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孤高の天才  作者: 深水晶
第一部 嵐の予兆
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第十四話 母

「ところであんた、本当に体調は平気なのかよ?」

「そうは見えないかね?」

「……いや、不気味なくらい好調そうには、見えるけどさ……」

 嫌そうな顔で、ラダーは言った。何故、そんな顔して言われなくてはならないのだと言いたかったが、気分が良かったので、まあ、別に良いかと思うことにした。ラダーには本当に冗談抜きで感謝していたので。私では、ルグランにあれほどまでにぎゃふんと言わせてやることは不可能だろう。

 彼があのように狼狽した姿は、これまで一度も見た事がない。それだけに、恨まれ方もこれまで以上に深くなるだろうが、そんなことは今、知ったことではない。何かされたら、その時考えれば良いと、楽観的に考えていた。いくらルグランが私を憎んだとしても、私の父方の親族達のように、私を犯罪・暴力的な手段によって、この世から抹消したいとまでは、思わないだろう。彼には社会的立場がある。それを失ってまで、私を排除したり嫌がらせしたいとは、露程にも思わないだろう。彼は決して愚かな人物ではない。その点、信用し、安心しても良いわけだ。

 いくら私が鈍い人間とは言え、二度も三度も、時間を掛けてなぶり殺しにされるのは、遠慮したい。一度経験したからこそ、つくづく思うのだが、あんな思いをするくらいなら、一瞬で殺してくれた方が、痛みも苦痛も感じずに済んで、有り難い。監禁されて食事を与えられず、大量の水を幾度も飲まされながら、その合間に受ける暴行は、かなりキツかった。

 病などには頑健さを誇る私だが、肉体的に自分の身体を鍛えるということ全般において、全く苦手で不得手であるため、殴られたり蹴られたりという事は、非常に苦手だ。刃物や鈍器などの凶器は一切使用されなかったが、使用されてもされなくても、苦痛は同じだったような気がする。しかし、あれほどまでにえげつない事をする人間が、この世にそうも氾濫しているとは思わなかったので、私は全くそれが後遺症になる事なく、日常を過ごしているのだが、自称『ガラスのハート』の親友ジェレミーにとってはそうでは無かったらしい。今でも、酒を飲むと、くどくどと口説かれる。いい加減忘れてくれると良いのに、と思う。私のためにも、彼自身の平穏のためにも。そう言うと、間違いなく「誰のせいだと思ってるんだ!」と、頭ごなしに叱られるのだ。

 実を言うと、親族達がとち狂って、あのような凶行に及んでくれたことを、私は密かに感謝している。無論、痛い目に遭うのは好きではないが、それが発覚し、関係人物が全員逮捕されてくれたおかげで、凶行に及ばなかった親族達も、私に近寄らなくなってくれたのだ。父のことはとても愛していたし、尊敬していたが、父の親族達については、ついぞ敬意も愛情も感じることができなかったので、波が引くように彼らが私の目の前から去ってくれたことは、本当に有難かった。このまま一生涯、目の前に現れてくれないことを、神に祈りたいくらいだ。父の──その姉である私の生母の──親族達にとって、私は一族の厄介者で、汚点とされていたようだった。父の生家はあまり裕福ではなく、その親族達もそうであったが、父の成功により、そのおこぼれを預かっていた。彼ら親族達が言うには、私の生母は『浮かれ女』で、行きずりの男に身を任せたりするような『ふしだらな女』で、貞淑さの欠片もない、『恥を知らない女』であったそうだ。私はその生母本人のことを良く知らないし、父も彼女については何も話してくれず、父の亡くなった妻だけが私の母だとされていたので、私は親族の口から聞かされた以外の母の情報を知らない。だが、私は生母がどのような人物だったかなどといったことには、まるで興味が無かった。

