第二十話 アンリの問題
思ったより早く、ラダーとアンリが戻ってきた。
「室長、申し訳ありません」
アンリが頭を下げた。その背後で、同様にラダーが無言で頭を下げる。
「……良ければ、事情を聞いても良いかな? アンリ」
ラダーがこちらを見ている。それには気付かないふりで、手前のアンリを見つめた。
「……その、ぼく、失敗しちゃって……」
「それなら、私が片付けといたわよ」
シエラの声が割り込んだ。途端にアンリは身を固くする。
「だから、その件は問題なし。全然たいしたことじゃなかったんです。室長に報告する必要がある件でもありませんでしたから。……ですから、室長のお手を煩わせるような事は全くありません」
シエラがこちらへ近付いて来る。アンリは顔を真っ赤にして、冷や汗を額に滲ませ始めた。
「そういうわけなので、気にしないで下さい」
にっこりシエラは笑うが、有無を言わせない口調である。だが、いくらなんでもそれはまずいだろうと思う。
「どんなに些細なミスでも、私は上司だ。何かあったのなら、報告して欲しい」
そう言うと、アンリは真っ赤になり、シエラは頭を下げる。
「出過ぎた事を申しました」
「判ってくれれば良い」
うつむいてしまったアンリの肩をそっと叩く。
「……話してくれるかい? アンリ」
すると、アンリは泣きそうな顔で私を見上げた。
「……そ、その、僕……データのバックアップを取ろうと思って、誤ってデータの一部を欠損させてしまったんです。すぐに直そうと思って、バックアップデータから欠損させたデータを読み出して保存して修復しようと思ったんですが……シエラ先輩が上書き保存したばかりのデータを、昨日のデータに差し替えてしまったんです。ちょうど先輩がそのデータを読み出して、作業中だったので。でも、ぼく、ちっとも気付かなくて……先輩が保存してファイルを閉じた直後に、データを保存してしまったんです。上書き保存する際はちゃんと警告メッセージが表示されるのに、何も気付かずにエンター・キーを押したものだから……それで、シエラ先輩がもう一度データを開いて、それが判明したんです。シエラ先輩に叱られてしまって……ぼく、自分が恥ずかしくて、情けなくて逃げ出してしまって……本当は、そっちの方がずっと恥ずかしいし情けないって判ってるのに……すみません。職場放棄してしまいました。本当に申し訳ありません。謝ったくらいで、許していただけるとは思いませんが、反省してます」
「……反省してるんだね? だったら私がそれ以上言う事は何もない。ところで、シエラは君に何て言ったんだね?」
その瞬間、アンリはぎくりとしたように顔を強張らせた。
「……すみません、室長。私はこう言ったんです。『ちょっと! あなた何考えてるの!? 私の午前中の四分の一の仕事時間がパアじゃない!! どうしてくれるのよ!! 謝るだけなら、子供にだってできるわよ!! ただでさえ時間が惜しいってのに、余計な手間を取らせないでよね!! だから私は言ってるでしょ? 私は子供の面倒が見たくてアストに入社したわけじゃないだからね! 泣いて許して貰えると思ったら甘いのよ! そんなものが身を守る武器になるとでも思ってるなら、お門違いよ!! もう一度小学校からやり直したら!? 役に立たないグズの相手なんかしてる暇ないのよ!! さっさとその顔洗ってらっしゃい!! 私の邪魔するのなら、もう戻って来なくても構わないわ!! 消えてちょうだい!!』……そうだったわよね? アンリ」
アンリはそれに、頷く事もできずにぶるぶると震えている。
「……言い方がきつ過ぎるんじゃないかな?」
「自分でもそう思います。反省しました。あれくらいのことで、大人げなさすぎたと思っています。……一応言うけど、怒ってないわよ、アンリ。……ただ、あなたの泣き顔が鬱陶しかっただけ」
その言葉にアンリはびくりと肩を震わせ、泣きそうな顔になる。
「……シエラ」
「判ってます。……アンリ。あなた男ならそうやってすぐ泣いて誤魔化すのやめてちょうだい。あなたはここに何しに来てるの? 仕事しに来てるんでしょ? そりゃ、私の言い方がきついのは判ってるわよ。でも、他の部署ならもっと言われるわよ? あなた、初めからここだから判ってないんでしょうけど、あなたみたいのは、一ヶ月もしない内にいびられて追い出されるわよ。私なんかまだ親切な方なんだから」
……全然フォローになっていない。
「シエラ、そういう言い方は……」
「室長は黙っててください」
シエラはぴしりと言う。
「私が前にいたチームではね、新入りは一年は珈琲係と掃除係と肩揉みをやらされてたの。それをもって新人教育だなんてのたまうバカがいたわね。で、相手が若い女となると、腰まで揉ませるの。何て言うと思う? 『俺の背中にまたがれ。全体重を載せて押してみろ。違う、もっと、もっと、もっとだ。ええい、判らないやつだな、もっとその胸を俺の背中に押しつけてみろ。お前の胸は一体何のために付いている? デカイ胸をぎゅっと押しつけて、もっと俺にサービスしろよ、子猫ちゃん』ってこうよ? 冗談じゃないわよ。私の胸はそんなにお安くないわ。少なくともセクハラオヤジの背中に押しつけるためにあるんじゃないわよ。いつか子供を産んで母乳を飲ませるために付いてるのよ。冗っ談じゃないわ。あなたのいる会社は、ここはともかく、他はそういうバカがいっぱいるところなの。あなたは男だから、間違ってもそういう目には遭わないでしょうけどね? だからって泣いて済ますやつはもっとバカにされるのよ? 私は、あなたがどうなると知った事じゃないけどね、聞いたわよ? あなた寮内で白い豚だって言われてるんだって? ちなみにそいつのにやけ面が気にくわなかったから、顎に一発入れておいたから、もしかしたらあなた仕返しされるかもしれないけど、立ち向かうなり、逃げるなり適当に対処しておいてね。そこまで責任持てないから。でも、一生逃げ切ることなんかできないんだから、男だったら言われるままになってないで、文句の一つも言ってやりなさいよ。大体、何されてもいいなりになってるバカなんか、私、大っ嫌いなんだから!」
