第十五話 猫の話
半ば予想されていた事ではあるが、室内は重い沈黙に静まり返っていた。さすがに泣き声やすすり泣きなどは聞こえなかったが──アンリが在室していたならば、それも可能性として有り得ただろう──ほとんど無音である筈の、カードによって開かれる自動扉の開閉音が、大きく響き渡ったような気がした。
その私の感想は、皆にとってもそうであったのか、室内にいた三名は、ぱっと顔を上げて、私の顔を見つけた途端、ほっとしたように緩んだ。その顔を見て、本当に、皆にすまないことをしたと、心の中で陳謝したが、実際それくらいでは済まされないだろう。
「すまない。現在の状況はどうなっている?」
ラダーにも尋ねたことだが、もう一度私は質問した。彼を信用していないわけではない。彼が知っている事態から、更に変化している可能性もある──というよりは、その可能性の方が高い──からだ。
シエラが立ち上がった。
「ロルフはアダム部長の部屋へ向かいました。その後、部長からの連絡はありませんから、おそらく現在も、そこにいると思われます。アンリは席を外していて、戻っていません。カースは室長を迎えに退室したので、我々三名で、先日のリカルドの提案を受けた、アイクの人格プログラムの修正および調整とそれに伴う若干のテストを行っていました。大体の調整は終了して、つい先ほど、三回目のテストを完了したところです。……これは私の主観ですが、この修正によって、より、アイクの感情表現の選択肢とアクションにバリエーションが増えて複雑になったと感じます。別の言い方をするなら『悪くないじゃない!』と思います」
「……それは、褒められてると取って良いか? シエラ」
リカルドは言った。
「褒めているのよ。あなたもやれば出来るじゃない。でも、常日頃からもうちょっと、頑張って欲しいけどね」
「……有り難く拝聴しておきますよ、シエラの姉御」
リカルドが言って、肩をすくめると、シエラが殺気立つ。
「ちょっと! 私の方が年下なのに『姉御』はないでしょ?」
「年下って、たかだか三ヶ月程度の違いじゃ……」
「あなたね。自分の恋人に対してもそういう態度なの? そんなんじゃ確実に振られるわよ。近い将来、必ず、きっと。絶対そうなるわね」
「お、俺の私生活なんか、シエラに関係ないだろう!? 冗談でもそんな不吉なこと言うな! 俺に恨みでもあるのか!?」
リカルドは半泣きになって叫んだ。
「リカルド、とりあえず、シエラに謝罪した方が良いよ」
憂鬱そうに、ユージンがぼそりと言った。
「あら、ユージン。珍しいわね、私の肩を持ってくれるわけ?」
「……頼むからこっちへ矛先は変えないでくれるかな? 俺が君に何かしたっていうなら、甘んじて受けるけど」
「何よ、その言い方。私がまるで、凶暴で暴力的な人間みたいじゃない。気分悪いわ」
これはいけない。
「シエラ。話し中すまないが、先日君が提案していた件、じっくり聞きたいと思うのだが、時間は良いかな?」
私がそう言うと、シエラはそれまでの険悪さが嘘のように、愛らしく魅力的な笑顔でにっこり笑った。
「判りました、室長。それでは会議室で。……申し訳ないけど、ユージンまたはリカルド、私と室長に珈琲入れてくれる?」
ユージンとリカルドは顔を見合わせる。
「判った、後で持って行くよ」
と、リカルドが答え、ユージンは頷いた。シエラは満足そうに微笑んだ。その様子を、ラダーが複雑な表情で見つめていた。顔に『これがあんたのフォローかよ』と書いてある。私は、シエラに気付かれぬようこっそり肩をすくめて、返答した。とりあえず、今は下手なフォローはかえって逆効果だと思う。だから、暫くほとぼりを冷ます時間を与えた方が良い。
「それじゃ、何か私宛てに連絡が入ったり、急ぎの用事があったら、声をかけてくれないか?」
と言うと、ユージンが極上の笑顔を浮かべて答える。
「了解しました、室長」