 親友ジェレミーには、「お前はそれで良いのかよ?」と呆れられたが、見知らぬ他人がいかなる人物であっても、私には関係ない。そもそも、生母にせよ義母にせよ、私は母の愛情というものを、全く知らないため、それが必要だとも思わなかった。私には父がいたし、父さえいれば、母親の存在などは、どうでも良かった。ジェレミーにそういった話をすると、沈痛な表情などされて、私以上に深く悩み傷付いてしまうので、私と彼の間では、母親に関する話題は禁句だった。確かに彼は『ガラスのハート』の持ち主だと思う。他人のことに、そこまで感情移入する能力は、私には無い。大変申し訳ないとは思うが、ジェレミーがひどく落ち込み悩んでいても、私には通り一遍等の月並みな言葉しか思いつかず、それくらいならと、彼が立ち直るまで、そっとしておく事にしていた。私が何を言ったとしても、彼を更に傷付けるしかないだろうと、判っていたから。つくづく『ガラスのハート』などを持って生まれてしまった親友を、気の毒に思うのだが、これは間違いなく余計なお世話というものだろう。私は、主人に「待て」と言われて、「よし」と言われるまで待つ忠犬のように、じっと静かに待った。ジェレミーは私に「何か慰めを言え」と強要したりしなかった。今思うと、それはとても有難いことだったのだろう。私は彼の好意に甘えている。誰かが泣いていたとしても、私は慰め方などは知らない。私自身が、それを必要としていないということもあるし、それ以前に経験が絶対的に不足しているのだ。

 ラダーが、先程泣き出したりしなくて、本当に良かったと思う。そうなれば、私の手にはとても負えなかった。大変申し訳ないとは思うのだが、私は正直、そんな風に泣いた事など、三十一年間ただの一度も経験がないのである。したがって、彼の気持ちなど理解できないし、理解したくとも何故そうなるのかが、まるでちっとも理解できないのだ。不適切なことを言って、更に傷付け泣かせることは明白だ。嫌われたり憎まれたりするのは、別に全く気にならなかったが、誰かを傷付けたり泣かせたりするのは、非常に困る。困る以上に、胸が痛い。泣いたりはしないが、苦痛を感じる。脳裏に泣いた父の顔が浮かんで、罪悪感でいっぱいになる。原因・理由など関係ない。私は単に、自分の前で他人が泣くという状況だけが嫌なのであって、それ以外の場所で何をどうしようと、まるで気にはならなかった。

 人間として何か重要なものが欠けているのだろう。誰が泣こうが傷付こうが、私には理解できなかった。理解したいと思ってはいるのだが、何故、そうなるのかがどうしても理解できない。私がこの世に生まれてきたこと、存在していることそのものが、不適切で誤りであるようにも感じる。だからといって、私は生きていたくないとはついぞ思った事はないし、自分が死ななくてはならないなどとも思った事はない。私は誰のことも愛していなければ、愛される資格などもないのかもしれない。だが、そんな事は人の生死や未来には、まるで関係のないことだと思う。それを重要だと考える人間には、私という人間ほど、不適切で最低で最悪な人間はいないのだろうが、だからと言って他人に「死んでくれ」と言われて、命を絶ったりするほど親切にはなれなかった。

 基本的に私は身勝手でわがままな人間なのだろう。自覚していても、直らないのだから、たぶんこれは私が一生抱えていく問題だ。私は誰のことも理解できないし、たぶん私の正確な心情を誰か他人に伝え切り理解してもらうこともできないだろう。私はそれを辛いとは思わないし、そうされたいとも思わない。私は冷淡で冷酷で、酷薄で残酷な人間なのだろう。そう罵倒されることに異議はないし、むしろそうされて当然だと思う。したがって、私のような人間が温和だの温厚だの優しいなどと思われるのは、逆に負担を感じるくらいなのだが、だからと言ってやめてくれと、自分の不実さ、不誠実さを、誰彼かまわず打ち明けて、許しを請うなどといったような事もできなかった。私は優柔不断で、臆病で、小心者だった。少なくとも、誰にでもこんな自分を認めてもらえるとは思えなかったし、そうされたいとも思わなかった。ならば、心の奥底に秘めて、穏便に日常生活を過ごした方が得策だろう。自己防衛というよりは、煩わしい事態を避けるためだ。糾弾されるのは苦ではないが、それによって仕事や日常生活に支障をきたすのは、あまり有難くない。逆を言えば、そういった問題さえなければ、誰に何をどう思われようと言われようと、関係ない。