「え……ぇえっ……ま、まさかそれって……フレッドとディーターのことじゃ……」
「そんな名前だったと思うわよ?」
「ちょっ……! や、やめてくださいよ!! シエラ先輩!! 今朝のミスで怒られるのは仕方ないですけど、どうして、そんなひどいっ!! ぼくは寮にいて彼らと同室で、シエラ先輩みたいに逃げられないんですよ!? どうしてくれるんですか!!」
半泣きになってアンリが言った。
「待ってくれ、アンリ。君は、その二人に虐められているのか?」
尋ねると、アンリは真っ赤になった。
「……あ、いえっ……そのっ……!!」
「もし、問題があるなら私が寮の監督であるジェフに言って、何らかの注意を与えるか、部屋割りを変えて貰うこともできる。なんなら、私の部屋にベッドを運び込めば、あともう一人くらいは全く問題なく……」
「あっ! いえ!! そんなっ!! 大丈夫です!! 全然問題ありません!!」
そう言いながらも、アンリは泣きそうだ。
「しかし、アンリ……君は今……」
「いや、本当、大丈夫です!! 問題なんて何一つありません!!」
「……室長、そのフレッドとディーターって、二人ともルグラン室長のチームにいる下っ端です。あそこのチームは、下っ端なんかにろくな仕事与えませんから、資料整理と企画書作成の手伝いと、キーパンチャーくらいしかやらせてもらえなくて、腐ってるって噂です。ま、あそこは仕方ないですけどね。どうも自分はエリート様だと思ってる、それこそ白くて中身が腐った豚共が偉そうに、人間用のスーツ着てネクタイ締めて闊歩してるところですから。その雑用係が腐っているのも、多少は仕方ないかもしれません。でも、だからってその豚共が、何をしても良いのかという点には、私は正直疑問ですけど」
「シエラ先輩!!」
アンリは両目に涙を浮かべて悲鳴を上げた。
「泣くくらいなら、自力でどうにかしてみなさいよ。できないみたいだから、言ってあげてるんだけど?」
「……よ、余計な事言わないでください。先輩は、ぼくをいじめて楽しいんですか?」
「違うわよ。私は、自虐的で自分が耐えれば全て解決するなんて考えてるバカな連中が、男も女も嫌いなだけ。くだらない連中をのさばらせておいて放置して、更に被害を広げてるのよ? 確かに私はあなたをいじめて楽しんでるかもしれないけど、好きでいじめてるわけじゃないわよ。あなたが自分でいじめてくれって言ってるだけでしょう?」
「そんなっ……ひどっ……!!」
とうとう、アンリは泣き出してしまった。
「アンリ」
非常に困惑しながら、アンリを見つめ、シエラに視線を移す。ラダーが背後から、そっとアンリの肩に手を置いた。
「……シエラ」
シエラは溜息をついた。
「だから、そうやってすぐ泣いて済まそうとするところが嫌いだって言ってるのよ。まあ、でも、フレッドとディーターに関しては、素敵なお守りをあげるわ。……はい、これ」
と、シエラはアンリに写真を差し出した。
「……えっ……これ……っ?」
「友達で写真が趣味の子がいるの。たまたま寮の庭を撮影してたら、撮れたんですって。これ見つけるのに結構時間かかったわ。ちなみに、その窓は、女子寮のシャワー室よ。ネガは手元にないけど、これをカラーコピーしてやれば、少しは相手を黙らせられるでしょ? というわけでこの件は解決ね」
「…………」
一瞬、室内が静寂に包まれた。
「……シエラ?」
問い返す私の声は裏返ってしまった。
「結構人脈は広いんです。男性社員には嫌われがちですが、女性社員で私のファンだって言ってくれる子がいて。ヌード写真一枚でチャラですよ」
するとリカルドが呟く。
「えっ、それって……まさか」
顔が青ざめている。リカルドだけでなく、ロルフ、ユージン、アンリもだ。ラダーは口笛を吹いた。
「俺もその写真、頼んだら貰える? シエラ先輩」
「男の子はダメ。私のヌードはそんなにお安くないの。百万連邦ドル積んでくれたら、ちょっとは考えてくれても良いわ」
「百万連邦ドルで良いの?」
「言っておくけど分割じゃダメよ。キャッシュで一括。誰もいないところで見せてあげても良いわ。気分が良ければだけど」
「……えっと……先輩……一体なんでこんな……」
アンリが真っ青な顔で、譫言のような口調で呟く。声が少し掠れている。
「気分よ。礼をする気があるなら、珈琲ドリッパーを洗い直して。リカルドの洗い方って乱雑で汚いのよ。あれは洗ってるだなんて言わないわ」
「……シエラ」
リカルドが真顔で声をかける。
「なによ? リカルド」
「……俺が百万連邦ドル積んで頼んだら、写真撮らせてもらえるのか?」
暫くシエラはリカルドを見つめた後にこう言った。
「今度言ったら、殺すわよ」
実に凶悪な、魅力的な笑顔だった。