リカルドの方は、机の引き出しから自分専用のタオルを取り出して、自分の額や首筋にかいた汗を、少々大袈裟にぱたぱたと拭っている。シエラの目に入ったら、まずいだろうと思い、その視界に入らぬように、彼女を会議室へと促した。
「それじゃ、行こう」
「はい、室長」
頬を紅潮させて、頷くシエラは、とても愛らしく魅力的な女性に見える。しかしながら、それに対して私はとても彼女を、女性として認識することはできない。まあ、しかし、上司の立場で部下に劣情を抱くのは、あまり感心できる事とは言い難いので、別にそれで構わないのだろう。
これで時間ができたので、彼らはおそらくほとぼりが冷めるまで、会議室には近寄らないだろう。珈琲を運ぶ時だけは別だが、リカルドがその役目を自発的に引き受けたようなので、リカルドとユージンの間で問題が発生することは無いだろう。シエラの説明を聞いた後で、彼女の不満や愚痴に少々付き合ってから、必要に応じて仲裁すれば良いだろう。なんとなく、愚痴に付き合った時点で、仲裁は必要なくなるのではないだろうかとも、思われるのだが。
二人で部屋に入るが、ドアは閉めない。先日は、一応ドアを閉めたが、秘密ではないミーティングをする場合には、必ずそうする事にしている。別に、シエラに対して何かあるというわけではないのだが、これは何か不測の事態が生じた時のための対処策の一つだ。相手の性別は特には関係ない。そういう事は滅多にないが、私と研究員のメンバーが一対一の二人きりで入室して、そこでどちらか一方が何らかの事故で怪我をしたり、病気などで急に倒れたり、救護や何らかの治療を必要とした際、すぐに外にいる人間に助けや応援を求められるようにという配慮である。また、応援を求める前に、室内の音や声を聞かせる事も、目的の一つである。しかし、相手が女性である場合には、特にセクシャル・ハラスメントという問題が起こらないようにするためでもある、というのは事実だ。相手が同性で部下であるなら、パワー・ハラスメントも有り得る事態だ。もっとも、私はそれをする気はないのだが、そういった疑いを持たれないよう配慮するのは、当然のことだと思っている。自衛でもあり、相手のためでもある──と自分では思っているのが、第三者の意見は異なるかもしれない。別にアスト社内ではそうするようにとの通達や決まりがあるわけではなかったが、そうした方が良いだろう、と思ってそうすることにしている。実際、他社では既に実施、実践されていることだ。我が社は少々、その手のシリアスでデリケートな問題は、棚上げにされている観がある。おそらくは、そういう問題が表面化し、問題視された事が一度もないというのが、その理由だろう。だが、表沙汰にならないからと言って、それが存在しないとは、私は思わない。どのような事態も、それがシリアスでデリケートであればあるほど、複雑・巧妙化し、隠蔽されやすい。それだけに、それが表に現れた時のダメージは大きいのだ。判明した時には、既に手遅れになっている。そういうものだ。会社の意向がどうであろうと、私は揉め事や面倒事は、なるべく避けたい。そのような事が起こる可能性もできるだけ排除したいと思っている。起こらずに済むなら、それに越したことはないのだ。平穏無事が何より一番大切だ。
向かい合って椅子に腰掛けながら、私は言った。
「君は先日、アイクに『趣味』を作ってやったらどうか、と提案していたね?」
シエラも椅子に腰掛け、引きながら答える。
「はい。現在アイクは八歳の少年と設定されています。しかし、もう少し詳細なプロフィールを作ってあげた方が、もっと人間味が出るのではないかと思うのです」
「……人間味、か」
相手は人工知能で、スーパーコンピューター内に存在する複数のプログラムの内の一つだ。しかし、アイクに擬似的な感情や心情を持たせるには──少なくとも、人間にそうだと錯覚させるためには──『人間味』は重要な要素だと思う。アイクへの、あるいはその相手である我々の間に、共感・同情などの感覚を呼び起こさせるためには、我々をではなく、アイクの方を人間に近付ける必要がある。アイクは人間に歩み寄る方法などは持たないから、人間が、つまり我々が手を加えてやらねばならない。
