第二十一話 シンプソン夫人
その日の夜、職場を出た私は真っ直ぐ例のモーテルへと直行した。勿論、徒歩と公共交通機関を利用して、だ。用心して損をすることは無い。
「こんばんは」
モーテルの受付に座る、年齢不詳の老婆──親友ジェレミー曰く化け物婆さん──に声をかける。彼女の名字はシンプソンだ。ファーストネームはジェシカ。ちなみにジェレミーは彼女の名を知らない。知ったとしてもさほど興味は示さないだろう。
「ああ、良く来ておいでだね」
嗄れた魔女のような声で、シンプソン夫人は言った。確かに、私は十代前半頃、ジェレミーに彼女が化け物だと言われ信じ込んで、泣きそうになった事がある。当時は、昔、絵本か童話で見た魔女の姿そのものであるように見えた。今はそう見えない。有り難いことだと思う。
「お友達からの連絡はまだ無いようだよ」
「有り難うございます。これ、途中で買って来たものなんですが」
と、オイルサーディンの缶詰と、林檎とオレンジを入れた紙包みを差し出した。
「食事はもう済んだのかい?」
「いえ。まだです」
「じゃあ、うちで食べてお行き。裏から回って」
「よろしいんですか?」
「どうせ一人暮らしで、一緒に食べる相手もいないからね。連れがいるんならわびしい食事も少しはましになるさ」
私は苦笑し、肩をすくめた。
「判りました。では、有り難くお邪魔します」
そう言って、一度外に出て、裏口から回る。モーテルの建物の裏には、小さな扉がある。普段は鍵がかけられたままだが、目の前でその錠が開かれる音がして、扉が開かれる。
「さあ、入っておいで」
「はい、失礼します」
シンプソン夫人と共に、中へ入り、そして彼女の居室である部屋へ通され、テーブルの前の椅子を引いて腰掛ける。
「ポテトのスープと大麦パン、それに、鮭のホワイトソース煮込みだ。口に合わなくても、文句は言うんじゃないよ。ただでご馳走してやるんだからね」
「判っています。有り難くいただきます」
私は笑った。
「あんたが初めてここに来て、もう十年になるかねぇ?」
シンプソン夫人は白ワインをグラスに注ぎながら言った。
「十年以上経ちますよ。たぶん……十二年くらいには。ただ、ここのことは、それ以前から知っていましたが」
「うちが、近所のガキ共に化け物屋敷だの、幽霊がいるだの言われて、時折肝試しに使われてるのは知ってるよ」
「……それが判っていて、どうして放置してるんですか?」
「言っても聞かないガキなんか相手してられるかい。あたしゃ、そこまで暇じゃないんだよ。そんな暇があるなら、セーターの一枚でも編んでるよ。その方が余程有意義だ」
「相変わらずですね」
私は苦笑した。
「あんたも良くこんな婆さんの所へ来るね。通う相手は他にいないのかい?」
「あいにくそういう事と縁が無いんですよ。いい加減良い年齢なので、まずいとは思っているのですが」
「……あんたはちっともまずいとは思ってないし、焦ってもいないね。そういうのは判るんだよ。年寄りだからってバカにするんじゃないよ。女の勘は見くびっちゃいけない」
「……そう、ですね。問題だとは、思ってるんですが」
「あんたはね、欲しがりようが足りないのさ。それ以前に欲しいとも思ってないから、縁などあろう筈も無い。あんたが本気で結婚する気があるんなら、あたしの自慢の孫娘を紹介してやっても良いんだが、そんな気配はちっともないしね。そんな男に、可愛い孫娘など見せられないね。……あんたは何がそんなに恐いんだい?」
「別に、何も恐いなんて……」
「まあ、あんたの思惑も、心情も、その裏にあるものも、あたしにゃまるで関係ないけどね。あたしのようなトシになってから後悔したって、遅いんだからね。あたしの息子は、あたしを置いて、嫁とさっさと都市部へ移って、音沙汰無しさ。孫娘からの手紙がなけりゃ、あたしには文通する相手もいない。別にうるさい身内なんかいらないけど、さすがにこのトシで一人は不安になることも多いんだよ。あんたは男だから、あたしよりゃぁ、ずっとマシだろうがね。だからって、何にもしないでいたら、ただ時間ってものは過ぎるだけなんだよ。まあ、あんたが抱えている問題ってのが、少しは判らないではないんだがね」
「え……?」
「あんたは女に興味がないんだよ。だからといって、男に興味があるわけでもないがね。自分の半身としての存在を欲していなければ、求めてもいないんだ。あんたの身に一体何があったのかは知らないけどね。人間ってのは一人じゃ生きられないもんなのさ。こんなあたしにだって、昔は連れ合いがいたんだ。ま、連れ合いがいなきゃ息子も生まれないけどね。あたしがあの人と結婚したのは、それを望んだからさ。けど、あんたは、誰にも恋なんかしたことないだろう。何かを捨てても、別の何かを、誰かを、欲しいと思ったことはあるかい? 上辺だけ取り繕ってばかりの人生じゃ疲れやしないかね?」
