんだ。というわけで、俺の睡眠妨害するのはやめてくれ。本当に頼むよ、リック」
リック、という言葉が、何故か耳にくすぐったかった。
「……判った。今後気を付ける」
「判ってくれりゃあ、良いんだ。じゃ、おやすみ。リック」
「……ああ、おやすみ、ラダー」
ラダーは苦笑し、それからぱたりと力を抜いた。すぐに寝息が聞こえて来る。動物みたいだ、と思った。まるで、野生の、人に慣れない動物みたいだ、と。人が近付くと、寝ている時でも、気配を察して目を覚ますなんて、本当に野生動物のようだ。
あの、月明かりの下で見た、金色に光るラダーの瞳は──なんだか自分とは違う、別の『生き物』のように見えた。ラダーはあの時、怒っていたのだろうか。不用意に近付いた私のことを。苛立ちと、怒りと、警戒を隠さない、真っ直ぐな瞳。
私はもう、二度と、眠っているラダーを起こしたりはしないだろう。ふと、手が震えている事に気付いた。私は脅えているのだろうか? 野生動物のような、真っ直ぐな怒りを見せたラダーの姿に?
寝ているラダーの顔は、年相応の少年のようだった。