「勿論、皆のアイクですから、私の一存だけで彼のプロフィールを作るのは、問題があると思います。ですから、皆それぞれに彼のプロフィールを考えて話し合うのが一番良いと思います。アイクに登録された単語や文章表現は、現在四万語を超えましたが、まだ彼には人間らしさが不足しています。私の知る限りでは、随分表現方法や使用する言葉は増えたと思いますが、アイクの表現には『薄さ』と『違和感』を感じてしまうのです。勿論、アイクのことは可愛いと思っていますが、物足らなさを感じてしまいます。私はアイクにもっと『厚み』と『深さ』を与えてやりたいのです。人間なら大抵、趣味があります。自分では無趣味だと言う人間ですら、よくよく話を聞いてみると、何らかの興味や好奇心を抱いている事物があったりします。本人に自覚がなくても、人間は、何かに、あるいは誰かに、興味を抱かずにはいられない生き物なのだと、私は思います。ですから、アイクに趣味を与えたいのです」
「良く判るよ。私も全く同感だ。人間が一人で生きることは不可能だ。誰にも何にも興味を抱かずに生きられるほど、人間は強くもないし、弱くもないと思う。それが摂理だと私も思う。でも、そうだな。八年もアイクのそばにいたのに、彼に趣味が必要だとは、気付かなかったな。これは、実に迂闊だった。有り難う」
「……そんな。私の意見なんて、些細な事です。私は、この研究室に在籍してはいますが、正直言って、プログラミングとかは少々苦手ですし……そういう点で言えば、リカルドやロルフの方が確実に優秀です」
「……そう思っているのかい?」
「ええ。でも、悔しいから本人の前では言ってやりませんけど」
と、シエラは笑った。
「それに、リカルドは本当にやる気になれば、十分すぎるくらいやれるのに、彼はいつも不真面目で、弛んでいます。先日なんて、妙に静かだと思ったら、端末の前で居眠りしてたんですよ? 私が声をかけなかったら、いつまで寝ていたことやら」
「……もしかしたら、彼はあまり寝てなかったのかも知れないよ? アイクに付与する新しいプログラムについての書類を作成していたようだから」
「……え? やだ、それ、本当ですか? 室長」
「先日のミーティングの前に、私に書類を提出してくれたからね。その時点で細かい仕様なども全て記述されていた。とても見やすくて判りやすい文書だったよ。ただ、ミーティングの際には、もっと完璧な資料を作成したいからと、それは破棄したんだ。彼がそう望んだからね」
「……そんな。私、そんな事知りませんでした」
「リカルドは恥ずかしかったんじゃないかな? たぶん彼も、仕事中にうたた寝はしたくなかったんだよ。私は、そう思うね」
「……それなら言ってくれれば良いのに。そうしたら、あんなに怒鳴ったりしなかったわ。室長から教えていただいて初めて知るなんて、私の気持ちも少しは考えてくれれば良いのに」
「彼も男だから、きっと女性の前では格好付けたいんだ。変な意味では無くね」
「そういうものですか?」
シエラは理解できない、という顔で尋ねる。
「私、彼にはどう考えても嫌われているとしか思えないんですけど」
「そんな事はないよ、シエラ。リカルドは嫌いな相手と会話できる程、器用な男じゃない。社会人としては、かなり問題ではあるけどね。君の事が本当に嫌いなら、君に何を言われても、返事もしないよ。これはオフレコだが、彼は前にいたチームでは、上司とは一切口を利かなかったらしい。それじゃ仕事はできないからね。私は彼が非常に無口な男だと聞いていたから、本人に会った時には、とても驚いたよ。それこそ、今の君以上にね」
「……リカルドが無口だなんて、ユージンが楽観主義者だなんていうようなものですわ。でも、そういうリカルドを一度だけ見たかったような気もしますけど」
「私はごめんこうむるよ。想像しただけで、背筋が凍る」
そう言うと、シエラは笑った。