 私の周囲にいる人々は皆、善良で親切で温厚で、とても優しい。幸せな環境だ、と思う。だから、自分が彼らにできることならば、何でもしてやりたいと思う。理解はできなくとも、可能なことはいくらでもある筈だ。頼りない上司ではあるが、彼らの信頼にある程度貢献できる程度の能力はある筈だと思う。そうでなければ、役職ごと職務を辞退して、引き篭もった方がましだ。しかし、そうなってしまうと、私が常日頃気にかけている人工知能アイクとは関われなくなってしまうわけで、それは困ると少々思う。

 だが、おそらくは、離れてしまえば、何よりも愛しんでいると思うアイクのことですら、私は簡単に忘れてしまうのだろう。幸い、アイクにはそれに傷付いたりする感情や機能がないのが、せめてもの救いだと思う。アイクに懇願されたら──そういった能力があるとするならだが──どんなに強い決心も揺らいでしまいそうな気がする。私にとってアイクは、生活の半分以上を占めていた。

「そう言えば、ラダー。今、研究室はどうなっている?」

「……あー……その、アンリが泣きながら資料室へ行って戻って来なくなって、ロルフ主任がシエラ命令で部長室へ向かった後、連絡取れなくなって、リカルドとユージンが、シエラと一緒に、アイクのプログラムの調整やってる」

「…………」

 思ったより事態は深刻なようだった。

「では、すぐ戻らなくてはならないな」

 エレベーターを降りて、早足で研究室へ向かいながら、私は言った。

「俺もそう思う。……けど、あれ、本当にどうにもならないのか?」

「……シエラのことか?」

「も、あるけど、あの狸ジジイ。何かあの後、三回内線が鳴って、その内二回はシエラが取って、なんかすげぇ怒鳴ってたけど、最後の一回はロルフが取ってさ。なんか必死に平謝りしてたぜ?」

「……そ、それは本格的にまずいな」

 思わず口篭ってしまった。ラダーは肩をすくめて言った。

「何も知らない俺でさえ、そう思うからな。アンリが逃げ出すのも仕方ないと思うぜ? でも、あいつ本当何処へ行ったんだろう。すぐ戻って来るかな?」

「……たぶん社内のどこかで泣いてるんだと思う。そっとしておいてやれ。探したりしない方が良い」

「……探さなくて良いのかよ?」

 ラダーは呆れたような顔になった。

「いつもそうしてるんだ。大丈夫、ちゃんと戻って来て、自分の職分は全うするよ」

「……あんたの部下、善良だとは思うけど、問題人物ばっかだな?」

「…………」

 たぶん、そのために、他から回されてきた者もいるのだということは、黙っておこう。その代表者がシエラなのだが。

「皆、悪気はないんだよ。ただ、それぞれ一生懸命なんだ」

「そりゃ判るけど、あんた上司なんだろ? もうちょっと、なんとかできないのかよ?」

「努力はしているつもりだがね」

 嘆息した。

「力が及ばないのは、自覚している。とりあえず、フォローは私がするから、お前は全く気にする必要はない」

「あ、なんだ。フォローはするのか。そんなら、俺の口出すことじゃなかったな。どんなフォローだかは、気になるとこだけど」

「それも含めて、お前は何も気にしなくて良いから」

「判ったよ、室長」

 我が研究室の前だ。気分を落ち着けるために、深呼吸してから、IDカードで部屋のドアのキーロックを解除した。

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