「私は……」
自嘲の笑みを浮かべた。
「これ以外の人生を、知らないから」
「……甘えてんじゃないよ。あんたはあたしの身内じゃないんだからね。あんたみたいに自分の孫とそう変わらないみたいな年の子供がしょっちゅう入り浸るんじゃ、少しは愛着もわかないわけじゃあないし、可愛いと思ってやらない事もない。だがね、判ってるだろうけど、あたしゃあんたの本当の婆さんになってやる事も、母親代わりになってやる事もできないんだよ」
「……判っています」
「いいや、判ってないね。判ってるつもりになってるだけだ。まあ、あたしもそれが判っていて、あんたを突き放すことができないんだから、お互い様だけどね。あんたは本当、こんな婆さんの所で、無駄な時間を潰してちゃ駄目だよ」
「自分で自分を、年寄り扱いしては、駄目ですよ」
「……あたしゃ、他人と傷を舐め合うような仲にはなりたくないんだよ。そんなの惨めでくだらないからね。慰めて欲しいだけなら、他へ行きな」
「……優しいんですね」
「あんたは本当食えない子だね。頑固で律儀で、融通が利かない。死んだ連れ合いそっくりの性格だよ。全く嫌になるね」
「そんな立派な人間じゃありませんよ。何より私は嘘つきですし」
「嘘をつかない人間なんかいるものかい。そんなものいるなら、あたしの目の前へ連れて来な。じっくり見聞してやるさね。全く、本当嫌な子だね。叱られても貶されても突き放しても、にこにこ笑って。あまり笑ってばかりいると、バカに見えるよ」
「あなたの話を聞くのが、とても楽しいので」
「そりゃあ反吐が出るね。……それで、今度は一体何をするつもりだい?」
「さあ」
「……さあじゃないだろ? 何かお言いよ」
「自分でも判らないので。答えようがないんです」
「そうかい。あんたも面倒な子だね。少しはじっとして、お友達を安心させてやれないのかい?」
「……時折、思うんですが」
「何がだい?」
「私は、本当に、生きているのかな、と」
「……死んでるようには見えないけどね」
「自分でもそう思います……けど、、意味も意義もないなら、生きていても死んでいるようなものなのかも知れない、とね。でも、死にたいとは思わない。特別生きていたいとも思わないように。……でも、どうせ、いつか死ぬなら、生きていて良かったと思える人生を生きたいと思っています。……でも、なんていうか……その、『連れ合い』を見つけるとか子孫を残すっていうのは……そういうのとは、何か、違う気がするんですよね……」
「ナマ言ってんじゃないよ。まだたかだか三十そこそこしか生きてない若造が」
「無理に結婚してみるのも、違う気がして」
「そりゃそうだろ? 相手にも気の毒だ。相手あっての結婚だからね」
「そもそも、人を愛するっていうのがどういうことなのか、判るようで判らないような……」
「じゃあ、あんたはあたしのことどう思ってるんだい? お友達のことは? あんたが大好きだって言う親父さんのことは?」
「……そう、なんですよね……判ってるはずなのに……判ってるつもりなのに……時折判らなくなる……」
「良く判らないけど、何か落ち込んでいるのかい?」
「……落ち込んでる?」
「違うのかい?」
結局、あれからアンリと一緒に戻ってきたラダーとは一言も会話をしなかった。なんとなく、寮へ帰って、顔を合わせるのも嫌だった。モーテルに到着したのは、八時半を少し回った頃だった。
「……落ち込んでいるのかな……?」
「あたしに聞かれても困るけどね。あんたの事だし」
私は笑った。
「そうですね」
「ま、謝りたい相手がいるんなら早めに謝った方が良いし、何か言い損ねた相手がいるなら、なるべく早めに言っといた方が良いし。何にせよ、相手が生きている内の物種だよ。死んじまったら、どうする事もできないからね。良く判ってるだろうけど」
「……電話、借りても良いですか? お金は払いますから」
「ただで良いよ。多少懐痛めても大丈夫な程度には、小金を稼いでいるんだからね。電話代くらいで愚痴ったりしないさ。ただし、長電話はお断りだよ」
「そんなに長い電話はしません」
そう言って、電話を借りて、ジェレミーのアパートへかける。四回目のコールで、留守番電話に切り替わる。
「私だ、ジェレミー。エリックだ。……もしかしたら、ラダーの件に私の同期のルグランが関わっているかもしれない。ロバート・ルグランだ。また何かあれば連絡する。では、また」
そう言って、通話を切る。
「もう良いのかい?」
振り返ると、シンプソン夫人が、台所から紅茶を二つ運んで来たところだった。
「はい」
「まだ帰るには早いだろう? お茶を飲んでからお行き。慰めたりはしないけど、愚痴くらいなら聞いてあげるよ。特別待遇さ」
「有り難うございます」
私は礼を言って、頭を下げた。