「そうですね。ちょっとそれは、不気味かも」
その笑顔を見て安堵しながらも、私は念のため、彼女に尋ねた。
「……ところで仕事とは関係ない話なんだが」
「え?」
シエラは驚いたように目を見開いた。
「最近、プライベートで何かあったのかね? どうも睡眠不足が続いているのではないかと思うのだが」
すると、シエラは真っ赤になった。
「え? やだ、隈でも出来てますか?」
ああ、なるほど、と心の中で頷く。別に何か確証があったわけではないが、図星だったらしい。ほとんど山勘と言って良かったのだが。その反応からすると、実際何かあったらしい。
「……もし、良ければだが、話を聞こうか? それとも、まずいようなら……」
「あ、いえ。たいしたことないんです。ただ、飼っていた猫が、最近風邪を引いて。大丈夫だとは思うんですけど、老齢なので、ちょっと心配で。病状が悪化したとか、そういうことはないんですけど、気になって夜中に何度も様子を見てしまうんです。こんなの、本当、私事で、室長に心配かけるほどの事ではありませんし、それが表に出るなんて……リカルドのこと、言えませんね、私」
「いいや。そんなことはないよ。老齢ってことは、長い間飼っているのかい?」
「はい。私が……そうですね、高校生の頃からです」
「高校生? そうか。それは、とても可愛いだろうね?」
「はい。もう、十歳を超えているので、もうすっかりおばあちゃんなんですけど、良く食べるものだから、猫とは思えないくらいの肥満なんです。後ろから見たら、子犬かと思ってしまう人もいるくらい」
「そうなのか。一度、写真が見てみたいな。構わないかい?」
「はい。じゃあ、今度、写真をお持ちします」
「いや、無理にとは言わないよ。君が良かったらで良い」
「かまいません。ただ、ちょっと太りすぎて、可愛くは見えないかも知れませんけど」
「私は、犬も猫もとても好きだよ。しかし、犬みたいな猫というのは、見たことがないのでね。とても興味がある」
すると、シエラはくすくす笑った。
「……室長。さすがに正面から見て犬には見えません」
「そうか。じゃあ、後ろからと正面からと、両方の写真を見せて貰わないと判らないな」
「判りました。今度、後ろからの写真も撮ってみます」
「そうしてくれると有り難い。すまないね?」
「いいえ、良いんです。私、後ろからの写真を撮ろうなんて思ったことなかったから、たまには良いと思いますし。正面から撮影するより簡単です」
「そうか。なら、良かった。さて、そろそろ部屋へ戻ろうか?」
「はい、室長」
戻ると、ラダーが変な顔で私を見ていた。リカルドはぺこりと頭を下げた。
「すみません、珈琲、豆を切らしちゃってて。今、総務から貰ってきたところで」
「私は別に良いよ」
私は笑い、シエラも、
「別にそれくらい、ちっとも構わないわよ。でも、入れてくれるって言うんなら、有り難く飲んであげても良いわよ?」
と言った。リカルドは、うげ、という声を上げたが、
「判った、今入れるよ。……全員分作った方が良いよな? 今、いないやつも含めて」
と、リカルドが言うと、ユージンは唇を綻ばせて言った。
「今日は、俺の分はカフェオレにしてくれるかな?」
「なんだよ、いつもブラックだろ?」
「今日の気分はカフェオレなんだ」
「……また変な占いの本とか見たのか?」
リカルドが怪訝そうな顔で言うと、
「そういう言い方することないだろう。あれも意外と当たるんだから」
と、ユージンは答えた。
「……意外とってのが、似非臭いと思うがな」
と、リカルドはぼやいた。ラダーが何か言いたそうな顔で、私の顔を見ている。それに気付いて、私は彼に歩み寄った。
「何だ? ラダー、何かあったのか?」
「そりゃあ、こっちの台詞だよ。……一体どんな手段を使ったんだ?」
と、ちらりとシエラに視線を走らせる。シエラは鼻歌でも歌いそうな上機嫌で、端末の前に腰掛け、何かの書類をトントン、と揃えている。
「……内緒だ」
私がそう答えると、ラダーは胡散臭げに私を見た。